『存在と時間』を読む Part.62

  第60節 良心のうちに〈証し〉される本来的な存在可能の実存論的な構造

 これまでハイデガーは良心を実存論的に解釈することを試みてきましたが、良心についての根源的な解釈を進めるためには、良心を現存在の開示性の現象として理解する必要がありました。この開示性としての良心は、「良心をもとうと意志すること」と規定され、これは現存在そのもののうちに、現存在のもっとも固有な存在可能の証しが存在することです。
 現存在の開示性は、理解、情態性、語りによって構成されているのでした。理解の観点からは、〈良心をもとうと意志すること〉は、もっとも固有な存在可能において自己を理解することであり、これは世界内存在可能のそのつどのもっとも固有な事実的な可能性に向かって、みずからを投企することです。それでは情態性と語りの観点からはどのようになるでしょうか。

Das Rufverstehen erschließt das eigene Dasein in der Unheimlichkeit seiner Vereinzelung. Die im Verstehen mitenthüllte Unheimlichkeit wird genuin erschlossen durch die ihm zugehörige Befindlichkeit der Angst. Das Faktum der Gewissensangst ist eine phänomenale Bewährung dafür, daß das Dasein im Rufverstehen vor die Unheimlichkeit seiner selbst gebracht ist. Das Gewissenhabenwollen wird Bereitschaft zur Angst. (p.295)
呼び掛けを理解することは、みずからに固有の現存在を、その単独化された不気味さのうちで開示する。理解のうちにともにあらわにされたこの不気味さは、理解に付随する不安という情態性において真の意味で開示される。”良心の不安”という事実は、現存在が呼び掛けを理解することによって、自分自身の不気味さの前に立たされることを現象的に保証するものである。〈良心をもとうと意志すること〉は、不安に直面する用意ができているということである。

 情態性という契機から良心について考察してみるなら、良心を示すのは「不安」という気分である。現存在は良心の呼び掛けに耳を傾けることによって、「みずからに固有の現存在を、その単独化された不気味さのうちで開示する」ことになります。現存在はこの不気味さを味わうことによって、不安になるのです。

Der Ruf stellt vor das ständige Schuldigsein und holt so das Selbst aus dem lauten Gerede der Verständigkeit des Man zurück. Demnach ist der zum Gewissen-haben-wollen gehörende Modus der artikulierenden Rede die Verschwiegenheit. Schweigen wurde als wesenhafte Möglichkeit der Rede charakterisiert. (p.296)
呼び掛けは不断の〈負い目ある存在〉の前に自己を連れ出すのであり、世人の常識が語る騒がしい世間話から、自己を連れ戻すのである。そのため、〈良心をもとうと意志すること〉にふさわしい分節化された語りの様態は、”沈黙すること”である。すでにこの沈黙することは、語りの本質的な可能性として性格づけられてきた。

 語りという契機から良心について考察してみると、良心の呼び掛けは「沈黙」という形をとることがすでに指摘されていました。呼び掛けによって現存在は「負い目ある存在」の前に呼び出され、「世人の常識が語る騒がしい世間話から、自己を連れ戻す」のです。そのとき現存在は沈黙するのでした。
 これら3つの契機に示された開示性のありかたは、次のように表現されることになります。

Die im Gewissen-haben-wollen liegende Erschlossenheit des Daseins wird demnach konstituiert durch die Befindlichkeit der Angst, durch das Verstehen als Sichentwerfen auf das eigenste Schuldigsein und durch die Rede als Verschwiegenheit. Diese ausgezeichnete, im Dasein selbst durch sein Gewissen bezeugte eigentliche Erschlossenheit - das verschwiegene, angstbereite Sichentwerfen auf das eigenste Schuldigsein - nennen wir die Entschlossenheit. (p.296)
このように、〈良心をもとうと意志すること〉に示される現存在の開示性は、不安という〈情態性〉、もっとも固有な〈負い目ある存在〉へとみずからを投企する〈理解〉、そして沈黙としての〈語り〉によって構成されるのである。この開示性は、現存在において、その良心によって証しされる本来的な開示性であり、この傑出した開示性は、”もっとも固有な負い目ある存在へ向けて、沈黙のうちに、不安に耐えながらみずからを投企すること”である。わたしたちはこれを”決意性”と呼ぼう。

 
 ここでハイデガーが導入した「決意性」という概念は、本書の構成においてきわめて重要な概念です。この決意性にはいくつもの重要な特徴があり、第60節では3つの特徴が示されることになります。
 決意性の第1の特徴は、それが実存論的な概念であるということです。良心という現象は、現存在の日常において確認される実存的な現象であるため、日常的な解釈がそれなりに妥当性をもつものでしたが、これにたいして決意性は実存論的な概念であるあるため、日常性の解釈では考察することのできない性質をもっています。決意性は実存論的に考察しなければなりません。
 第2の特徴は、決意性がたんに現存在の意志的な決定を示すだけではなく、実存カテゴリーとしての「真理」を示すものであることです。

Die Entschlossenheit ist ein ausgezeichneter Modus der Erschlossenheit des Daseins. Die Erschlossenheit aber wurde früher existenzial interpretiert als die ursprüngliche Wahrheit. Diese ist primär keine Qualität des >Urteils< noch überhaupt eines bestimmten Verhaltens, sondern ein wesenhaftes Konstitutivum des In-der-Welt-seins als solchen. Wahrheit muß als fundamentales Existenzial begriffen werden. (p.297)
決意性は、現存在の開示性の傑出した様態である。しかし開示性はすでに、”根源的な真理”として実存論的に解釈されている。この根源的な真理は、第1義的には「判断」の性質ではなく、また一般に何らかのふるまいの性質でもなく、世界内存在そのものの本質的な構成要素である。そもそも真理は、基本的な実存カテゴリーとして把握しなければならない。

 決意性が開示性である以上、決意性とは「”根源的な真理”」であると言えます(開示性と真理についてはPart.45参照)。実存カテゴリーとしての真理についてはすでに、それが判断の性質なのではなく、「世界内存在そのものの本質的な構成要素である」ことが指摘されてきました。決意性は現存在の根源的な真理であり、これが意味しているのは、現存在の存在様態をもっとも根源的な形で示しているということです。
 決意性の第3の特徴は、それが「本来的な開示性」であり、現存在の開示する世界、内存在、自己のそれぞれにおいて、現存在の真理を開示するものであることにあります。

Nunmehr ist mit der Entschlossenheit die ursprünglichste, weil eigentliche Wahrheit des Daseins gewonnen. Die Erschlossenheit des Da erschließt gleichursprünglich das je ganze In-der-Welt-sein, das heißt die Welt, das In-Sein und das Selbst, das als >ich bin< dieses Seiende ist. (p.297)
このように決意性の概念によって、現存在のもっとも根源的な真理に到達したが、それはこれが”本来的な”真理だからである。〈そこに現に〉の開示性は等根源的に、そのつど全体としてある世界内存在の全体を開示する。すなわち世界と、内存在と、自己を開示したのであり、この自己とは、「われあり」という形で、現存在が存在するありかたである。

 「世界」が開示されるということは、現存在を取り囲むさまざまな存在者である事物の全体が開示されるということです。手元的な存在者と眼前的な存在者は、世界の開示性に基づいて露呈されるのです(Part.17参照)。というのは、手元的に存在するものに属する適材適所性の全体性が開けわたされるためには、有意義性をあらかじめ理解しておく必要があるからです。有意義性を、そのときどきの世界の開示性として理解することは、〈そのための目的〉(>Worumwillen<)を理解することに基づくのであり、適材適所性のすべての露呈は、この〈そのための目的〉に由来します。
 現存在は、住むところをみつけて、そこで暮らし、生計を立てるという可能性に向けて、そのつどみずからを投企しています。現存在はみずからの〈そこに現に〉のうちに投げ込まれているのであり、事実的にそのつど特定の自分の「世界」に依存しています。同時にこうした投企は、世人のうちに配慮的な気遣いによって生じる自己喪失に導かれています。呼び起こしはこうした世人自己にたいして呼び起こすのであり、この呼び起こしは決意性というありかたで理解することができるのです。

Diese eigentliche Erschlossenheit modifiziert aber dann gleichursprünglich die in ihr fundierte Entdecktheit der >Welt< und die Erschlossenheit des Mitdaseins der Anderen. Die zuhandene >Welt< wird nicht >inhaltlich< eine andere, der Kreis der Anderen wird nicht ausgewechselt, und doch ist das verstehende besorgende Sein zum Zuhandenen und das fürsorgende Mitsein mit den Anderen jetzt aus deren eigenstem Selbstseinkönnen heraus bestimmt. (p.297)
そのとき”本来的な”開示性は、この本来的な開示性のうちに基礎づけられている「世界」の露呈されたありかたと、他者たちとの共同現存在の開示性の両方を、等根源的に変様させる。手元的に存在している「世界」が「その内容として」別の世界になるわけではないし、他者たちと交わる領域が別の領域になるわけでもない。しかし手元的な存在者にたいして理解しながら配慮的に気遣う存在と、他者たちにたいして顧慮的な気遣いをする共同存在が、いまやもっとも固有な自己の存在可能に基づいて、規定されるようになるのである。

 ここでは「内存在」について、世界における他者との共同存在の文脈で語られており、「他者たちとの共同現存在の開示性」として分析されています。世界内存在は手元存在者にたいして配慮的な気遣いをすると同時に、他なる現存在にたいしては顧慮的な気遣いをするのでした。
 もっとも根源的な開示性である決意性においては、「手元的に存在している〈世界〉が〈その内容として〉別の世界になるわけではないし、他者たちと交わる領域が別の領域になるわけでもない」ものの、「いまやもっとも固有な自己の存在可能に基づいて、規定されるようになる」と指摘されています。

Die Entschlossenheit löst als eigentliches Selbstsein das Dasein nicht von seiner Welt ab, isoliert es nicht auf ein freischwebendes Ich. Wie sollte sie das auch - wo sie doch als eigentliche Erschlossenheit nichts anderes als das In-der-Welt-sein eigentlich ist. Die Entschlossenheit bringt das Selbst gerade in das jeweilige besorgende Sein bei Zuhandenem und stößt es in das fürsorgende Mitsein mit den Anderen. (p.298)
決意性は、”本来的な自己存在”であるが、現存在をその世界から引き離したり、宙に浮いた自我として現存在を孤立させるものではない。決意性は本来的な開示性であり、”世界内存在”としてしか”本来的に”存在しえないことを意味するものにほかならないのだから、そのようなことはありえないのである。むしろ決意性によって自己は、そのときどきに手元的なものにかかわる配慮的な気遣いの存在のうちにもたらされるのであり、他方では他者たちとともに顧慮的な気遣いのうちにある共同存在のなかに押しやられるのである。

 「決意性は本来的な開示性であり、”世界内存在”としてしか”本来的に”存在しえないことを意味するものにほかならないのだから」、現存在が手元存在者や他者から切り離されて、世界内存在というありかたから自由になるということはありえません。そうではなく、現存在は決意性のもとでは、もはや世人のもとに頽落しているのではなく、世界内部的な存在者や他者とのあいだで、新しい関係を構築するようになるのであり、このとき現存在は、世人自己から「本来的な自己」として存在するようになるのです。というのも、世界内存在としての自己は、配慮的な気遣いと顧慮的な気遣いのうちにあるとしても、「みずからの選択した存在可能のめざす〈そのための目的〉に基づいて、みずからの世界に向けて自分を開けわたす」ことができるからです。

Aus dem Worumwillen des selbstgewählten Seinkönnens gibt sich das entschlossene Dasein frei für seine Welt. Die Entschlossenheit zu sich selbst bringt das Dasein erst in die Möglichkeit, die mitseienden Anderen >sein< zu lassen in ihrem eigensten Seinkönnen und dieses in der vorspringend-befreienden Fürsorge mitzuerschließen. Das entschlossene Dasein kann zum >Gewissen< der Anderen werden. (p.298)
決意した現存在は、みずからの選択した存在可能のめざす〈そのための目的〉に基づいて、みずからの世界に向けて自分を開けわたすのである。自己への決意性によって初めて現存在は、共同存在しつつある他者たちを、そのもっとも固有な存在可能において「存在」させることができるようになるのであり、この存在可能を率先して解放する顧慮的な気遣いによって、ともに開示することができるようになるのである。決意性によって現存在は他者たちの「良心」になることができる。

 現存在は決意性において自己喪失から覚醒し、真の意味で自己になることができるのであり、それによって他者とのあいだにも本来的な共同相互性が生まれるようになります。覚醒した現存在はみずからに固有の存在可能に直面することで、他者にたいする模範となり、他者がみずからの存在可能に直面するように「率先して解放する顧慮的な気遣い」を示し、他者の「良心」になることができるようになります。
 このように「”本来的な”開示性は、この本来的な開示性のうちに基礎づけられている〈世界〉の露呈されたありかたと、他者たちとの共同現存在の開示性の両方を、等根源的に変様させる」のです。

 決意性とは現存在の開示性の傑出した様態であり、これは現存在の実存論的なありかたです。注意すべきは、この決意性と、実際に何かを決定する”決断”の違いです。

Die Entschlossenheit ist ihrem ontologischen Wesen nach je die eines jeweiligen faktischen Daseins. Das Wesen dieses Seienden ist seine Existenz. Entschlossenheit >existiert< nur als verstehend-sich-entwerfender Entschluß. Aber woraufhin entschließt sich das Dasein in der Entschlossenheit? Wozu soll es sich entschließen? Die Antwort vermag nur der Entschluß selbst zu geben. (p.298)
決意性はその存在論的な本質からして、そのつどの事実的な現存在の決意性である。この現存在という存在者の本質は、その実存にある。決意性は、〈理解しつつみずからを投企する〉決断としてのみ「実存する」。しかし現存在はこの決意性において、〈何に向けて〉決断するのだろうか。現存在は〈何のために〉決断するのだろうか。この問いに答えることができるのは、ただ決断”だけ”である。

 「決意性」と訳すドイツ語は>Entschlossenheit<であり、この語は辞書的には「決意、覚悟、決断、決然とした態度」という意味をもちます。しかし決意性はこうした意味から考えられるのとは違って、個々の事態において何らかを決定するようなものではありません。現存在が決意性において何に向けて、何を決意するかを決定するのは、「決断(>Entschluß<)」という行為です。決断は実存的な行為ですが、決意性は現存在の実存論的な規定であり、何らかの行為を示すものではありません。

Der Entschluß ist gerade erst das erschließende Entwerfen und Bestimmen der jeweiligen faktischen Möglichkeit. Zur Entschlossenheit gehört notwendig die Unbestimmtheit, die jedes faktisch-geworfene Seinkönnen des Daseins charakterisiert. Ihrer selbst sicher ist die Entschlosseheit nur als Entschluß. Aber die existenzielle, jeweils erst im Entschluß sich bestimmende Unbestimmtheit der Entschlossenheit hat gleichwohl ihre existenziale Bestimmtheit. (p.298)
”決断こそが、そのおりおりの事実的な可能性を初めて開示しながら投企し、規定するのである”。決意性には必然的に、”無規定性という性格がそなわっている”のであり、この無規定性は、あらゆる事実的で被投的な現存在の存在可能の特徴なのである。決意性がみずからを確信することができるのは、ただ決断においてだけである。しかし決意性のこうした”実存的な無規定性”、すなわちそのつど決断だけにおいて初めてみずからを規定するしかないという無規定性には、”実存論的にみると規定性”がそなわっているのである。

 決意性の特徴は、「そのつど決断だけにおいて初めてみずからを規定する」しかないという「無規定性」にあります。「”決断こそが、そのおりおりの事実的な可能性を初めて開示しながら投企し、規定するのである”」と語られてるように、実存的に何らかの行為を決定するのは「決断」です。しかしこの決意性はこのように無規定でありながら、それでいて「”実存論的にみると規定性”がそなわっている」のです。実存的にはどのような決断を下すかは無規定ですが、実存論的には現存在は決意性において、そのもっとも根源的な真理に到達したのであり、規定性がそなわっているのです。

 ところで、現存在は真理と非真理のうちに等根源的に規定されていると指摘されていたのを覚えていますでしょうか(Part.45参照)。決意性は現存在のもっとも根源的な真理であり、これは決断において実存的に確信されます。現存在は決断を下しますが、その決断は気遣いという存在様態によってあらかじめ規定されています。気遣いには本質的に、実存性、事実性、頽落が含まれているのであり、日常性のもとで現存在は、世人の支配的な解釈のもとに委ねられているのでした。そして頽落している現存在は、こうした公共的な解釈から決断を下すしかないということになります。決意性は、世人のうちに自己喪失している状態から、みずからを呼び覚ますことを意味します。現存在は決意性によって、みずから決断することができるようになりますが、それでも頽落からみずからを解放することはできません。というのは、現存在は世界内存在として頽落した存在だからです。そこで現存在はふたたび頽落した、「非決意性」のもとに戻ることになります。

Sie eignet sich die Unwahrheit eigentlich zu. Das Dasein ist je schon und demnächst vielleicht wieder in der Unentschlossenheit. Dieser Titel drückt nur das Phänomen aus, das als Ausgeliefertsein an die herrschende Ausgelegtheit des Man interpretiert wurde. (p.299)
決意性は、非真理性を本来的にみずからのものとしている。現存在はそのつどすでに非決意性のうちにいるのであり、おそらくすぐにふたたび非決意性のもとに戻るだろう。この非決意性という名称が示しているのは、わたしたちがすでに、〈世人の支配的な解釈のもとに委ねられていること〉として解釈した現象にほかならない。

 現存在は日常的には頽落した存在のうちにあります。しかし現存在は実存する者であるから、みずからの可能性に向かって自覚し、みずからを覚醒させるように決意性において決断を下す可能性をつねに秘めています。この決断によって現存在は、頽落した自己の存在様式を否定するのですが、現存在はその存在からして本質的に頽落存在であるために、「現存在はそのつどすでに非決意性のうちにいるのであり、おそらくすぐにふたたび非決意性のもとに戻る」ということになるのです。決意性において現存在は、自己喪失の状態からみずからを呼び覚ましますが、しかしそれによって世人の非決意性が消滅したわけではなく、やはり支配的なものでありつづけるのです。

In der Entschlossenheit geht es dem Dasein um sein eigenstes Seinkönnen, das als geworfenes nur auf bestimmte faktische Möglichkeiten sich entwerfen kann. Der Entschluß entzieht sich nicht der >Wirklichkeit<, sondern entdeckt erst das faktisch Mögliche, so zwar, daß er es dergestalt, wie es als eigenstes Seinkönnen im Man möglich ist, ergreift. Die existenziale Bestimmtheit des je möglichen entschlossenen Daseins umfaßt die konstitutiven Momente des bisher übergangenen existenzialen Phänomens, das wir Situation nennen. (p.299)
決意性において現存在は、みずからにもっとも固有な存在可能を重視するが、この存在可能は被投的なものであるから、特定の規定された事実的な可能性のうちに、みずからを投企することができるだけである。決断は「現実」から一歩後退するものではなく、それによって事実的に可能なものが初めて露呈されるのである。そしてこの事実的に可能なものは、世人においてもっとも固有な存在可能として可能なものであることが把握されるのである。そのつど可能な決断した現存在の実存論的な規定性は、これまでは素通りしてきた実存論的な現象を構成する要素を含むのであり、この現象をわたしたちは”状況”と名づけることにしよう。

 現存在は決意性において、「みずからにもっとも固有な存在可能を重視するが、この存在可能は被投的なものであるから、特定の規定された事実的な可能性のうちに、みずからを投企することができるだけ」です。この可能性は、「世人においてもっとも固有な存在可能として可能なものであることが把握される」のです。現存在は世人から完全に切り離されることはありませんが、そのようなありかたにおいて決断するその場となっているのが、ここで登場する新しい概念である「状況」です。

 この「状況」とはどのような概念でしょうか。

Die Situation ist das je in der Entschlossenheit erschlossene Da, als welches das existierende Seiende da ist. Die Situation ist nicht ein vorhandener Rahmen, in dem das Dasein vorkommt, oder in den es sich nur selbst brächte. Weit entfernt von einem vorhandenen Gemisch der begegnenden Umstände und Zufälle, ist die Situation nur durch und in der Entschlossenheit. (p.299)
状況とはそのつど決意性において開示されている〈そこに現に〉であって、実存している存在者はそのような〈そこに現に〉として、そこに現に存在している。だから状況とは、現存在がその内部に登場したり、その内部にみずからを運び込むような眼前的に存在する空間のことではない。状況は、わたしたちが出会う事態や偶発的な出来事などを眼前的に寄せ集めたものとはまったく異なるものである。状況は、決意性によってのみ、そして決意性のうちにのみ”存在する”ものである。

 状況とは、「そのつど決意性において開示されている〈そこに現に〉であって、実存している存在者はそのような〈そこに現に〉として、そこに現に存在している」と語られています。これは現存在がその内部に存在するような「眼前的に存在する空間」ではなく、またこうした状況は、世人が考察する一般的な情勢や目先の機会とも異なるものです。
 この「状況」という概念が必要とされたのは、決意性が〈良心をもとうと意志すること〉として、現存在を状況のうちに呼び出すからです。この「状況」とは、現存在が決断を下すことを求められた現実的な文脈において理解されるものであり、一般情勢とは明確に異なります。

Die Entschlossenheit stellt sich nicht erst, kenntnisnehmend, eine Situation vor, sondern hat sich schon in sie gestellt. Als entschlossenes handelt das Dasein schon. (p.300)
決意性は、情報を知らされて初めて状況というものを思い浮かべるのではなく、すでに状況のうちに身を置いているのである。現存在は決意した現存在として、すでに”行為している”のである。

 現存在が決意性のもとで状況のうちで決断するとき、現存在はすでに行為しているとハイデガーは考えます。この行為の概念では、現存在がある状況のもとで決断を下すことが、すでにひとつの行為であることとして把握されています。一般に行為とは、特定の状況のうちで、実存的な選択を下すことであり、それが他者に理解できるものであることが必要でしょう。たんなる決断で、実際に行動に移されない場合には、それは心のうちでの選択にすぎません。しかしハイデガーにおいては、行為とは特定の状況で、他者の眼にみえる形で自分の行為を選択するという意味をもちません。行為するためには、現存在が自己の可能性への呼び掛けのうちで、良心をもとうと意志することで十分なのです(このハイデガーの特異な行為の概念については、現存在が現実の状況のうちで行動することを免除されることや、他者との関係が軽視されることなど、さまざまな問題点を抱えているとされています。これについてはまた別の機会にご紹介できればと思います)。

 これまでの成果を確認してみると、ハイデガーは決意性とは、もっとも固有な〈負い目ある存在〉へと向けて、沈黙のうちに、不安に耐えつつ自己を投企することであることを明らかにしてきました。これによって本来性から、その空虚さが取り払われたと言えるでしょう。

Aber auch so bleibt noch das existenzial deduzierte eigentliche Sein zum Tode als eigentliches Ganzseinkönnen ein rein existenzialer Entwurf, dem die daseinsmäßige Bezeugung fehlt. Erst wenn diese gefunden ist, genügt die Untersuchung der in ihrer Problematik geforderten Aufweisung eines existenzial bewährten und geklärten eigentlichen Ganzseinkönnens des Daseins. (p.301)
ただしこのようにしてわたしたちが本来的な全体的な存在可能として実存論的に演繹してきた本来的な〈死に臨む存在〉は、まだ純粋に実存論的な投企にすぎないのであり、まだ現存在に即した証示が行われていないのである。この証示が与えられた後になって初めて、わたしたちの探究で定めた問題構成において要求されていた課題を実現し、実存論的に証明され、解明された本来的な現存在の全体的な存在可能を示すことができるだろう。

 現存在の本来性は、〈死に臨む存在〉や良心、決意性などの概念によってその内容が豊かになってきましたが、「まだ純粋に実存論的な投企にすぎないのであり、まだ現存在に即した証示が行われていない」ことが指摘されています。次回から第2篇第3章に入っていくことになりますが、そこでは現存在の存在である気遣いの存在論的な意味が「時間性」として分析されることになります。この時間性に基づいて〈死に臨む存在〉や決意性を考察することによって、「実存論的に証明され、解明された本来的な現存在の全体的な存在可能を示すことができる」のです。


 第45節から第60節をもちまして、光文社古典新訳文庫の『存在と時間』の第6分冊の範囲が完了しました。

 この中山訳『存在と時間』には詳細な解説が付録されており、今回もこのnoteを執筆するにあたって大いに参考にさせていただきました。訳文も従来の訳本よりもわかりやすくなっているので、初学者の方にはおすすめの一冊であると思います。

 それでは次の第3章でも、よろしくお願いします。

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