『存在と時間』を読む Part.59

  第58節 呼び起こすことの理解と負い目

 この節は長く、日本語訳では特に難解なところだと思います。原文を参照しながら、訳すのが困難な概念の意味を把握していきましょう。

 呼び起こしは、配慮的な気遣いをしている世界内存在を、そのもっとも固有な存在可能に呼び起こします。そのためこの呼び掛けは、何に向かって呼び起こすのかを実存論的に解釈するさいには、個々の現存在における具体的な実存の可能性を画定しようとすることはできません。というのも、ある現存在の存在可能は、その現存在がどのような世界に生まれ、どのような人物として生きているかに基づくからであり、本書の考察はこうしたある個人に固有の存在可能を確定しようとするのではないからです。そうではなく、こうした事実的で実存的な存在可能が可能となるための実存論的な条件には、どのようなものが含まれているかということを確定しようとするのです。
 呼び掛けを理解する営みが本来的なものになるには、その営みのうちに何が含まれているのでしょうか。そしてこうした呼び掛けのうちに、その本質からして理解されるように与えられているものは何でしょうか。すでに指摘されたように、呼び掛けは不気味さからの呼び掛けとして、現存在をみずからの存在可能の前に進み出るように指示します。

Der Rufer ist zwar unbestimmt - aber das Woher, aus dem er ruft, bleibt für das Rufen nicht gleichgültig. Dieses Woher - die Unheimlichkeit der geworfenen Vereinzelung - wird im Rufen mitgerufen, das heißt miterschlossen. Das Woher des Rufens im Vorrufen auf ... ist das Wohin des Zurückrufens. (p.280)
呼び掛ける者が誰であるかは明らかではないが、呼び掛ける者が〈どこから〉呼び掛けるのかは、呼び掛けることにとってどうでもよいことではない。〈どこから〉かと言えば、被投された単独化によって生まれた不気味さからであり、この〈どこから〉は、呼び掛けることのうちにあってともに呼び掛けられている、すなわちそれとともに開示されているのである。〈~に向かって前に進みでるように呼び出す〉呼び掛けが〈どこから〉訪れるかというと、それはその呼び掛けが相手を呼び戻そうとしている〈どこへ〉である。

 呼び掛けが開示するのは、そのときどきの現存在に含まれるそのときどきに単独化された存在可能です。呼び掛けは開示するものという性格をそなえていますが、それは「~に向かって前に進みでるように」呼び戻すものとして理解することができます。呼び掛けは、世人自己としての現存在へ呼び掛けるのでしたが、この「呼び掛けが〈どこから〉訪れるかというと、それはその呼び掛けが相手を呼び戻そうとしている〈どこへ〉である」と指摘されています。呼び掛ける者は不気味さにおいて単独化している現存在でしたが、この現存在は頽落している現存在を不気味さのもとへと呼び戻そうとしているのです。前節までの成果を踏まえて、呼び掛けはこのようなものとして把握されました。それでは、呼び掛けは何を理解するように求めているのでしょうか。

 ここでハイデガーが提起するのが、「負い目」という概念です。「負い目」と訳した>Schuld<というドイツ語は、「責任、咎、罪悪感」という精神的な意味と、「借金、負債」という経済的な意味の2つの文脈で使われます。ハイデガーはこの>Schuld<と、これの形容詞形である>schuldig<(「負い目ある」と訳します)に基づいた概念を軸として、呼び掛ける者と呼び掛けられる者の区別と対比というここでの枠組みに依拠しながら、考察を進めようとします。
 ハイデガーは「負い目あり」ということを提起したのは、さまざまな良心の経験のうちで、それが一貫して聞かれていることであるからです。こうした経験が示しているのは、良心は現存在を「負い目あり」と宣告しているということ、良心が警告するのは「負い目あり」が発生しうる可能性があること、または「疚しくない良心」の場合には、いかなる「負い目あり」も意識していないことを確認しているということです。

Wenn nur nicht dieses >übereinstimmend< erfahrene >schuldig< in den Gewissenserfahrungen und -auslegungen so ganz verschieden bestimmt wäre! Und selbst wenn der Sinn dieses >schuldig< sich einstimmig fassen ließe, der existenziale Begriff dieses Schuldigseins liegt im Dunkeln. (p.281)
ただ問題なのは、良心の経験や解釈において「一致して」経験されているこの「負い目あり」ということが、きわめて多様に規定されているということである。そしてこの「負い目あり」ということの意味について見解が一致したとしても、この〈負い目のある存在〉についての”実存論的な概念”がまだ闇に閉ざされたままなのである。

 たしかに「負い目」の概念は、良心経験に結びつくことができるものですが、これは恣意的に考えだされて、現存在におしつけるようなもののようにみえます。もし良心が「負い目あり」を理解するように現存在に求めているのだとするなら、この概念は現存在の存在の解釈から取りだされることができるはずです。この概念が恣意的なものでないことを明らかにするには、この概念をさらに考察し、それが現存在の実存論的に根源的な概念であることを示す必要があるでしょう。
 それでは、負い目の現象をあらわにするための道筋は、どのようにすべきでしょうか。ところでわたしたちは、負い目が「きわめて多様に規定されている」と言われているように、負い目について何かを了解することができますから、その可能性はあらかじめ現存在のうちに素描されているはずです。そうであるなら、負い目、良心、死などの現象を存在論的に探究するさいにはつねに、日常的な現存在についての解釈を手掛かりにすることができるでしょう。頽落した現存在におけるこうした解釈はやはり非本来的なものであるかもしれませんが、こうした解釈のうちにも、その現象の根源的な理念が含まれているとハイデガーは考えるのです。そこで日常的な理解において、負い目についてどのように理解されているかを考察してみましょう。

 日常的な理解では何よりも、負い目とは現存在が他者にたいして負うものであることが理解されています。現存在がみずからの責任のもとで、他者に何かを借りている場合に、こうした負い目が発生します。負い目とはまず、他者への負債であり、借りであり、他者はあるものの返済を請求する権利をもっています。
 他方で金銭的な意味ではなく、精神的な意味で負い目を負うことがあります。ある国のリーダーになることは、責任をもち、その国民の幸福のために努力しなければなりません。
 また、このように他者に負債を負うことと、あることに責任を負うことが、たがいに関連して発生することがあります。わたしが他者にたいしてなすべきことをなさなかったなら、わたしはその他者に負い目を負うのであり、わたしはその不作為にたいして責任を負わされます。たとえば、刀鍛冶であるわたしが他者の依頼に報いることをせず、なまくらの刀を製作し、そのために他者が満足のいくように戦えず、戦場で破滅してしまうような結果をもたらすなら、それはわたしが他者に負債を負っていることにたいして責任がある状態でありながら、その負債を返さず、責任を果たさなかったということになるでしょう。

Der formale Begriff des Schuldigseins im Sinne des Schuldiggewordenseins am Anderen läßt sich also bestimmen: Grundsein für einen Mangel im Dasein eines Anderen, so zwar, daß dieses Grundsein selbst sich aus seinem Wofür als >mangelhaft< bestimmt. Diese Mangelhaftigkeit ist das Ungenügen gegenüber einer Forderung, die an das existierende Mitsein mit Anderen ergeht. (p.282)
この〈他者に負い目がある〉という意味での〈負い目のある存在〉の形式的な概念は、次のように定義できるだろう。それは他者の現存在において発生した欠落の”根拠となっている”ことであり、その根拠であることそのものが、その欠落していることに「欠落をもたらす」原因となっているのである。この〈欠落をもたらすこと〉は、他者たちとの実存的な共同存在のためにその現存在に重要な要求が向けられているのに、それを満たしていないということである。

 この他者にたいする「負い目ある存在」を定義するなら、わたしが「他者の現存在において発生した欠落の”根拠となっている”こと」と言えるでしょう。刀鍛冶であるわたしが他者の依頼に報いず、他者が望まないような結果をもたらしたなら、その「〈欠落をもたらすこと〉は、他者たちとの実存的な共同存在のためにその現存在に重要な要求が向けられているのに、それを満たしていないということ」です。

 この定義の中心となる概念が「欠落」であることは明らかでしょう。この概念は、ある”べき”ものが欠如していることを示すものです。そのある「べき」という当為がどこから生まれるかを考えてみると、それは現存在が世界内存在として、他者を配慮的に気遣う共同存在であることから生まれることは明らかです。わたしは他者たちと共同存在する現存在として、他者たちに責任を負うのです。このことは現存在の倫理や法にかかわるものとして重要なものであり、その根拠となるものです。
 しかしこのように「負い目のある存在」を「他者に欠落をもたらす」という行為と直接に結びつけて考えるのは妥当なことでしょうか。「欠落」という考え方には、1つの存在論的な前提が存在しているのではないでしょうか。満月を想定して、上弦の月を完全な状態からの「欠落」として考えることができるとしても、それを現存在にあてはめることには、存在論的な欠陥があることが指摘されてきました(Part.49参照)。それと同じことがこの「欠落」としての負い目の概念にも言えるのではないでしょうか。
 この欠如という概念には、たとえば他者の依頼に十分に報いるという本来の状態にたいする欠落が考えられています。そうした考え方は、依頼主に作成されるべき業物という眼前的な存在が欠けていることを想定しているのであり、あるべきものが眼前的に存在していないことを意味するものです。この欠如の概念は、眼前的に存在するものの存在規定なのです。

Mangel als Nichtvorhandensein eines Gesollten ist eine Seinsbestimmung des Vorhandenen. In diesem Sinne kann an der Existenz wesenhaft nichts mangeln, nicht weil sie vollkommen wäre, sondern weil ihr Seinscharakter von aller Vorhandenheit unterschieden bleibt. (p.283)
あるべきものが眼の前にない、すなわち眼前的に存在していないという意味での欠落は、眼前的に存在するものの存在規定である。この意味では実存するものには、その本質からして何も欠落していない。完全だからではなく、実存するものの存在性格は、どのような眼前存在性とも異なるものだからである。

 
 ですから「負い目」には、眼前存在者において確認されるような欠如とは別の種類の「ない」という否定性があると考えるべきなのです。それを完全体からの欠如として考えるのではなく、「べし」という当為への背反として考えるのでもなく、存在論的に考察するとすれば、どのような道が可能でしょうか。

Gleichwohl liegt in der Idee von >schuldig< der Charakter des Nicht. Wenn das >schuldig< die Existenz soll bestimmen können, dann erwächst hiermit das ontologische Problem, den Nicht-Charakter dieses Nicht existenzial aufzuklären. Ferner gehört in die Idee von >schuldig<, was sich im Schuldbegriff als >schuld haben an< indifferent ausdrückt: das Grundsein für .... Die formal existenziale Idee des >schuldig< bestimmen wir daher also: Grundsein für ein durch ein Nicht bestimmtes Sein - das heißt Grundsein einer Nichtigkeit. (p.283)
それでも「負い目あり」という理念には、”ない”という性格がひそんでいる。この「負い目あり」が実存を規定しうるはずであるなら、そのときに、この〈ない〉の”無としての性格”を実存論的に解明するという存在論的な問題が、新たに登場してくる。さらに「~に責任がある」という負い目の概念のうちで、まだ未分化なままで表現されていたように、この「負い目あり」の理念には、〈~の根拠である〉ことが含まれている。そこでわたしたちは「負い目あり」の形式的で実存論的な理念を、〈ある無によって規定されている存在の根拠であること〉と定義してみよう。すなわち”無であることの根拠”と定義するのである。

 世界内存在としての現存在のうちには、世界の無の不気味さを感じて、それに不安を感じるという性向が存在しています。「不安においてはひとは”〈不気味な〉”感じを抱く。そこでさしあたり表現されているのは、不安において現存在が身を置いているところが、奇妙なまでに無規定であるということである。それは無であり、〈どこでもない〉のである」(Part.39)。このように不安を感じることで、現存在は世界のうちで単独な存在として孤立します。
 このように「無」のもつ否定性が、現存在に「負い目あり」という感覚を生み出すのだと考えることができるでしょう。ハイデガーは「〈負い目あり〉という理念には、”ない”という性格がひそんでいる」と断言します。するとこの「負い目あり」という理念は、「〈ある無によって規定されている存在の根拠であること〉」、すなわち「”無であることの根拠”」と規定できることになります(ここで「ない、無」を表現している語は>Nicht<であり、この語は英語の>not<にあたる否定を意味します。日本語でもそうであるように「負い目」という概念は、否定的な意味をもつ語として理解できますが、ハイデガーはそのことを指して、「〈負い目あり〉という理念には、”ない”という性格がひそんでいる」と主張しています。また「無」という語はほんらい>Nichts<というように、辞書的には>Nicht<の意味に含まれませんが、ここでは現存在が感じる不気味さの根拠である「無」と、負い目に含まれる「ない」という否定的な意味とで2重に把握されています)。
 そのように考えると、現存在がみずからを「負い目ある存在」として自覚するのは、何らかの過誤を犯したことから生まれるものではないと言えるでしょう。

Das Schuldigsein resultiert nicht erst aus einer Verschuldung, sondern umgekehrt: diese wird erst möglich >auf Grund< eines ursprünglichen Schuldigseins. (p.284)
”負い目ある存在は、何らかの過誤を犯したことから生まれるものではなく、その反対に、何らかの過誤のほうが、ある根源的な負い目ある存在を「根拠として」初めて可能になるのである”。

 人間が過誤を犯すのは、人間に何らかの欠陥があるからではなく、人間には根底的にある〈無〉がそなわっているからであるということになります。実存するということは、「外にでる」ということです(Part.8参照)。実存するものは、本質と存在が一致しておらず、存在の外部にでようとするものであり、自己に満足し、自己に安住することのできないものです。このように実存するものは、自己のうちにある本質と存在が一致し”ない”ことを、すなわち〈無〉をそなえているために、その「ない」や無の存在のために、外部に出ようとすると考えることができます。
 そうだとすれば実存する者は、存在そのものにおいて「負い目」のようなものをそなえていることになります。しかしそれは何らかの欠落でも欠如でもありません。実存する者は、存在することにおいては何も欠如していませんが、みずからに満足して安住していることができません。そのうちに根源的な〈無〉を、本質と存在とが一致し”ない”という否定性をかかえているからです。

 このような負い目ある存在を、現存在の存在のうちに提示することができるでしょうか。これが実存論的にどのようにして可能になるのか、考察する必要があります。
 現存在の存在は気遣いです。気遣いには、事実性(被投性)、実存(投企)、頽落とが含まれていました。現存在は「投げられたもの」として、世界のうちで被投的な存在者として存在していますが、投げられたということは、生まれてくるにあたって、いかなる能動性を発揮することもないということです。現存在は生まれてくる場所も、生まれてくるときも、生まれてくる両親も選ぶことはできません。人間は誕生にあたってこうした受動性のもとにあるのであり、それが現存在の被投性です。この被投性は現存在の存在とともに与えられたものであり、現存在はこの被投性を取り消すことも、それより前にさかのぼることもできません。このように考えるなら、人間がもつ存在可能は、その現存在そのものに属するものでありながら、現存在がみずからに固有なものとして与えておいたものではないと言わざるをえません。ある人が戦士として申し分のない身体をもって生まれてきても、平和な国に生まれたのであれば、優秀な戦士であるという存在可能は失われるのです。逆に必要な体躯にめぐまれなかったのなら、戦うことすらできないでしょう。
 このように人間には根源的な制限が、いわば有限性がそなわっているのですが、ハイデガーはさらにこの人間の根源的な有限性を、実存そのものと関連づけます。実存するということは、この有限性を生きるということです。

Als dieses Seiende, dem überantwortet es einzig als das Seiende, das es ist, existieren kann, ist es existierend der Grund seines Seinkönnens. Ob es den Grund gleich selbst nicht gelegt hat, ruht es in seiner Schwere, die ihm die Stimmung als Last offenbar macht. (p.284)
現存在は”このような存在者として”、この存在者に委ねられているからこそ、現存在という存在者として実存することができる。”こうした被投された存在者として”現存在は、”実存しつつ”、みずからの存在可能の根拠なのである。現存在はその根拠を”みずから”据えたのでは”ない”が、現存在はこの根拠の重みのうちにとどまっている。そのことを気分は重荷として、現存在に示しているのである。

 現存在は被投された存在者として、「この存在者に委ねられているからこそ、現存在という存在者として実存することができる」ということを認めなければなりません。存在可能とは、現存在にうちに秘められた可能性ですが、その可能性は現存在にとって宙に浮いたものではありません。体躯にめぐまれなかった子どもにとっては、優秀な戦士になることはかなり実現が困難な可能性であるかもしれません。それぞれの現存在にとって、その世界における被投性によって、みずから実現することが望める可能性の範囲というものが決まってしまうのです。そしてすべての現存在は、そのうちに被投されているさまざまな可能性に向かって、みずからを投企することを目指さなければなりません。それが、「”こうした被投された存在者として”現存在は、”実存しつつ”、みずからの存在可能の根拠なのである」とハイデガーが語る意味なのです。

Und wie ist es dieser geworfene Grund? Einzig so, daß es sich auf Möglichkeiten entwirft, in die es geworfen ist. Das Selbst, das als solches den Grund seiner selbst zu legen hat, kann dessen nie mächtig werden und hat doch existierend das Grundsein zu übernehmen. Der eigene geworfene Grund zu sein, ist das Seinkönnen, darum es der Sorge geht. (p.284)
それでは現存在はどのようにしてこのような被投的な根拠で”ある”のだろうか。それはただ、現存在がそのうちに被投されているさまざまな可能性に向かって、みずからを投企することによってでしかありえない。自己は、自己としてはみずからの根拠を据えなければならないのだが、それでも自己はみずからの根拠を”決して”意のままにすることができ”ない”のであり、それでいて、実存しながら、根拠であることを引きうけなければならないのである。このみずからに固有の被投的な根拠であること、これこそが存在可能であり、気遣いはこれを目指しているのである。

 すべての現存在は「みずからの根拠を”決して”意のままにすることができ”ない”のであり、それでいて、実存しながら、根拠であることを引きうけなければならない」のです。このような自己に固有の存在可能に向けて投企するありかたである根拠を引き受けること、「みずからに固有の被投的な根拠であること、これこそが存在可能であり、気遣いはこれを目指している」のです。

Grund-seiend, das heißt als geworfenes existierend, bleibt das Dasein ständig hinter seinen Möglichkeiten zurück. Es ist nie existent vor seinem Grunde, sondern je nur aus ihm und als dieser. Grundsein besagt demnach, das eigensten Seins von Grund auf nie mächtig sein. Dieses Nicht gehört zum existenzialen Sinn der Geworfenheit. (p.284)
根拠でありながら、すなわち被投されたものとして実存しながら、現存在は不断にみずからの可能性に立ち遅れている。現存在がみずからの根拠に”先立って”実存しながら存在したことはない。つねに”みずからの根拠によって”のみ、そして”みずからの根拠として”実存しながら、存在しているだけである。だから根拠であるということは、みずからのもっとも固有な存在を根底から意のままにすることが”決して”でき”ない”ということである。この”〈ない〉”は、被投性の実存論的な意味に含まれているのである。

 この「根拠」という概念が絡んでくる文は、日本語訳では少々読みづらいのではないでしょうか。「根拠」と訳すのは>Grund<というドイツ語です。この語は辞書的には「基礎、土台、地面、理由、根拠、動機、原因、背景」というように、英語の>ground<や>basis<、>reason<という意味をあわせもっています。ハイデガーが使用するのは、無論こうしたさまざまな意味を包括した>Grund<ですが、ここではどの意味が強くでているかというと、「それ以上さかのぼることができない」という意味だと考えられます。現存在は被投された存在者として、「みずからの根拠に”先立って”実存しながら存在したことはない」と指摘されているように、現存在は被投性の背後にさかのぼることはできません。そのためここで「根拠であること」と訳されている>Grundsein<は、「それ以上背後にさかのぼることができないような存在」というニュアンスで把握していただけばと思います。
 現存在が「根拠であるということは、みずからのもっとも固有な存在を根底から意のままにすることが”決して”でき”ない”」ということです。というのも、現存在はみずからの根拠に先立って実存的に存在することはできないからであり、「つねに”みずからの根拠によって”のみ、そして”みずからの根拠として”実存しながら、存在しているだけである」からです。だから現存在は根拠であることで、この「でき”ない”」ということを、みずからの無力を存在するのです。

Grund-seiend ist es selbst eine Nichtigkeit seiner selbst. Nichtigkeit bedeutet keineswegs Nichtvorhandensein, Nichtbestehen, sondern meint ein Nicht, das dieses Sein des Daseins, seine Geworfenheit, konstituiert. Der Nichtcharakter dieses Nicht bestimmt sich existenzial: Selbst seiend ist das Dasein das geworfene Seiende als Selbst. Nicht durch es selbst, sondern an es selbst entlassen aus dem Grunde, um als dieser zu sein. Das Dasein ist nicht insofern selbst der Grund seines Seins, als dieser aus eigenem Entwurf erst entspringt, wohl aber ist es als Selbstsein das Sein des Grundes. Dieser ist immer nur Grund eines Seienden, dessen Sein das Grundsein zu übernehmen hat. (p.284)
現存在は根拠であることによって、みずからの〈無であること〉を”存在する”のである。この〈無であること〉は、眼前的に存在しないことや、存立していないことを意味するのではない。この〈無〉こそが、現存在のこの”存在”を構成し、現存在の被投性を構成しているのである。この〈無〉に属する〈無であること〉という性格は、実存論的には、現存在が”自己”であるのは、この被投された存在を自己”として”存在することによってであることを意味している。現存在が自己であるのはみずから”によってではなく”、根拠から自己へと”委ねられ”、この”根拠として”存在させられていることによってである。現存在は根拠をみずから投企によって発生させたという意味で、みずからの存在の根拠であるのではない。おそらく現存在は自己存在として、根拠の”存在”である。根拠とはつねに、存在者の根拠であり、その存在が、根拠であることを引きうけざるをえないような存在者の根拠なのである。

 現存在は〈それ以上さかのぼることができ”ない”〉という意味で、「みずからの〈無であること〉を”存在する”」と指摘されています。この「〈無〉に属する〈無であること〉という性格は、実存論的には、現存在が”自己”であるのは、この被投された存在を自己”として”存在することによってであることを意味している」のです。現存在のこの「ない」という無力は、「眼前的に存在しないことや、存立していないことを意味する」のではなく、「この〈無〉こそが、現存在のこの”存在”を構成し、現存在の被投性を構成している」ものなのです。

 このように無力であることは、現存在の被投性によって生まれた本質的な規定性です。しかしこの無力さは、ただ現存在の受動的な被投性だけによって生まれたものではありません。現存在は能動的な投企においても、みずからの無力をあらわにします。たしかに現存在は実存する存在者として、さまざまな存在可能に直面する存在者です。現存在は自由な存在として、みずからの可能性を選択し、決断することができます。
 しかし現存在が選択し、決断することのできる自由な可能性というものは、すでに被投性の刻印をうけたものです。ある現存在が選択することのできる可能性は、被投性によって限られているのであり、その選択の自由は、限定された選択肢のうちから、1つを選ぶことにすぎません。そしてその1つを選んだなら、他の選択肢はもはや選択肢として存続することはできないのです。

Der Entwurf ist nicht nur als je geworfener durch die Nichtigkeit des Grundseins bestimmt, sondern als Entwurf selbst wesenhaft nichtig. Diese Bestimmung meint wiederum keineswegs die ontische Eigenschaft des >erfolglos< oder >unwertig<, sondern ein existenziales Konstitutivum der Seinsstruktur des Entwerfens. Die gemeinte Nichtigkeit gehört zum Freisein des Daseins für seine existenziellen Möglichkeiten. Die Freiheit aber ist nur in der Wahl der einen, das heißt im Tragen des Nichtgewählthabens und Nichtauchwählenkönnens der anderen. (p.285)
投企は、そのつど被投的な投企であるから、根拠であることの〈無であること〉によって規定されている。それだけでなく、”投企”そのものの本質からして”無であるような”ものである。この規定もまた、決して「成功しない」とか「無価値である」といった存在者的な特性を示すものではなく、投企することの存在構造を実存論的に構成するものを意味するのである。ここで考えられている〈無であること〉は、現存在がみずからの実存的な可能性に向かって自由であり、開かれていることに属している。しかしこの自由は、ある可能性を選択することの自由に”すぎない”のであり、そのほかの可能性を〈選択しなかったこと〉、そのほかの可能性を〈選択することができなかったこと〉を伴うのである。

 現存在は存在可能であるから、そのつどこの可能性、あの可能性といった1つの可能性のうちに立たされているのであり、現存在はその実存的な投企において、その他のさまざまな可能性を放棄していると言わざるをえません。ということは、現存在の自由な投企もまた、被投的な投企として、「本質からして”無であるような”もの」だということです。この「〈無であること〉は、現存在がみずからの実存的な可能性に向かって自由であり、開かれていることに属している」ものであり、現存在の自由はその無力さと、そお「無であること」といわば等根源的なのです。こうして投企にもまた、>Nicht<という性格が本質的なものであることが明らかになりました。

 現存在とは被投的な投企であること、そして現存在の被投性が〈無であること〉によって規定され、投企もまた〈無であること〉によって規定されていることを考えるなら、この>Nicht<は現存在にとって本質的な規定だと言えるでしょう。そしてこのことが、頽落した現存在が”非”本来的な現存在に属する〈無であること〉を可能にする根拠となっています。

Die Sorge selbst ist in ihrem Wesen durch und durch von Nichtigkeit durchsetzt. Die Sorge - das Sein des Daseins - besagt demnach als geworfener Entwurf: Das (nichtige) Grund-sein einer Nichtigkeit. Und das bedeutet: Das Dasein ist als solches schuldig, wenn anders die formale existenziale Bestimmung der Schuld als Grundsein einer Nichtigkeit zu Recht besteht. (p.285)
”気遣いそのものは、その本質において、隅から隅まで、〈無であること〉に貫かれている”。気遣い、この現存在の存在は、被投された投企であるために、無であることの(それ自体が無であるような)根拠であることを意味している。そしてこのことは、”現存在は現存在であるかぎり負い目のあるものである”ことを意味している。ただしそれは、負い目の形式的で実存論的な規定が、〈無であること〉の根拠として正しいとすればのことである。

 現存在は世界内存在として、気遣いをする存在です。気遣いとは、現存在の存在そのものであり、そのことは「無であることの(それ自体が無であるような)根拠であることを意味している」のです。そのため、現存在はそのつどすでに頽落として、事実的に存在していると結論することができます。
 現存在が頽落した気遣う存在であることのうちに、現存在が「負い目ある存在」であることの根拠があります。現存在は無力な世界内存在として気遣う存在者であるために、本質的に負い目を負っているのです。この無力さは、有限な現存在の本質をなすものですから、何らかの理想が掲げられていて、それが現存在によって実現されなかったという欠落のために生まれた欠如という性格をもつものではないことは明らかでしょう。この現存在の存在そのものが、最初から>Nicht<という本質をもっているのです。「”気遣いそのものは、その本質において、隅から隅まで、〈無であること〉に貫かれている”」のです。

 ここまで気遣いを構成する契機である被投性、投企、頽落をみてきて、現存在の存在である気遣いには、本質からして〈無であること〉が含まれていることが指摘されてきました。注意すべきは、この実存論的な〈無であること〉がおびている”無の存在論的な意味”は、まだ明らかになったわけではないということです。ハイデガーは、無一般の存在論的な本質とは何かという問いに答えるためには、まずは存在一般の意味を主題として解明する必要があると指摘します。存在論的な無についての問題は、存在一般の意味が明らかになった後で、そこから構成されるようなものなのです。


 長くなってきましたので、今回はここまでにいたします。第58節はまだ続きます。次回は悪と欠如という概念から〈負い目ある存在〉を考察していきます。

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