『存在と時間』を読む Part.63

 第3章 現存在の本来的で全体的な存在可能と、気遣いの存在論的な意味としての時間性

  第61節 現存在にふさわしい本来的な全体存在の確定から始めて、時間性を現象的にあらわにするまでの方法論的な道程の素描

 ここから第2篇第3章に入ります。これまで現存在の本来的で全体的な存在可能について、実存論的な構想を立てることを試みてきました。この章は、第1章で考察された〈死に臨む存在〉と、第2章で考察された良心の根源的な働きについての考察とを、時間性によって結びつけることを目指しています。
 まず〈死に臨む存在〉の本来的な意味は、”先駆すること”であることが明らかにされました(Part.54参照)。そこで解明されたのは、現存在は死へと先駆する存在者でありうること、現存在は「みずからにもっとも固有な存在可能に向かってみずからを投企する」のであり、それによって「”本来的な実存”の可能性」を実現することができるということでした。そしてこの先駆のありかたにおいて、現存在に固有な死についての5つの重要な規定が明記されました。
 その規定とは、死とは〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉であるということです。これらの5つの規定のもとで、死は現存在にとってはもっとも極端な存在可能であるとともに、現存在にとって特権的な意味をもつ出来事となることが指摘されていました。
 さらに、現存在の本来的な存在可能が”決意性”であることが示されました。決意性とは選択を選択することであり、そうすることにおいて現存在は初めてみずからの本来的な存在可能をみずからに可能にします。しかし現存在は日常性のうちに頽落しているために、このような決意性をもつことはたやすいことではありません。そこで必要とされるのが、”良心”の働きであり、第2章はこの良心の機構についての考察を中心としていたのでした。
 このように、これらの2つの章において、現存在の全体存在可能を実存論的に考察するためには、「死への先駆」と「決意性」という2つの現象が枢要な役割をはたすことが明らかにされました。しかしこの2つの現象はそれ自体では、まったく独立した別個のもののようにみえます。これらの現象を統一する視座が欠如したままでは、現存在の全体存在可能の考察も、その実存論的な解明も遂行できないでしょう。そこでこの節は、これら2つの現象を統一するための視座を獲得することを目指しています。

 それではこの2つの現象はどのように結び付けられるのでしょうか。

Noch bleibt als methodisch einzig möglicher Weg, von dem in seiner existenziellen Möglichkeit bezeugten Phänomen der Entschlossenheit auszugehen und zu fragen: weist die Entschlossenheit in ihrer eigensten existenziellen Seinstendenz selbst vor auf die vorlaufende Entschlossenheit als ihre eigenste eigentliche Möglichkeit? (p.302)
方法論的に可能な唯一の道は、実存的な可能性が証明されている決意性という現象から出発して、次のように問うことである。すなわち”決意性そのものが、そのみずからにもっとも固有な実存的な存在傾向そのものにおいて、先駆的な決意性をあらかじめ指し示しており、しかもそれをみずからのもっとも固有な本来的な可能性として指し示しているのではないだろうか”と問うことである。

 死への先駆と決意性という2つの現象を結びつけるために「方法論的に可能な唯一の道」は、現存在の実存の考察によって「実存的な可能性が証明されている決意性という現象」から出発して、現存在はこの「選択を選択する」際にどのようなことを決断するのかと問うことです。この決意性としての「選択の選択」は、現存在の実存に真の意味でかかわるものであり、「死に臨む存在」としての先駆性にかかわる実存的な決断なのです。
 ある決断がこのような実存的な決断となるのは、現存在が自己の死に臨んで、自己に固有な存在可能に向けて決断を下す場合です。この決断こそが、「”先駆的な決意性”」を示す決断であり、現存在のもっとも極端な可能性に向かって投企するものです。

Wenn sich die Entschlossenheit ihrem eigenen Sinne nach erst dann in ihre Eigentlichkeit gebracht hätte, sobald sie sich nicht auf beliebige und je nur nächste Möglichkeiten entwirft, sondern auf die äußerste, die allem faktischen Seinkönnen des Daseins vorgelagert ist und als solche in jedes faktisch ergriffene Seinkönnen des Daseins mehr oder minder unverstellt hereinsteht? (p.302)
決意性は、そのつどもっとも身近にある恣意的な可能性に向かってみずからを投企するのではなく、現存在のあらゆる事実的な存在可能に先立っているもっとも極端な可能性に向かって投企するのである。すなわち決意性は、現存在がそのつど事実的に選択しているすべての存在可能のうちに、多かれ少なかれ紛れもなく入り込んでいるある可能性へと向かって投企するのである。そしてそのとき決意性は、みずからに固有な意味において、初めてもっとも本来的なものになる。

 現存在は自己の死の可能性に向かって、自己がすでに死に直面しているかのように、つねに次の瞬間に死を迎えることを覚悟して、決断を下すのです。もしも今日死ぬのであれば、わたしたちはもはや日常的な事柄に気を回すのをやめるでしょうし、死ぬのが今日ではなく半年後であるとしても、それが確実なものであることが納得できれば、わたしたちは自分の一生がどのようなものであるべきかを選択することを強いられるでしょう。死に直面した人は、自分の可能性が不可能になるということにおいてみずからの存在の尊さに気づき、自分がその尊さにふさわしいような本来的な生き方をしてきたのかどうか、自問することになるかもしれません。そしてその人にまだ猶予が残されているなら、自分の最高の存在可能を、限られた期間のうちに実現しようと試みることになるでしょう。

Wenn die Entschlossenheit als eigentliche Wahrheit des Daseins erst im Vorlaufen zum Tode die ihr zugehörige eigentliche Gewißheit erreichte? Wenn im Vorlaufen zum Tode erst alle faktische >Vorläufigkeit< des Entschließens eigentlich verstanden, das heißt existenziell eingeholt wäre? (p.302)
決意性は、現存在の”本来的な”真理であり、その決意性は、死へと先駆することによって、初めて”それにふさわしい本来的な確実さ”を獲得するのである。死への”先駆”において、決意のあらゆる事実的な”「先駆という性格」”が初めて本来的に理解され、実存的に”取り戻される”のである。

 先駆的な決意性とはこのように、もしも死が今この瞬間に訪れたならばという死の疑似的な経験から、来るべき自分の死の瞬間へと思考のうちで先駆すること、そして本来の自分の存在可能について思いをいたして、非本来的な生き方を変えようと決意することだと言えるでしょう。

 以下では、この第3章の構成について、簡単に見当をつけてみましょう。
 このような先駆的決意性の瞬間には、「決意性は、みずからに固有な意味において、初めてもっとも本来的なものになる」でしょう。このとき「死への”先駆”において、決意のあらゆる事実的な”〈先駆という性格〉”が初めて本来的に理解され、実存的に”取り戻される”」ことになるでしょう。このテーマを考察するのが、次の第62節です。
 このような現在の瞬間において、ありうべき死に直面することで、現存在の実存という観点から決意性と先駆性を結びつけることが可能になります。しかしこのようにして結びつけられた「先駆的な決意性」について考察する方法は、あくまでも実存論的に考える方法を取らなければなりません。そのためには現存在の存在様式について実存論的な解釈をつづけなければならないのであり、その解釈は実存という理念に導かれる必要があります。すなわち、先駆と決意性の結びつきを問うにあたっては、これらの実存論的な現象を、それらについてあらかじめ素描されている実存的な可能性に向かって投企することが求められるのです。このテーマを考察するのが、第63節です。
 そのために必要なのは、先駆も決意性も、現存在における「気遣い」という性格をそなえていることに注目すること、そしてこの気遣いの根底にある「自己」という性格について考察することです。というのも、現存在は不断に自己であるような存在者だからであり、この実存する自己の存在が気遣いとして把握されているからです。このテーマを考察するのが、第64節です。
 この考察によって明らかにされるのは、気遣いという現象は、そして先駆性と決意性という2つの現象は、いずれも時間性を根底としているということです。死への先駆が時間性と密接な関係にあるのは明らかですが、決意性という現象もまた、時間的な構造によって初めて可能になるのです。そして先駆的な決意性のもつ時間性は、時間性そのもののもっとも傑出した様態であることが確認されることになります。このテーマを考察するのが、第65節です。
 このようにして先駆的な決意性の時間性としての性格が明らかになるとともに、現存在の実存論的な分析における時間性の重要性と、通俗的な時間概念の限界が明確に示されることになるでしょう。このテーマを考察するのが、第66節です。


 第62節 先駆的な決意性としての現存在の実存的で本来的で全体的な存在可能

 互いに異なるものである先駆性と決意性は、どのようにして結びつけられるのでしょうか。この2つの現象の内的な関連のうちから、それらの現象を結びつける絆をみいだす必要があります。
 すでに考察してきたように、先駆性とは、死への不安に襲われて、わたしという自己に固有の〈終わり〉としての自己の単独な死に直面するために、将来において来るべき死に先駆けることでした。現存在は先駆することで単独者となり、この単独なありかたのうちで、みずからの存在可能の全体性を確実なものとします。「先駆とは、”みずからにもっとも固有の”もっとも極端な存在可能を理解することができるということであり、”本来的な実存”の可能性ということである」(Part.54)。
 また決意性とは、「もっとも固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながらみずからを投企すること」(Part.62)でした。現存在は何を決意するのかというと、この〈もっとも固有な負い目ある存在〉へとみずからを投企すること、すなわちみずからの存在の根源的な負い目を引き受けようとすること、そしてみずからの究極の存在可能に向かって実存することを決意するのです。この負い目を引き受けることができるためには、現存在はみずからの存在可能を、その最後にいたるまで理解しなければなりません。ここに、死への先駆と決意性の結びつきが発見できるのです。

Sie birgt das eigentliche Sein zum Tode in sich als die mögliche existenzielle Modalität ihrer eigenen Eigentlichkeit. (p.305)
”決意性はみずからのうちに本来的な〈死に臨む存在〉を蔵しているのであり、しかもそれをみずからに固有の本来性に可能な実存的な様態として蔵しているのである”。

 決意性が抽象的なものではなく、本来的あるいは非本来的なありかたとして実現されるためには、自己の死に向かって先駆していなければなりません。それではこの決意性の「実存的な様態」はどのようにして可能になるのでしょうか。

 決意性とは、みずからにもっとも固有な負い目ある存在に向かってみずからを呼び覚まされることでしたが、〈負い目ある存在〉は、現存在の存在に属するものです。ところで現存在は実存するものとして、不断にみずからの存在可能を存在するのですから、この〈負い目ある存在〉は、本来的に負い目あるものとして存在するか、非本来的に負い目あるものとして存在するかを決める実存的な可能性を意味します。したがって決意性は、〈負い目ある”存在可能”〉に向かってみずからを投企することであり、この存在可能からみずからを理解することになります。そしてこの理解が本来的なありかたをするのは、決意性が根源的なものとなっている場合でしょう。

Das ursprüngliche Sein des Daseins aber zu seinem Seinkönnen enthüllten wir als Sein zum Tode, das heißt zu der charakterisierten ausgezeichneten Möglichkeit des Daseins. Das Vorlaufen erschließt diese Möglichkeit als Möglichkeit. Die Entschlossenheit wird deshalb erst als vorlaufende ein ursprüngiches Sein zum eigensten Seinkönnen des Daseins. (p.306)
ところで現存在がみずからの存在可能にかかわる根源的な存在であることを、わたしたちは〈死に臨む存在〉として明らかにしてきた。それは現存在のもっとも際立った可能性にかかわる存在のありかたである。先駆はこの可能性を可能性そのものとして開示する。このように決意性は、”先駆する決意性”となったときに初めて、現存在のもっとも固有な存在可能にかかわる根源的な存在となる。

 現存在は、先駆的な決意性によってみずからの究極の可能性である死に直面します。このとき現存在は自分が死すべき存在であることを、すなわちみずからの無としての性格を、みずからの実存において本来的に引き受けるようになります。現存在はその存在からして、〈無であること〉に根源的に貫かれています(Part.59参照)。本来的な〈死に臨む存在〉は、この無性を現存在自身にあらわにするのでした。

Das Vorlaufen macht das Schuldigsein erst aus dem Grunde des ganzen Seins des Daseins offenbar. Die Sorge birgt Tod und Schuld gleichursprünglich in sich. Die vorlaufende Entschlossenheit versteht erst das Schuldigseinkönnen eigentlich und ganz, das heißt ursprünglich. (p.306)
先駆は、現存在の”全体的な”存在の根拠のうちから、初めて〈負い目ある存在〉をあらわにする。気遣いには、死と負い目とが、等根源的なものとして含まれている。先駆する決意性によって初めて、〈負い目ある存在可能〉が”本来的かつ全体的に”、すなわち”根源的に”理解されるようになるのである。

 このように先駆的な決意性によって、現存在は本来性と全体性を理解することができるようになると考えられていますが、そうであるなら、決意性には〈死への先駆〉において考えられる死の実存論的な5つの性格にあてはまるような存在傾向をもっていることが明らかにされるべきでしょう。この性格とは、〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉という5つの特徴のことです(Part.54参照)。これについては、これまでの考察を踏まえながら1つずつみていきましょう。

 死の1つ目の特徴は、それが現存在の”もっとも固有な”可能性であることでした。現存在は世人のうちに頽落しているのでしたが、良心の呼び掛けが理解されることによって、決意性は現存在を、そのもっとも固有な自己の存在可能へと連れ戻します。

Eigentlich und ganz durchsichtig wird das eigene Seinkönnen im verstehenden Sein zum Tode als der eigensten Möglichkeit. (p.307)
このもっとも固有な存在可能が本来的に、そして完全に見通しのよいものになるのは、〈死に臨む存在〉においてであり、また死こそがみずからに”もっとも固有な”可能性であることを理解するときである。

 このように決意性は、死の第1の特徴にあてはまる傾向がそなわっていると言えるでしょう。

 死の第2の特徴は、現存在を単独化して”関係を喪失する”ものであることです。良心の呼び掛けは、呼び起こしにおいて現存在の世間的な名声や能力などをすべて素通りします。呼び掛けは現存在を単独化して、みずからの〈負い目ある存在可能〉へと向かわせ、本来的にその存在可能を存在するように迫るのです。

Die ungebrochene Schärfe der wesenhaften Vereinzelung auf das eigenste Seinkönnen erschließt das Vorlaufen zum Tode als der unbezüglichen Möglichkeit. Die vorlaufende Entschlossenheit läßt sich das Schuldigseinkönnen als eigenstes unbezügliches ganz ins Gewissen schlagen. (p.307)
現存在は本質的に単独化されて、そのもっとも固有な存在可能へと向き合わされるのであるが、その弛まぬきびしさが開示されるのは、”無関係である”ことの可能性として死へと先駆することによってである。先駆的な決意性は、〈負い目ある存在可能〉を、現存在にもっとも固有な無関係なものとして、良心のうちにあますところなく刻み込むのである。

 「無関係な」というのは、他者とは無関係なということであり、現存在は死の前に単独化されるのです。決意性は、死の第2の特徴にあてはまる傾向をもっているといえるでしょう。

 死の第3の特徴は、それが〈追い越すことのできない〉可能性であることでした。決意性は、〈負い目ある存在〉へと呼び起こされる用意があることですが、この〈負い目ある存在〉は、すべての事実的な過誤に先立って、そしてそれが何らかの形で償われた後になっても、現存在を規定しつづけるものです。

Dieses vorgängige und ständige Schuldigsein zeigt sich erst dann unverdeckt in seiner Vorgängigkeit, wenn diese hineingestellt wird in die Möglichkeit, die für das Dasein schlechthin unüberholbar ist. Wenn die Entschlossenheit vorlaufend die Möglichkeit des Todes in ihr Seinkönnen eingeholt hat, kann die eigentliche Existenz des Daseins durch nichts mehr überholt werden. (p.307)
この先行的で不断の〈負い目ある存在〉がその先行したありかたを明確にしながら初めて隠蔽されずに示されるのは、現存在にとって端的に”追い越すことのできない”可能性のうちに、この先行的なありかたが取り入れられることによってである。決意性が先駆しつつ、みずからの存在可能のうちに、死の可能性を”迎えいれた”ときにこそ、現存在の本来的な実存は、もはや何によっても”追い越される”ことがありえなくなるのである。

 決意性が死の可能性を理解するとき、「現存在の本来的な実存は、もはや何によっても”追い越される”ことがありえなくなる」のであり、全体的な存在可能を理解することができるようになります。決意性には、死の第3の特徴にもあてはまる傾向をもっているといえるでしょう。

 死の第4の特徴は、それが”確実な”可能性であることでした。決意性の現象によって、実存の根源的な真理の問題に直面することになりました(Part.62参照)。決意した現存在は、みずからのそのときどきの事実的な存在可能において、現存在自身にあらわになっているのであり、そのときには現存在はみずからこの〈あらわにすること〉であり、〈あらわにされること〉でもあります。この開示されたものや露呈されたものを明示的にわがものにすることが、確実であることです。

Die ursprüngliche Wahrheit der Existenz verlangt ein gleichursprüngliches Gewißsein als Sich-halten in dem, was die Entschlossenheit erschließt. Sie gibt sich die jeweilige faktische Situation und bringt sich in sie. (p.307)
実存の根源的な真理は、それと等根源的な〈確実であること〉を求めるのであり、この確実であることとは、決意性において開示されているもののうちに、みずからを保持することである。決意性は、そのときどきの事実的な状況をみずからに”与え”、こうした事実的な状況のうちにみずからを”もたらす”。

 このような決意性にともなう確実さとは、決断によって開示されたもののうちに、「みずからを保持すること」です。この>Sich-halten<の>halten<には「保持する、引き止める、行う」という意味があり、ここでは自己を維持する、ありつづけるというようなニュアンスをもっており、この確実さは世人自己ではない固有な自己において開示することを意味します。
 「状況」という概念はPart.62で登場していましたが、これは「そのつど決意性において開示されている〈そこに現に〉であって、実存している存在者はそのような〈そこに現に〉として、そこに現に存在している」と説明されていました。現存在は〈そこに現に〉存在する存在者(>Da-sein<)ですが、これは実存する存在者であり、実存とはその本質からして「外に」ということが含まれているのでした。これが示しているのは、現存在の決意性における確実さは、ある状況のうちに「固執する」ことができないということです。決断は、現存在のそのつどの事実的な可能性にたいして自由に開かれたものとして維持される必要があるのであり、確実さはそのことを理解していなければなりません。

Die Gewißheit des Entschlusses bedeutet: Sichfreihalten für seine mögliche und je faktisch notwendige Zurücknahme. (p.307)
決断の確実さが意味しているのは、みずからを”撤回する”可能性に向かって、そしてその”撤回すること”がそのつど事実的に必要になる場合に応じて、”みずからを自由に開いて保持している”ということである。

 いま刀鍛冶である人は、良心が呼び掛けるなら、自分が刀鍛冶であることに固執することはできません。本来的なありかたをするためには、その人は沈黙のうちに良心の情態性に耳を傾け、場合によっては刀鍛冶であることを「撤回する」する用意ができていなければならないのです。実存する現存在は、何かの内に閉じこもってみずからを規定することはできず、つねに外に向かって開かれているような存在者です。決断しながらも、撤回することにたいして「”みずからを自由に開いて保持している”」ことは、自己自身を反復することであり、このような弁証法的なありかたにおける確実さこそが、本来的な決意性なのです。

Das zur Entschlossenheit gehörende Für-wahr-halten tendiert seinem Sinne nach darauf, sich ständig, das heißt für das ganze Seinkönnen des Daseins freizuhalten. Diese ständige Gewißheit wird der Entschlossenheit nur so gewährleistet, daß sie sich zu der Möglichkeit verhält, deren sie schlechthin gewiß sein kann. In seinem Tod muß sich das Dasein schlechthin >zurücknehmen<. Dessen ständig gewiß, das heißt vorlaufend, gewinnt die Entschlossenheit ihre eigentliche und ganze Gewißheit. (p.308)
決意性にそなわる〈真とみなすこと〉はその意味からして、みずからを”不断に”、すなわち現存在の”全体的な”存在可能に向かって、自由に開いて保持しておくことを目指している。決意性にたいしてこの不断の確実さが保証されるためには、決意性はみずから端的に確実で”あり”うるような可能性に向き合わねばならない。現存在はみずからの死において、みずからを端的に「撤回」せざるをえない。そのことが不断に確実であること、それが”先駆するということ”であり、このことによって決意性は、みずからの本来的で全体的な確実さを手にいれるのである。

 現存在は可能性の存在ですが、死は可能性の不可能性です。ですから「現存在はみずからの死において、みずからを端的に〈撤回〉せざるをえない」ことになるでしょう。死とは究極的に確実なものであり、この可能性に先駆けることによって決意性は、「みずからの本来的で全体的な確実さを手にいれる」ことができます。このように、決意性には死の第4の特徴にふさわしい傾向があることがわかります。
 しかし現存在は等根源的に、真理と同じく非真理のうちにあるのでした。現存在には、世人の非決意性のうちに自己を喪失している可能性がたえずあるのであり、それは現存在に固有の存在に基づく可能性です。しかしハイデガーによれば、先駆して決意する現存在は、このたえず可能な自己喪失にたいしても、みずからを開いて保持しているのであり、この非決意性もまた、決意性とともに確実なことであるのです。

 死の第5の特徴は、その確実さについては”無規定な”可能性であることです。決意性は、存在可能の無規定性については、そのときどきの状況における決断によって、そのつど規定するしかないことを理解しています(Part.62参照)。刀鍛冶の人は良心の呼び掛けに耳を傾けますが、この人はそのときどきの状況を理解しながら、みずからの存在可能を選択しなければなりません。良心は何も語らないのであり、この人が選択すべき存在可能が実際に何であるかは、無規定性のうちにあります。実存する存在者は無規定性によって支配されているのであり、決意性はそれは理解しています。

Die Unbestimmtheit des eigenen, obzwar im Entschluß je gewiß gewordenen Seinkönnens offenbart sich aber erst ganz im Sein zum Tode. Das Vorlaufen bringt das Dasein vor eine Möglichkeit, die ständig gewiß und doch jeden Augenblick unbestimmt bleibt in dem, wann die Möglichkeit zur Unmöglichkeit wird. Sie macht offenbar, daß dieses Seiende in die Unbestimmtheit seiner >Grenzsituation< geworfen ist, zu der entschlossen, das Dasein sein eigentliches Ganzseinkönnen gewinnt. (p.308)
ところでみずからの固有の存在可能が”無規定であること”は、決断においてそのつど確実なものとなっていたのだとしても、それは〈死に臨む存在〉において初めて”全体的に”明らかになるものである。死は不断に確実な可能性であるが、この可能性が不可能性に変わるのはいつかということは、どの瞬間においても無規定なままでありつづける。そして現存在は先駆によって、この可能性の前に連れだされるのである。この可能性は、現存在という存在者がみずからの「限界状況」の無規定性のうちに投げ込まれていることをあらわにする。現存在はこうした無規定性に向かって決意していることで、みずからの本来的な全体的な存在可能を獲得するのである。

 決断において、自分がどの存在可能を選択するかは確実になっていたとしても、自己の究極の確実さとしての死の可能性は、無規定なままでありつづけます。刀鍛冶の人は状況をみて決断し、教師という存在可能を選択しますが、それでも死という端的な存在可能がいつ訪れるかは決断によって規定することはできません。現存在は、事実的なそのつどの存在可能の先にあるこの可能性に先駆することによって、みずからの固有の存在可能が無規定であることを理解し、「こうした無規定性に向かって決意していることで、みずからの本来的な全体的な存在可能を獲得する」ことになります。このように決意性には、死の第5の特徴にふさわしい傾向があるのです。

 ハイデガーは決意性についての総括として次のように述べています。

Die Analyse enthüllte der Reihe nach die aus dem eigentlichen Sein zum Tode als der eigensten, unbezüglichen, unüberholbaren, gewissen und dennoch unbestimmten Möglichkeit erwachsenden Momente der Modalisierung, darauf die Entschlossenheit aus ihr selbst tendiert. Sie ist eigentlich und ganz, was sie sein kann, nur als vorlaufende Entschlossenheit. (p.309)
すでに確認したように、死とはもっとも固有であり、無関係であり、追い越すことができず、確実で、それにもかかわらず無規定な可能性であった。そしてこれまでの分析は、こうした〈死に臨む存在〉から生まれた”さまざまな様態の示す契機”について、順を追って示してきた。決意性は、それ自身として、これらの契機を目指すのである。決意性は、”先駆的な決意性”としてのみ、本来的に、そして全体的に、それがなりうるものになるのである。

 このように先駆と決意性が、本来的な実存のありかたとして明らかにされることによって、先駆は現存在のうちで証しされた実存的な存在可能の様態であることが明らかにされました。決意する者としての現存在は、この実存的な存在可能の様態を求めるようになり、このようにして、〈死に臨む存在〉、良心の呼び掛け、〈負い目ある存在〉の概念を媒介として、先駆性と決意性という2つの現象の内的な結びつきが示されたのです。

 こうして、先駆的な決意性を次の2つの重要な特徴によって規定することができるようになりました。第1に、先駆的な決意性は良心の呼び掛けにしたがう理解であり、この理解によって、現存在の実存を支配する可能性が死にあたえられるようになりました。これは死を克服する逃げ道のようなものではなく、世界から逃避して隠遁することでもありません。そうではなく、先駆的な決意性は、現存在を本来的に行動することの前に立たせるのです。
 第2に、この先駆的な決意性は、現存在の事実的で根本的な可能性を冷静に理解することから生まれるという特徴をもちます。現存在がみずからが〈死に臨む存在〉であることを冷静に理解するということは、現存在が世人が語る世界の出来事についての好奇心から解放されて自由になることを意味します。現存在は先駆的な決意性によって、自己自身になるのです。

 この節の最後の段落で、ハイデガーは次に考察すべき課題を提示しています。最後にこれを確認して、このパートを終えましょう。

Aber liegt der durchgeführten ontologischen Interpretation der Existenz des Daseins nicht eine bestimmte ontische Auffassung von eigentlicher Existenz, ein faktisches Ideal des Daseins zugrunde? Das ist in der Tat so. Dieses Faktum darf nicht nur nicht geleugnet und gezwungenerweise zugestanden, es muß in seiner positiven Notwendigkeit aus dem thematischen Gegenstand der Untersuchung begriffen werden. (p.310)
しかしこれまで実行してきた現存在の実存の存在論的な解釈においては、本来的に実存することについての存在者的な見解が、すなわち現存在についての事実的な理想が基礎となっているのではないだろうか。たしかにそのとおりである。この事実を否定してはならないが、強いられて承認するようであってもならない。探究の主題とする対象に基づいて、この事実のもつ”積極的な必然性”を把握しなければならない。

 これまでの分析が恣意的なものではなく正当な権利をもつものであると主張するためには、それが方法論的に適切なものでなければなりません。ここで前提にされている「現存在についての事実的な理想」についても、それがこの分析にとって方法論的に必然的なものであることが示される必要があります。この課題を行う次節では、実存論的な分析論の方法論的な性格が考察されることになります。


 今回は以上になります。次回もまたよろしくお願いします。

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