同性婚容認は当然ではない。インテリのみなさんへの挑戦状。

自分は同性婚容認に賛成だ。愛し合う二人が人生を共に歩んでいく決意をしたことが大事であって同性愛か異性愛かの区別は必要ないから。これは私の感覚。しかし賛成の論拠がその人の勝手という意味での自由とか、抽象的にみんな平等だからとかいうのであれば違うと思う。

自由ということであれば、成人を迎えていれば自由意志での近親婚もオッケーだろうか?当事者全員が了承していれば複数での結婚もありなのか。他人に口を出される筋合いはないとか、人に迷惑をかけていないということであればこれらもアリで、同性婚同様に容認されるべきだ。

既婚者には未婚者にはない税制面での優遇や、配偶者であることで有利な扱いを受けることがある。それは社会や国家が結婚を価値あるものとして承認しているからだ。その人の勝手ということであればそのような優遇はなしで勝手にやってくれればよいということになってしまう。なんなら結婚制度そのものを国の制度としてはやめてしまってもよいのではないか。みんな勝手にやればいいのだから国が認めて優遇してあげる必要はないだろう。

結婚とはこれこれこういうもので、このような価値があり、だから社会や国家はそれを保護することにしたという歴史がある。それに基づいてお互いに助け合って生活するとか不貞行為はしないというように結婚の内容が具体的に定められている。

つまりこれは価値の問題なのであり、社会的合意や承認ということに開かれた議論が必要で、単に個人の勝手ということではない。どのような結婚が承認されるのに値するかみんなで考えて結論を出すものであり、認められるものもあれば認められないものもある。実際近親婚や複数婚は現状認められていない。

ではどのような結婚が承認に値するのかをどのように決めればよいのか。自分は先述した通り比較的抽象的に、愛で結ばれた二人ならいいじゃんという考え方。もしフォビアがあるという人は実際の異性愛以外の形をドキュメンタリーでも何でもいいから具体的に知ることだろう。もっといいのはそういう属性の友達がいることだろう。そうすればほとんどの場合、自然と差別する気も起きなくなるのではないか。
価値を定めていくにあたって同性愛者がどのような実態を生きてるのかの像が見えない限り、みんな平等だから同性婚もオッケーという抽象論になりがちだ。綺麗事化され、その綺麗事が裸の王様となってしまうのだ。

異性愛者との共通点や相違点が明らかになって共感や理解が広がる。どんなものなのかわからないものは怖いものだ。それは自然な心情であったり本能的な忌避感かもしれない。反対派を古くさくて頑迷だとか差別的だとか攻撃すべきではない。自然な心情はそれはそれでスペースを与えてあげないと息苦しさが蔓延する。

容認反対派の問題点

ただし、内面こそ絶対的に自由だが、「隣に住んでたら気持ち悪い」というような当事者が傷つく表現が表に出るのは残念なことだ。そんなことを表だって言う人がいるのも多様性として認めろという論はちょっと違う気がする。しかしこれとていわゆるリベラル派の不寛容さへの反発心が漏れ出たものと私は理解しているが。
それと同性婚を容認すると少子化に拍車がかかるというのもたぶん違う。容認しないことで同性愛者が異性と子供を作るとは考えにくいからだ。異性婚秩序が変わることによる結婚や出産への圧の低下により少子化を進める可能性はあるが、それを言ったら圧力をかけて産ませた方がいいということになる。秩序を守れという一見あいまいな主張は、良くも悪くもこのような側面を内包している。


インテリの先生方に教えていただきたい点

いわゆるインテリの人たちというのは、同性婚容認反対派を不合理で頑迷だとバカにしがちだが、それでは社会的国家的意志決定はインテリやら憲法学者の大先生が決定するべきとお考えなのか?私のような勉強不足の国民も含めた民主的意志決定は何のためにあるとお考えなのか。それとも本当はそんなもの必要ないとお考えなのか?私はそれこそ差別主義な気もするのだが…。私は、何がトクかとか何が論理的に合理的かを超えた、価値の問題に結論を出し、みんなの納得を得ながら進めるべきだからこそみんなの投票で政治的意志決定をするのだと考えるがいかがだろうか。たしかに経済的に何がトクか、何が合理的かは国民よりもインテリのみなさんが正しく結論を出してくれることが多いだろう。しかし、そもそもどの指標、どの基準を選択するかは価値の問題だ。例えば、経済的には損でも、国家の誇りを保つことが大事だというのも価値の問題だろう。そこで納得を得て前に進めるという、手続き的な正統性調達の手段が民主的な意志決定の制度なのだ。たしかに国の存続を危険に晒す民主的意志決定が世界中で見られることが問題視されてはいるがそこはテクニック論であり、国益を損ねない適切な意志決定を導き、国民に納得してもらいながら推進していくことこそ政治家の仕事ではないか。今回の岸田総理の秘書官は政治家ではないものの、政権の仕事をする官僚として、今回の発言が報じられたことはその意味で残念だ。

他の議論としては、憲法の「両性」の合意とあるから結婚は男女間でのものだと容認反対派が言うのに対し、賛成派は「両性」の文言は戦前の家制度で個人の自由意思が阻害されがちだったから、個人で結婚を自由に決めることができるということが趣旨なのであり、同性婚を禁じるものではないと言う。憲法制定意思を考えろというわけだ。たしかに通常の国語とは違う解釈が学者の先生方の間でなされているのは承知している。有名なところだと器物損壊の「損壊」とは、モノを使えなくすることなのであり、実際に壊すことに限定されないというやつだ。解釈というものが通常の国語的理解を超えてまでそこまで絶対的なのかは疑問だが、それはさておき、通常の国語とは違っても正しい解釈のもとでは同性婚容認可能なのだから憲法改正の「必要」はないと容認派は主張するだろう。しかし改正「した方がいい」とは考えるのか聞いてみたい気もする。憲法制定権者が少なくとも建前上は国民だとすれば、普通の国語に改正した方がいいと思うが、不勉強な国民には理解できなくていいということなのか?

誰のための議論か

さらに知りたいのはこれらの議論は当事者への利益になっているのかということだ。何らかの発言に対して差別主義者のレッテルを貼って排除する。原則は言論には言論をぶつけるべきだが、たしかに属性によって人を傷つける言論はそれが表に出されてしまった時点で人を傷つけるから、社会的制裁があってしかるべき場面もあるだろう。しかし言論が得意でない者は、議論やその対象つまり当事者にも回避的になり腫れ物として扱うことになりはしないか。それは本当に当事者の利益なのか。

差別によって真に毀損されるものは何なのか。思うにそれは平等という「観念」ではなく、人の「尊厳」なのだと思うが、いかがだろうか。尊厳が損なわれるかどうかを基準にアウトな表現を規定したり、社会制度を構築していく必要があり、これには皮相的な平等や自由とやらではなく、価値の問題として議論していくべきなのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?