教育虐待と宗教二世問題の違いは?社会で優勢な秩序はオルタナティブな秩序を本当の意味で認めることができるのか。

安倍元首相殺害事件に端を発した旧統一教会による宗教二世問題。
4月1日AbemaTVで放送の「news BAR 橋下」で菅野志桜里さんと元二世信者の方を招いて議論された。
この議題は番組では取り上げきれていない難しい問題を含んでいるように感じたし、もっと言えばどこか割り切れなさを感じていた。それについて簡単に話したい。

大人が自身の意志で例えば高額献金のような社会通念からは外れるような振る舞いをしても家族を含めた他人に迷惑をかけなければ問題ないが、子供が信仰を強制されることはあってはならないという議論がなされた。
「旧統一教会を信じない者は堕落しているから付き合うな」と子供の頃から親に言われていたこと、「神の子として(条件付きで)愛された」ということが元二世信者の方の口から語られた。そして脱会しようとしたときには、とてつもなく大きな不安が襲い、自分が産まれてきた意味までをも考えたという。自分が依って立つ基礎が崩れるからだろう。精神・心理領域では宗教二世の支援が最も手こずるという話も聞かれる。

親が受験生に「勉強しないと大変なことになる」のように宗教とは違う形であっても子供の不安を煽りながら親の価値観を押し付けることがある。そういったこととの違いは何なのか。「洗脳的なやり方は子供の自由を阻害する」「宗教に限定せず虐待的なこと全般を社会全体で食い止めていく努力が必要だ」といった議論が橋下さんと菅野さんの間で交わされた。

加えて橋下さんは「宗教には現実社会でうまくいかない、認められない人たちがその宗教団体では温かく受け入れられる」という宗教の機能についても語っていた。これはつまり宗教共同体による承認は社会の承認のオルタナティブ(代替)として機能しているということだ。
オウム真理教では行政機構を模した「省庁制」が敷かれていたことは有名だ。この中で「大臣」になってみたり、麻原の側近となったりして「出世」して組織内での承認を得ていた。
一部宗教団体の選挙の時の尋常ならぬ結束も信者たちにとってはその結束自体が自己目的化していたのかもしれない。
そして内部の結束の強さは、外部の悪魔化の度合いと比例していたりする。

橋下さんは「ここなら受け入れてもらえるという拠り所としての宗教は否定されるべきではない」という。
そして宗教を特別視せず、子供の虐待的な扱い全てを社会が食い止めていくべきだとも言う。
この2点はもちろん正論なのだろうが、「拠り所としての宗教」なるものは言葉の響きほど暖かいものではないのではないかというのが今回の議論で私が感じた割り切れなさ、違和感の根っこにあるように思う。

受験勉強以外の行動を過剰に制限して子供に重すぎる負荷をかける教育虐待は「いい学校を出て、いい会社に」という社会で優勢な秩序や価値観の内側にあるゆえに、「行きすぎはよくない」という程度であって、その価値観自体が異様で異常なものとされているわけではないだろう。(現代でもこのような人生設計が通用するかどうかはさておき)
それに対して「信者以外はサタンだから外部に友達を作るな」とか「子供をムチ打ちでしつける」というのは程度問題などではなく一般的な通念や秩序に対する挑戦という形になっている。
イチ宗教団体が行政官僚機構のマネごとをしていたり、すべての信者が特定の政党に投票するということも一般的な通念、価値観からは異様な価値観がベースに横たわっているように見える。
一般社会の価値観や秩序のオルタナティブとして宗教の価値観や秩序を認めるというのはこのような根源的な異質性を許容するということを含んでおり、そんなにお行儀のいい話では終わらないのではなかろうか。

現在は絶対ダメとされている体罰であっても、少し前までは親の監護権の一部として容認されていたし、現在でもその必要性を訴える人がいる。
その良し悪しはさておき、一般的な規範であっても何を許し、何を許さないかは時代によって相対的だ。
体罰を許さない現在のベースの価値観とは単に暴力的な表象を容認しないことにあるのかもしれない。少なくとも何が教育効果があるのかをもとに決められたわけではないだろう。
もしそうだとすれば、ベースの価値観とは感性や感覚のレベルの問題であり、しかも相対的なものであるということになる。
子供をムチ打ちするのがいいとは私の感覚でも思わないが、しかし絶対的なものでもないというのもまた事実なのだ。目に見える個々の行動というのは、「暴力的表象を許さない」といったような基本的な感性や感覚に基づいている。
また、「あの子とは付き合わないように」と親が子供に言うことは一般社会でも聞かれる話だ。「外部はサタンだから付き合うな」との違いはといえば、一般社会そのものを敵視しているという点にあり、やはり一般的な価値観や秩序への挑戦を含んでいる。我々はそこに対して根源的な異質性を感じているゆえに忌避感をもつのではないか。

拠り所としてのオルタナティブな居場所を認めるということは、こういった基本的な感性、感覚レベルの違いを容認するということなのだ。他者との共存などというきれいな表現に収まるものなのだろうか。宗教のヤバさ、恐ろしさがきれいな表現によってスルーされているように感じてしまう。
社会が本当に懐深く、宗教の異質性に寛容なのであれば、「宗教を聖域にすべきではない」という議論もややちぐはぐに感じてしまう。だからと言って宗教を治外法権にするのもまずいのだろうが。
こちら側は「体罰はダメ」あちら側は「体罰OK」とはなかなかいかない。それは社会の単一性と有無を言わさず従わせるという2点において国家主権と似ている。国民の自由は基本認めるが、国家を転覆する自由は力によって抑えつけられる。

最後に、子供の信仰の自由や洗脳と教育の違いの問題についてだ。
洗脳と教育の違いを「目的」に置く考え方もある。子供の利益のためならそれは教育だというわけだ。しかし、宗教の信者も「子供のためを思って」宗教的価値観を教えていると思っているはずだ。
そして子供の信仰の自由については、「宗教は二十歳以降」という議論が番組内であった。テクニック論としてはいいが、それよりも本質的なことは人間は育つ過程で何らかの価値観を吹き込まれ、それによって人間になっているという事実だ。相対主義では人間は育たない。
学歴が大事だという価値観から中学から受験させる親もいる。それどころか小学校を受験させて、かなり特殊な環境のまま子供を大学までエスカレーターで上げる親もいる。そのような人たちは大学に進学しても大学入学組とはあまり交わらないとも聞く。育ちや価値観、金銭感覚などが違いすぎるのだそうだ。そして卒業後も彼らの結束は強いとのことだ。
良し悪しはさておき、これらはかなり一般社会とは異質なわけだが、これも社会への挑戦ではないがゆえに認められる。

オルタナティブとしての宗教への寛容、これは字義通りには自らへの挑戦をも飲み込むことだ。
だが、実際には寛容を装いながら、「主権の至高性」のもとに飼い慣らしうるものだけが容認されるというのが真実のようだ。



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