幼い頃の数字遊びから行き着いた対数の概念。算数的と数学的

2、4、8、16、32、64、128、256、512、1024、2048、4096…
小学校2年か3年の頃、意味もなく次々と2を掛けて数字を書き並べていた。
そのときふと「2を何回かけると桁が上がるんだろう?」と考えた。
最初は4個目の16で2桁に上がっている。次は7個目の128で3桁に、その次は10個目の1024で4桁にそれぞれ上がっている。
桁が上がるということは10倍されるということだろう。だとすると2を3回かけると8倍に、4回かけると16倍になるから3回と4回の間だ。このとき一応小数は知っていた。また%も知っていた。

16倍は10倍に対して60%も誤差がある。8倍も10倍とは20%誤差があり、「およそ3回」とか「およそ4回」とは言えそうにない。全然「おしくない」のだ。
3回もしくは4回で桁が上がることは実際の数字を見ればわかる。さてどうするか…

目についたのは10回目で1024が出てくるということだった。1024は1000=10×10×10で10を3回かけたものと誤差が2.4%しかないということに気づいた。
つまり2を10回かけたものと10を3回かけたものが「だいたい同じ」ということだ。

もっと誤差率が小さいところはないかと数字を書き出してみるが100万を過ぎてもなさそうだ。
それはそうだ。1024が10×10×10に近くて、しかもその手前に、つまり10や100の近くに誤差率が小さいところはなかったわけだから(ちなみに64と128の誤差率はそれぞれ36%、28%)、1024が1000とほぼ同じと考えるとすると1000×10=10000や1000×100=100000の近くでも誤差率が小さいところはないだろう。そして1000000の近くは1024の2乗になるはずで、1024×1000が誤差率2.4%になるわけだから1024×1024は誤差率2.4%より大きくなるはずなのだ。

以上から10÷3=3.33…回よりちょっと少ない回数で桁は上がる、というのが結論だ。
ただここで改めて悩んだのは2から書き始めたので、2を2の1乗と考えるのか、最初の2に2をかけた4が2の1乗なのかという点だ。ここがはっきりしないと一つカウントがずれてしまう。
当時、2の0乗が1なんていう知識はなかったのだ。
ここは1024を起点にして1024に2を10回かけて1000000の桁に到達したわけだから、やはり2を10回かけて3回桁が上がると考えて正しそうだ。

その後何年もして、割合を考える際に「もとの数は1倍である」と知って、1に2を何回かけるかを考えればよいので「2は1×2なので2の1乗である」と納得した。

その後さらに数年して高2でようやく対数logを知ることになる。そして10を底とする常用対数log2=0.3010というのを見たときは感動した。底の変換公式を使えば底と真数を入れ換えると逆数になるわけだが、2つをかけるとたしかにほぼ1となったからだ。

このとき他に気づいていた発見的事実は、桁が上がるときは最高位の数は必ず1となるということ。これは当たり前だろう。1000より小さいものを2倍しても2000にはならない。よって必ず1だ。
あとは当時は有理数、無理数という概念はなかったが、整数の比、分数でも表せないということだ。
大学入試によくでてくる「log10は無理数であることを証明しろ」というやつだ。

私の当時の証明はこうだ。2をかけ続けて1の位に注目すると2、4、8、6、2、4、8、6というように2、4、8、6の4周期を繰り返す。1個目が2で5個目も2というように、同じ数字が一度でも出てくれば、その後は2をかけるという同じ操作をするわけだから、繰り返しが出現するというわけだ。
そして10を何回かけても1の位には0しか出てこないから2を整数回かけたものと10を整数回かけたものがぴったり同じ数になることはない。1の位が同じにならないのだから同じ数なはずはないのだ。
よって有理数にはならない。

思うに有理数とは周期性(=振り出しに戻る)の概念と関係があるのだろう。


うるう年は一年と一日の比がぴったり365にならず、ちょっとずつずれていくために補正をかけるものだが、それもぴったり4年に一回ではなく、100年に一回はうるう年はお休みとなる。
西暦1800年や1900年はうるう年ではなかったらしい。しかし2000年は100の倍数なのにうるう年だった。これは400の倍数のときは100の倍数のときのさらに例外としてうるう年になるという規則があるからなのだ。
自転と公転がぴったり有理数になれば補正は有限回であろうがおそらく無限に続ける必要があるのだろう。「振り出しに戻る」ということはないようだ。


さて算数的思考と数学的思考の違いをここで無理やり導くとすれば、算数的思考は試行錯誤であり、発見的ということであろうか。
それに対して数学的思考は、一般化するということではないだろうか。
2と10という具体性に引きずられ、底と真数が互いに素であればその対数は無理数となるという洞察には当時至らなかった。
具体的な数値で成り立つことが一般のnでも成り立つのか拡張して考えるのが数学的思考ではないだろうか。
また当時はn進法を知らなかったので仕方ないが、同様の手法で底が3で真数が4である対数などを考えることができたはずだが、10進法の世界しか知らないから思い付かなかった。これも一般化が足りないからだ。

また10を底とする常用対数の数値を予め調べておくことで、例えば7の70乗の10進法における桁数であるとか最高位の数なども知ることができる。概念や定義をきちんとしておくことで道具としての応用、拡張ができているのだ。同様に3進法での桁数や最高位もやる気になれば知ることができるであろう。
このような拡張や一般化が数学的思考の性質の一つであると思う。

それに対して算数では1の位に着目するというのは発見的だし、闇雲に書き出して試行錯誤している。
他にも例えばつるかめ算などでは、つるとかめを一匹チェンジすると足の数はどうなるかということを試行錯誤の途中でしているのではないだろうか。

旅人算では「向かい合って進む人の分速を足して割る」なんていう「解法」を知る前には「一分たったら二人の分速の和の距離だけ近づいている」などと考えることだろう。

概念や定義が明確で、それゆえ道具としての使い方も明瞭である数学に比べると、算数は試行錯誤や発見を要する。そのため算数の難問こそ算数を「楽しむ意欲」が求められるのではないだろうか。


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