『存在と時間』を読む Part.54

  第53節 本来的な〈死に臨む存在〉の実存論的な投企

 この節は第1部第2篇のこれまでの節に比べて長く、内容も難解な節になっていると思います。原文の引用をこれまでよりも多くして、細かくみていくことで、ハイデガーの考察の道筋を捉え損ねないようにしていきたいと思います。

 これまでの分析から明らかになったのは、現存在は日常的な生においては、死に直面することを回避し、頽落して存在しているということ、すなわち非本来的な存在様態において存在しているということでした。次の問題は、現存在はどのようにすれば、この非本来的な死への姿勢から脱却できるかということです。
 しかし、そもそも現存在が死にたいして本来的な姿勢をとることがなく、またはこの>eigentlich<(本来的な、固有な)という語が示すように、この存在のありかたが他者には隠されたままでなければならないとするなら、本来的な〈死に臨む存在〉の存在論的な可能性は、どのようして「客観的に」特徴づけられるのでしょうか。
 本来的な〈死に臨む存在〉を分析するにあたり、ハイデガーは2つの方法論的な指示があたえられていることを指摘します。

Der existenziale Begriff des Todes wurde fixiert und somit das, wozu ein eigentliches Sein zum Ende sich soll verhalten können. Ferner wurde das uneigentliche Sein zum Tode charakterisiert und damit prohibitiv vorgezeichnet, wie das eigentliche Sein zum Tode nicht sein kann. (p.260)
すでに死についての実存論的な概念が確定されているのであり、これによって本来的な〈終わりに臨む存在〉が何と向き合うことになるかは確定されている。さらに非本来的な〈死に臨む存在〉の性格も確認されており、これによって、本来的な〈死に臨む存在〉がどのようなものであっては”ならない”かについて、禁止的に素描されたのである。

 この何と向き合うべきかという積極的な指示と、どんなものであってはならないかという禁止的な指示にしたがって、本来的な〈死に臨む存在〉は描き出される必要があると語られています。第1の積極的な指示が教えるのは、本来的な〈死に臨む存在〉についての考察は、〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉という死の実存論的な概念に依拠する必要があるということです。第2の否定的な指示が教えるのは、本来的な〈死に臨む存在〉について考察するためには、死に直面することを回避し、頽落して存在しているような非本来的な死への姿勢を変革する必要があるということです。
 こうした指示によって、本来的な〈死に臨む存在〉の課題は次のようなものとして表現されることになります。

Der existenziale Entwurf eines eigentlichen Seins zum Tode muß daher die Momente eines solchen Seins herausstellen, die es als Verstehen des Todes im Sinne des nichtflüchtigen und nichtverdeckenden Seins zu der gekennzeichneten Möglichkeit konstituieren. (p.260)
このため本来的な〈死に臨む存在〉の実存論的な投企においては、すでに特徴づけた可能性に臨んで、逃走せず、覆い隠さない存在として死を理解しながら、〈死に臨む存在〉を構成している契機を明らかにする必要がある。

 現存在は開示性ですから、情態的な理解によって構成されています。本来的な〈死に臨む存在〉考察するためには、死の可能性を世人の理解に合わせて解釈することはできないのです。

 ところで〈死に臨む存在〉は、死という現存在の傑出した可能性に臨む存在として特徴づけられますが、このようなある可能性に臨む存在ということには、死の可能性を誤解してしまう可能性が含まれていると、ハイデガーは指摘します。

Sein zu einer Möglichkeit, das heißt zu einem Möglichen, kann bedeuten: Aussein auf ein Mögliches als Besorgen seiner Verwirklichung. Im Felde des Zuhandenen und Vorhandenen begegnen ständig solche Möglichkeiten: das Erreichbare, Beherrschbare, Gangbare und dergleichen. (p.261)
ある可能性に臨む存在とは、すなわちある可能な事柄に向かう存在とは、ある可能な事柄を実現するために配慮的に気遣いながら、その可能な事柄を追い求めているという意味に解釈されることがありうる。手元的な存在者や眼前的な存在者の領域では、このような可能性に不断に出会うものである。それらは獲得できるもの、制御できるもの、実行しうるものなどである。

 「可能性に臨む存在」ということは、「ある可能な事柄に向かう存在」ということです。たとえば刀鍛冶になりたいと願っている人がいるとします。その人にとって刀匠になることは、将来において実現したいと願っている可能性であり、この可能性はつねに実現されうるものです。ただし、そのためにはさまざまな準備が必要になります。たとえば自分がこの人だと思った師匠に出会う必要がありますし、その師匠のもとで修業するために必要となる道具の費用や生活費といった資金を調達しなければなりません。その人は「可能な事柄を実現するために配慮的に気遣いながら、その可能な事柄を追い求め」ることになるでしょう。
 これらすべての事柄は、刀鍛冶になるという可能性を実現させるための手段であり、これらの手段はどれも「ある目的のため」の手段です。こうした目的のために存在するものに特有の存在性格は、手元存在性でした。手元的な存在者は、世界のうちで適材適所性の目的連関のうちに存在しているのです。
 この目的連関には3つの特徴があることが示されています。

Das besorgende Aus-sein auf ein Mögliches hat die Tendenz, die Möglichkeit des Möglichen durch Verfügbarmachen zu vernichten. Die besorgende Verwirklichung von zuhandenem Zeug (als Herstellen, Bereitstellen, Umstellen u. s. f.) ist aber immer nur relativ, sofern auch das Verwirklichte noch und gerade den Seinscharakter der Bewandtnis hat. Es bleibt, wenngleich verwirklicht, als Wirkliches ein Mögliches für ..., charakterisiert durch ein Um-zu. (p.261)
ある可能な事柄を目指して配慮的に気遣いながら追い求めることには、その目的とするものを利用できるようにすることで、その可能な事柄にそなわっていた”可能性”という性格を”消滅させる”傾向がある。しかし手元的に存在する道具を配慮的な気遣いによって実現すること、たとえば製作したり、整備したり、配置替えしたりすることで実現することは、実現されたものにまだまさに適材適所性という性格がそなわっているかぎり、あくまでも相対的なことである。それらのものは、実現されたものとして、〈~のため〉としての用途によって性格づけられたものであり、現実的なものではあるが、〈~のために可能なもの〉でありつづける。

 第1に、こうした手元的な存在者は、ある可能性を実現するために「獲得できるもの、制御できるもの、実行しうるもの」という性格をそなえています。第2の特徴は、その目的とするものが実現された際には、その手元的な存在者のもっていた「”可能性”という性格を”消滅させる”傾向がある」ということです。第3の特徴は、こうした手元的な存在者h、その適材適所性という性格を完全に喪失することはなく、つねに「〈~のため〉としての用途によって性格づけられたもの」でありつづけるということです。
 刀鍛冶になるために師匠のもとで修業することは、刀匠になるために「獲得できるもの、制御できるもの、実行しうるもの」ですが、師匠から独立を許された人にとっては、もはや「可能性という性格」は消滅したものになります。この人は刀匠になるという可能性を実現したのであり、この可能性は可能性ではなくなるからです。しかしこうした師匠のもとで修業することは、それが存在しつづけるかぎり、他に刀匠になりたい人が利用できる手段として、そのための必要な用途をそなえたものとしての性格を維持しています。また刀匠になることを実現した手段として師匠にみせた刀鍛冶の腕前は、今度はそれをお客さんのためにふるうことができ、自分にとって納得がいく刀をつくりあげられるという意味で、「現実的なものではあるが、〈~のために可能なもの〉でありつづける」のです。
 このことから、現存在は適材適所性の目的連関に存在するものについては、その可能性そのものに注目して、それを主題的に理論的に考察しているわけではなく、目配りのまなざしによって、〈何のために可能なのか〉というところに注目していることがわかるでしょう。
 これにたいして、死はこのような「~のため」の目的連関のうちにあるものではないのは明らかです。現存在は死ぬために、死ぬことを目的に実存しているわけではないからです。ですから〈死に臨む存在〉は、死という可能性の実現を配慮的な気遣いによって追い求めるという性格をそなえているわけではありません。死は可能性ではありますが、手元存在者や眼前存在者として存在するような可能性ではなく、現存在の1つの存在可能性だからです。もし、自己の死を目的とすること、すなわち自殺することを目指すというありかたになった場合には、実存する現存在に必要な地盤が奪われてしまうでしょう。

 このように〈死に臨む存在〉として考えられているものは、死を「実現する」ことではありえません。こうした観点からは、現存在の実存が否定されてしまいます。それでは、本来的な〈死に臨む存在〉においては、現存在は死の可能性にたいしてどのような姿勢を示しているのでしょうか。
 〈死に臨む存在〉の1つのありかたとして、現存在は自己の死について思索することができます。現存在は自己の死という可能性がいつ、どのようにして実現されるかということを思索することがあるでしょう。

Dieses Grübeln über den Tod nimmt ihm zwar nicht völlig seinen Möglichkeitscharakter, er wird immer noch begrübelt als kommender, wohl aber schwächt es ihn ab durch ein berechnendes Verfügenwollen über den Tod. Er soll als Mögliches möglichst wenig von seiner Möglichkeit zeigen. (p.361)
死についてこのように思い煩うことは、たしかに死から可能性としての性格を完全に取り去ることなく、死はなお到来するものとして思い煩われている。しかし死について計算ずくで対処しようとするために、死の可能性としての性格を弱めてしまうことになる。この思索においては、死は可能なものではあるが、その可能性をできるだけ発揮させないようにしようとしているのである。

 ハイデガーは、こうした死への思索は、死について思い煩うことであり、「死について計算ずくで対処しようとするために、死の可能性としての性格を弱めてしまうことになる」と指摘します。この死への思索では、死の可能性に正面から直面することではなく、その可能性ができるだけ実現されないようにすることを目指しているのです。こうした態度は、たしかに〈死に臨む存在〉の1つのありかたではありますが、非本来的な、回避するような態度です。

Im Sein zum Tode dagegen, wenn anders es die charakterisierte Möglichkeit als solche verstehend zu erschließen hat, muß die Möglichkeit ungeschwächt als Möglichkeit verstanden, als Möglichkeit ausgebildet und im Verhalten zu ihr als Möglichkeit ausgehalten werden. (p.261)
これにたいして〈死に臨む存在〉においては、そもそもこのように性格づけられた可能性を”そのようなもの”として理解しつつ開示することを目指すべきであるので、可能性は弱められることなく、”可能性として”理解され、”可能性として”発揮され、可能性に向かう姿勢において”可能性として”耐えぬかれなければならない。

 本来的な〈死に臨む存在〉は、自分の死について思い煩いながら、死の可能性を弱めるのではなく、「”可能性として”理解され、”可能性として”発揮され、可能性に向かう姿勢において”可能性として”耐えぬかれなければならない」ものです。

Zu einem Möglichen in seiner Möglichkeit verhält sich das Dasein jedoch im Erwarten. Für ein Gespanntsein auf es vermag ein Mögliches in seinem >ob oder ob nicht oder schließlich doch< ungehindert und ungeschmälert zu begegnen. (p.261)
しかし現存在はその可能性において示された可能的なものにたいしては、”期待する”という姿勢を示す。可能的なものを期待しながら緊張している存在にとっては、可能的なものに、「そうなるか、そうならないか、それともやはり」という性格で、妨げられず、縮減されずに出会うことがありうるのである。

 死への思索が、自分の死に直面することを避けるための方法であるとすれば、自分の死を期待することもまた別の方法で、自分の死に直面することを避けようとするものです。たしかにこうした期待は、死から逃避することではありません。期待する現存在は、「可能的なものに、〈そうなるか、そうならないか、それともやはり〉という性格で、妨げられず、縮減されずに出会うことがありうる」のです。
 それでも死への期待において死は、まだ到来していないもののやがて到来すべき未来の出来事として予測されています。期待することにおいては可能な死が、現実のものとして眼の前に存在するようになるか、またそれがいつ、どのようにしてそうなるかという観点から理解されているのであり、こうした捉え方は、配慮的な気遣いによって追い求めるような可能なものに向かう存在様式と同様のものであることがわかります。

Das Erwarten ist nicht nur gelegentlich ein Wegsehen vom Möglichen auf seine mögliche Verwirklichung, sondern wesenhaft ein Warten auf diese. Auch im Erwarten liegt ein Abspringen vom Möglichen und Fußfassen im Wirklichen, dafür das Erwartete erwartet ist. Vom Wirklichen aus und auf es zu wird das Mögliche in das Wirkliche erwartungsmäßig hereingezogen. (p.262)
期待するということは、たんにときおり可能なものから目を逸らして、その実現の可能性に注目するだけではなく、その本質からして”それが実現することを待ちうけている”ということである。だから期待することにおいても、可能なものを跳び超えて、現実的なもののうちに足場を据えるということが含まれているのである。期待されているものは、それが現実的なものとなることを期待されているのである。ある可能なものはこの現実的なものに基づいて、そしてこの現実的なものを目指して、期待どおりに現実的なもののうちにもたらされる。

 このように現実的なものとして期待されるような死は、実存する現存在にとっての本来的な死ではないことは明らかでしょう。期待することにおいて死は、実現されるべきものとして理解されているのであり、この理解のうちには、「可能なものを跳び超えて、現実的なもののうちに足場を据えるということが含まれている」のです。しかしすでに指摘されたように、死という可能性の実現を配慮的な気遣いによって追い求めることは、本来的な〈死に臨む存在〉の性格ではありえません。ですから、死を期待するというありかたは、たしかに死から可能性という性格を完全に取り去るものではありませんが、やはり本来的な〈死に臨む存在〉にふさわしいありかたではないということになります。

 先にハイデガーは、「〈死に臨む存在〉においては、そもそもこのように性格づけられた可能性を”そのようなもの”として理解しつつ開示することを目指すべきである」と語っていました。これは死の可能性は”可能性として”理解されるべきであるということであり、それが実存する現存在にとって本来的と呼べるような理解であると考えています。ハイデガーは、死の可能性を現実性としてではなく、可能性として思考することができるべきであり、実際にできると考えているのです。

Das Sein zur Möglichkeit als Sein zum Tode soll aber zu ihm sich so verhalten, daß er sich in diesem Sein und für es als Möglichkeit enthüllt. Solches Sein zur Möglichkeit fassen wir terminologisch als Vorlaufen in die Möglichkeit. (p.262)
しかし〈死に臨む存在〉として可能性に向かう存在は、死がこの存在において、この存在にとって”可能性として”あらわになるような態度で、”死に”臨むのである。このような〈可能性に向かう存在〉を、わたしたちは用語として”可能性への先駆”と呼ぶことにする。

 ハイデガーは、死を可能性として理解する態度を「”可能性への先駆”」と呼び、この態度のうちに、死に接近するための道が隠されているのではないかと語ります。

Diese Näherung tendiert jedoch nicht auf ein besorgendes Verfügbarmachen eines Wirklichen, sondern im verstehenden Näherkommen wird die Möglichkeit des Möglichen nur >größer<. Die nächste Nähe des Seins zum Tode als Möglichkeit ist einem Wirklichen so fern als möglich. Je unverhüllter diese Möglichkeit verstanden wird, um so reiner dringt das Verstehen vor in die Möglichkeit als die der Unmöglichkeit der Existenz überhaupt. (p.262)
ただしこの接近は、ある現実的なものを配慮的な気遣いによって利用可能にすることを目指すものではない。理解しながらそのものに接近することで、その可能なものの可能性がただますます「大きく」なるのである。”〈可能性としての死に臨む存在〉のごく身近にある〈近さ〉は、現実的なものからは可能なかぎり遠いのである”。この可能性が覆われずにあらわに理解されればされるほど、その可能性が”実存一般の不可能性の可能性”であることについての理解が、純粋なものとして現れるのである。

 現存在は可能性への先駆を行うことによって、自分の死の可能性を理解しながら、それに接近するようになり、「その可能なものの可能性がただますます〈大きく〉なる」とされています。その際には、死の可能性の「近さ」は、現存在にごく身近にあるものではありますが、「”現実的なものからは可能なかぎり遠いのである”」と言われています。現存在は死を経験することはできません。そのとき現存在は現存在でなくなるからです。現存在は手元存在者のように死を実現されたものにすることができない、だから、死は現実的なものからは「遠い」というように語られているのです。一方「近さ」については、自己の死をこの瞬間に訪れるかのようにみなすこと、死の可能性が「覆われずにあらわに理解され」るようにすることによって、死の可能性とは「”実存一般の不可能性の可能性”であることについての理解」が、純粋で確実なものとなることを意味しています。死の瞬間によって、わたしの実存のすべての可能性が不可能性になることに直面すること、その不可能性が可能になることを自覚すること、それが「死への先駆」です。

 このように死へと先駆する営みは、現存在の実存という存在様態と密接にかかわるものです。すでに確認したように、実存するということは、人間がみずからをその本質ではなく、存在するということにおいて、自己に固有の可能性から理解することであり、人間が唯一で固有の自己を生きることでした。「現存在はつねに自らを自己の実存から理解している。現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解している」のでした(Part.2参照)。
 実存をこのような生き方として考えると、自己の死の可能性への先駆という生き方は、実存と同じことを意味していることがわかります。現存在は自己の死の可能性へと先駆します。この死とは、自己のもっとも極端な可能性でした。先駆することで、この死という存在可能があらわになり、それがみずからに開示されるのです。ということは、先駆することは、死の存在可能をあらわにし、みずからに開示することですが、それだけではなく、それに向かってみずからを「投企する」ということでもあることがわかります。

Das Sein zum Tode ist Vorlaufen in ein Seinkönnen des Seienden, dessen Seinsart das Vorlaufen selbst ist. Im vorlaufenden Enthüllen dieses Seinkönnens erschließt sich das Dasein ihm selbst hinsichtlich seiner äußersten Möglichkeit. Auf eigenstes Seinkönnen sich entwerfen aber besagt: sich selbst verstehen können im Sein des so enthüllten Seienden: existieren. (p.262)
〈死に臨む存在〉の存在様式は先駆そのものであり、それは”当の”存在者”のもつ”存在可能のうちに先駆する。先駆することでその存在可能を露呈させるのであり、そのことで現存在は自分のもっとも極端な可能性を、みずからに開示する。そしてみずからにもっとも固有な存在可能に向かってみずからを投企するということは、このようにしてあらわにされた存在者の存在において、みずからを理解しうるということであり、これが実存しうるということである。

 先駆することで、現存在は自己の存在と存在可能をあらわに自己に開示し、そこに向けて自己を投企することで、自己を理解します。「これが実存しうるということである」のは明らかでしょう。これを要約すると次のようになります。

Das Vorlaufen erweist sich als Möglichkeit des Verstehens des eigensten äußersten Seinkönnens, das heißt als Möglichkeit eigentlicher Existenz. Deren ontologische Verfassung muß sichtbar werden mit der Herausstellung der konkreten Struktur des Vorlaufens in den Tod. (p.263)
先駆とは、”みずからにもっとも固有の”もっとも極端な存在可能を理解することができるということであり、”本来的な実存”の可能性ということである。だからこの本来的な実存の存在論的な機構は、死に向かう先駆の具体的な構造を取りだすことによって、明らかにされるはずである。

 死への先駆は、本来的に実存することなのです。これまで死が現存在にとってどのような可能性であるかが、5つの特徴に基づいて確認されてきました。死とは〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉なのでした。このことを考えると、死への先駆は、これら5つの特徴に基づいて、自己の可能性を本来的に理解する方法だということになります。
 さらに重要なことは、死への先駆は現存在の実存のありかたと同じものであり、本来的に実存することであるために、現存在の「本来的な実存の存在論的な機構は、死に向かう先駆の具体的な構造を取りだすことによって、明らかにされるはずである」ということです。次に改めて検討する死への先駆の5つの特徴は同時に、実存の「存在論的な機構」を明らかにするものでもあるのです。

 第1の特徴は、死への先駆と自己の〈もっとも固有な〉可能性との結びつきです。

Der Tod ist eigenste Möglichkeit des Daseins. Das Sein zu ihr erschließt dem Dasein sein eigenstes Seinkönnen, darin es um das Sein des Daseins schlechthin geht. Darin kann dem Dasein offenbar werden, daß es in der ausgezeichneten Möglichkeit seiner selbst dem Man entrissen bleibt, das heißt vorlaufend sich je schon ihm entreißen kann. Das Verstehen dieses >Könnens< enthüllt aber erst die faktische Verlorenheit in die Alltäglichkeit des Man-selbst. (p.263)
死とは、現存在の”もっとも固有な”可能性である。この可能性にかかわる存在が、現存在にその”もっとも固有な”存在可能を開示する。その存在可能において、現存在の存在が端的に問われるのである。この存在可能のうちでは、現存在がみずからの傑出した可能性のもとで、世人から切り離されて存在していること、すなわち先駆することでみずからを世人から切り離すことが可能であることが、現存在にあらわになりうるのである。この「可能である」を理解することこそが、世人自己の日常性のうちに、事実として自己喪失していたことを、初めてあらわにするのである。

 死はすでに確認されたように、「現存在のもっとも固有な可能性」でした。そのために死へと先駆することは、「現存在にその”もっとも固有な”存在可能を開示する」ことになるでしょう。現存在は死ぬときには、ただ1人であり、かけがえのない自己に立ち戻っています。わたしの死を死ぬことができるのは、ただわたしだけなのであり、わたしだけがこの自己に固有の死を死ぬ可能性を生きることができるのです。
 この自己に固有の可能性を、死への先駆によって取り戻すことは、現存在に重要な恩恵をもたらします。現存在は自己の死に直面することで、自分が「世人から切り離されて」存在していることを理解できます。これは2つの重要な意味をもちます。第1に、現存在はこれによって単独者に戻り、世人とは異なる志向をすることができるようになります。第2に、現存在はこれによって、それまでの自己が本来の現存在にこゆうの自己ではなく、「世人自己」であったこと、そして公共性のうちで生きながら、「世人自己の日常性のうちに、事実として自己喪失していたこと」があらわになるのです。

 第2の特徴は、死へと先駆することで、現存在にもっとも固有な存在可能が問われることによって、現存在は単独者の地位に戻ることです。

Die eigenste Möglichkeit ist unbezügliche. Das Vorlaufen läßt das Dasein verstehen, daß es das Seinkönnen, darin es schlechthin um sein eigenstes Sein geht, einzig von ihm selbst her zu übernehmen hat. Der Tod >gehört< nicht indifferent nur dem eigenen Dasein zu, sondern er beansprucht dieses als einzelnes. Die im Vorlaufen verstandene Unbezüglichkeit des Todes vereinzelt das Dasein auf es selbst. Diese Vereinzelung ist eine Weise des Erschließens des >Da< für die Existenz. Sie macht offenbar, daß alles Sein bei dem Besorgten und jedes Mitsein mit Anderen versagt, wenn es um das eigenste Seinkönnen geht. (p.263)
このもっとも固有な可能性は、”関係を喪失する”ものである。先駆が現存在に理解させるのは、存在可能において、現存在のもっとも固有な存在が端的に問われていること、そしてこの存在可能をただみずからの意志だけで引きうけなければならないということである。死は、各自の現存在に、誰かれの区別なく「属している」だけのものではない。死は現存在が”単独の現存在としてある”ことを”要求する”のである。先駆のうちで、死は関係を喪失するものであることが理解されるのであり、それによって現存在は自己のうちで単独者となる。この単独なありかたは、実存するために〈そこに現に〉が開示されるひとつのありかたである。この単独なありかたが明らかにするのは、みずからにもっとも固有な存在可能が問われるときには、配慮的な気遣いのもとに属している存在や、他者とのすべての共同存在は、何の役にも立たないということであるはい

 現存在が単独者の地位に戻ることによって、「存在可能において、現存在のもっとも固有な存在が端的に問われていること、そしてこの存在可能をただみずからの意志だけで引きうけなければならない」ことが理解されるようになります。そしてそれと同時に、死においては「配慮的な気遣いのもとに属している存在や、他者とのすべての共同存在は、何の役にも立たない」ものであることを自覚させられます。このようにして「先駆のうちで、死は関係を喪失するものであることが理解される」のです。
 この関係の喪失が理解されることによって、現存在は重要なことを教えられます。第1に、現存在は死が、「各自の現存在に、誰かれの区別なく「属している」だけのものではない。死は現存在が”単独の現存在としてある”ことを”要求する”」ものであることを理解します。
 第2に、現存在は死への先駆において単独者となり、世人自己から断絶し、現存在にとっては配慮的な気遣いや顧慮的な気遣いは何の役にも立たないことを自覚するのですが、こうした気遣いからまったく断絶してしまうわけではないということです。こうした存在様態は、現存在にとってたんに世人のうちに頽落していることによって生まれたものではありません。手元存在者に配慮し、共同現存在としての他者にに顧慮することは、頽落したありかたではないのであり、こうしたありかたは現存在の機構の本質的な構造なのです。

Das Dasein ist eigentlich es selbst nur, sofern es sich als besorgendes Sein bei ... und fürsorgendes Sein mit ... primär auf sein eigenstes Seinkönnen, nicht aber auf die Möglichkeit des Man-selbst entwirft. Das Vorlaufen in die unbezügliche Möglichkeit zwingt das vorlaufende Seiende in die Möglichkeit, sein eigenstes sein von ihm selbst her aus ihm selbst zu übernehmen. (p.263)
現存在が本来的に自己自身であるのは、〈~のもとで配慮的に気遣う存在〉”として”あるかぎりであり、〈~について顧慮的に気遣う存在〉”として”あるかぎりにおいてである。ただその際に、世人自己の可能性に向かってではなく、第1義的に自己のもっとも固有な存在可能に向かって投企するかぎりにおいてである。関係を喪失する可能性のうちに先駆することによって、先駆する存在者は、もっとも固有な存在を自己自身から、みずからの意志で引きうける可能性のうちに立ち入らざるをえなくされるのである。

 死への先駆によって、現存在にとっては配慮的な気遣いや顧慮的な気遣いは何の役にも立たないものとなりますが、「現存在が本来的に自己自身であるのは、〈~のもとで配慮的に気遣う存在〉”として”あるかぎりであり、〈~について顧慮的に気遣う存在〉”として”あるかぎりにおいてである」と指摘されています。ただし現存在は単独者としては、このように気遣いをしながらも「世人自己の可能性に向かってではなく、第1義的に自己のもっとも固有な存在可能に向かって投企する」のです。死へと先駆することで現存在は単独者となりますが、それは世界や他者や事物への気遣いをすべて断ち切るということではありません。世界内存在としての現存在の存在は気遣いであり、これは切り離せるものではないのです。死への先駆によって現存在は、「もっとも固有な存在を自己自身から、みずからの意志で引きうける可能性のうちに立ち入らざるをえなくされる」のであり、こうした自己のもっとも固有な存在可能に向かう気遣いは、本来的な自己存在と結びついているのです。

 第3は死への先駆が〈追い越すことのできない〉可能性への先駆であることにかかわるものです。

Die eigenste, unbezügliche Möglichkeit ist unüberholbar. Das Sein zu ihr läßt das Dasein verstehen, daß ihm als äußerste Möglichkeit der Existenz bevorsteht, sich selbst aufzugeben. Das Vorlaufen aber weicht der Unüberholbarkeit nicht aus wie das uneigentliche Sein zum Tode, sondern gibt sich frei für sie. Das vorlaufende Freiwerden für den eigenen Tod befreit von der Verlorenheit in die zufällig sich andrängenden Möglichkeiten, so zwar, daß es die faktischen Möglichkeiten, die der unüberholbaren vorgelagert sind, allererst eigentlich verstehen und wählen läßt. (p.264)
このもっとも固有で、関係を喪失する可能性は”追い越すことのできない”ものである。この可能性に臨んだ存在が現存在に理解させるのは、実存のもっとも極端な可能性として、みずからを放棄することに、現存在が直面させられているということである。しかし先駆は、本来的でない〈死に臨む存在〉のように、この〈追い越すことのできないこと〉を回避することはなく、その可能性に向けて”みずからを開けわたす”のである。先駆しつつ、みずからの固有な死に”向かって”自由になることによって、現存在は偶然に押し寄せてくるさまざまな可能性のうちに自己喪失することから解放される。そしてこれによって、追い越すことのできない可能性の手前にあるさまざまな事実的な可能性を初めて本来的に理解し、選択することができるようになる。

 死へと先駆するということは、死がもはや差し迫った現実性として登場するまで待つのではなく、まだ現存在にあらゆる可能性がそなわっている時点において、現存在が自己の死を先取りするということです。これは「本来的でない〈死に臨む存在〉のように、この〈追い越すことのできないこと〉を回避することはなく、その可能性に向けて”みずからを開けわたす”」ということです。
 この死への先駆は、〈追い越すことのできない〉可能性への先駆であることによって、4つの重要な役割をはたすことになります。第1に現存在は、眼の前に浮かび上がるさまざまな可能性のうちに自己を喪失していることをやめるようになります。現存在は日常生活のうちでつねにさまざまな可能性を夢見ているものです。たとえば知らない土地に旅行をすることも、仕事をすることも、絵を描くことも、ピアノを習うことも、ゲームをすることも、哲学を学ぶことも、現存在を誘惑する多くの夢の1つでしょう。しかし現存在に残された時間はつねに有限です。現存在はあれもこれもと思い惑いながらも、自分に残された時間と自分の能力を計り、自分が残された人生で何をなすべきかを決めるべきなのです。そうすることで「追い越すことのできない可能性の手前にあるさまざまな事実的な可能性を初めて本来的に理解し、選択することができるようになる」のです。死に先駆することで、自分が人生においてすべきことを思い定めることができるようになるということです。
 第2に、死へと先駆けることによって現存在は、自己にとっての「もっとも極端な可能性が自己放棄である」ことを肝に銘じます。

Das Vorlaufen erschließt der Existenz als äußerste Möglichkeit die Selbstaufgabe und zerbricht so jede Versteifung auf die je erreichte Existenz. Das Dasein behütet sich, vorlaufend, davor, hinter sich selbst und das verstandene Seinkönnen zurückzufallen und >für seine Siege zu alt zu werden< (Nietzsche). (p,264)
先駆は実存に、みずからのもっとも極端な可能性が自己放棄であることを開示するのであり、そうすることで、現存在がそのつど実現してきた実存のうちに固執することを打ち砕く。現存在は先駆することで、自分自身に遅れをとり、理解された存在可能に遅れをとることがないように、「勝利しようとしたが、すでに年をとりすぎていた」(ニーチェ)ということがないように、自戒するのである。

 死は、「追い越すことのできない可能性」として、それまでに実現できるあらゆる可能性の彼方にある可能性です。現存在はそのうちのどれかでも実現するためには、これまで実現してきた現存在の既存のありかたに固執して「自分自身に遅れを」とることがないように、覚悟を決めることを迫られます。自己の死という極端な可能性を前にして、実現したい望みがあるのなら、これまでの成果にこだわることなく、そうしたものを投げ捨てる用意もまた必要なのです。ちなみに、原文中の「勝利しようとしたが、すでに年をとりすぎていた(>für seine Siege zu alt zu werden<)」は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の「自由な死について」からの引用となっています。
 第3に、現存在は自己の死に先駆けることで、他なる現存在とともにある生の意味と、他なる現存在がもつ可能存在について、理解できるようになります。

Frei für die eigensten, vom Ende, her bestimmten, das heißt als endliche verstandenen Möglichkeiten, bannt das Dasein die Gefahr, aus seinem endlichen Existenzverständnis her die es überholenden Existenzmöglichkeiten der Anderen zu verkennen oder aber sie mißdeutend auf die eigene zurückzuzwingen - um sich so der eigensten faktischen Existenz zu begeben. (p.264)
みずからにもっとも固有な可能性とは、”終わり”から規定され、”終わりのある有限なものとして”了解された可能性であり、この可能性に向けて自由に開かれるようになった現存在は、自分の有限な実存了解を追い越していく他者たちの実存可能性を、みずからの実存可能性の立場から誤認したり、そうした実存可能性を誤解して、それをみずからに固有な実存可能性に押しつけたりするような危険性を追い払うのである。そのような誤認や誤解は、みずからに固有の事実的な実存を放棄することになるからである。

 現存在は単独で死にゆきますが、生においては単独で生きるものではありません。自己の死の地点から現在を見返し、かけがえのないみずからの現存在に了解することで、生をともにする家族や友人たちがそなえている可能性もまたみえてくるでしょう。死へと先駆けることは、他者たちのそうした可能性を、みずからに固有の可能性の立場から誤認したり、そうした他者の「実存可能性を誤解して、それをみずからに固有な実存可能性に押しつけたりするような危険性を追い払う」のです。そもそも、他者たちに自己に”固有な”存在可能を押しつけるということは、「みずからに固有の事実的な実存を放棄することになる」ことを意味するでしょう。
 第4に、死に先駆けることによって、死という究極の可能性の手前にあり、実現できたり、できなかったりする自己のさまざまな可能性の全体を理解することができるようになります。

Weil das Vorlaufen in die unüberholbare Möglichkeit alle ihr vorgelagerten Möglichkeiten mit erschließt, liegt in ihm die Möglichkeit eines existenziellen Vorwegnehmens des ganzen Daseins, das heißt die Möglichkeit, als ganzes Seinkönnen zu existieren. (p.264)
追い越すことのできない可能性のうちに先駆することで、その可能性の手前にあるすべての可能性がともに開示されるのであるから、この先駆のうちには、”全体的な”現存在を実存的に先取りする可能性が含まれているのであり、”全体的な存在可能”として実存する可能性が含まれているのである。

 死へと先駆けることで、「”全体的な”現存在を実存的に先取りする」ことが可能になり、「”全体的な存在可能”として実存する」ことが可能となると考えられます。これは死において、現存在の全体性を認識するという最初の試みを、死という究極の可能性へと先駆けることで実現することでもあります。


 ここまで、自己の可能性を本来的に理解する方法として、死への先駆について、死の〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉という5つの特徴に基づいて、その3つめの特徴においてまで考察されてきましたが、分量が多くなってしまったので、一旦区切りとさせていただきたいと思います。
 次回は4つめの特徴である〈確実さ〉における〈死への先駆〉の考察から入ります。よろしくお願いします。

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