立候補者に筆記試験導入を提案する小泉今日子さんの間違い

今回の都知事選で、NHK党(NHKから国民を守る党)から多数の候補者が立候補し、選挙掲示板が「ジャック」されていることに批判の声が大きい。

NHK党からは20人以上が立候補し、都内に1400か所以上あるとされる各掲示板に20枚以上のポスターを貼ることが可能だ。
実際貼られたポスターの中には、女性の裸に近い姿で猥褻物と見られかねないものや、QRコードからの風俗店への誘導、その他ふざけているととらえられるものもあり、しかもそれが他の「真面目な」候補者以上に目立ってしまい物議を醸している。

またそのポスターの枠が、NHK党への寄付という形で実質販売されているのではないかということについても批判がある。

NHK党立花党首は虚偽の内容や他候補を応援するもの、猥褻なものや直接的に商売につなげるようなものはダメで、立花党首の判断で剥がす可能性があることなどを寄付を受ける前からYouTubeで説明している。その他の関係法令についても調べて遵守する意向であり、逆に言えば実質販売しているとされる今回のやり方などに関しても違法性がないことを立花党首自ら確認している。
またそれでも警察からの警告が出された場合にはそれに従って猥褻物とされるポスターなどを剥がしている。

たしかに常識的とは言えない手法だ。それに対して「良識、常識に欠ける」「選挙におけるポスター掲示板の存在意義に反する」「このような当選を目的としないやり方を公選法は予定していない」「掲示板にも公金が投入されている」といった批判が出ている。

だが、やはりどれもぼんやりしていて要は「これまでの常識的な秩序に反している」ということに尽きるように思う。

そんな中、タレントの小泉今日子さんが「立候補には資格が必要。筆記試験を課すべき」という趣旨の発言をした。
民主主義の根幹をなす選挙を冒涜するような不見識な人間が立候補できないようにすべきだということだろう。
これに賛同する人たちもかなりいる。既存の政治家の見識について疑っている人が多いのかもしれないし、知名度だけで当選してしまうタレント議員に対する反感や不信感もあるのかもしれない。

立花党首は「おっしゃる通り。加えて投票する人にも筆記試験を課すといい。法律を作る国会議員を決めるのに法律がわからない人間に投票権があるから無能政治家を選んでしまっている」と応じている。

この件に関して不見識なのは明らかに小泉さんの方だ。

まず良識なるものはテレビの地上波やお役所の守備範囲だ。そしてそれは既存の権力や秩序と強く結び付いていて、良識とは互いに再生産しあう仲にある。
良識は現行の秩序を認めるということだし、既存の権力は自分達を安心安全なものと示すことで、支配領域(例えば日本国内)において違和感なく受け入れられるようにする。この違和感なき状態こそ良識だ。それに反する今回のNHK党のよう振る舞いは、異質なものとして排除するような圧力が秩序の内側にいる一般の人間からかけられることになる。
互いに再生産するとはこのようなことだ。


筆記試験で見るような見識ということで言うと、それは弁護士などの専門職や官僚などで求められるべきであり、政治家を選ぶのとは違う。
どう違うのかと言えば士業や官僚はすでに決まっている法との整合性や、これまでやってきた行政との継続性が大事だ。
またそれこそ政治家の号令や大まかな方針に従って細かいところを矛盾なく理屈を詰めていく作業をやるのも官僚の仕事だ。

誤解を恐れず敢えて大胆に言えば、士業や官僚は予め決められたことを決められた枠内でやるということだ。それをきちんと正確にこなせるかどうか、枠自体を理解しているのかは筆記試験のようなものでその能力を測って選抜するのがふさわしい。

それに対して政治家はそもそもどのような方針で国家を運営していくのかを決めるのが仕事であり、その内容は予め定まってはいない。どのような方向性にも振れることができ、しかもそれを決める営みこそが選挙、国民による投票なのだ。
誰からどんなアイディアが国家の運営方針として出てくるかはわからない。
貧しい人や偏差値の低い人であっても独自の問題意識を持って政治的な価値を広く訴えかけ、実現していく余地があるようにするということ、このことこそが政治参加の自由、表現の自由、思想信条の自由の目的そのものなのだ。
求められる政治的価値が何なのかは予め定まってはおらず、その時々の状況に応じて夢や熱狂、はたまた怒りを伴ってそれぞれの候補者が主張し、国民がその中から任意に選びとる。国民の主権はフリーハンドなのだ。
非常識でバカげたことをやっているから悪い候補者だと国民が思うならば選挙で落とすことができるし、逆に一見非常識であっても他のいい部分を評価して国民が選ぶことだってできる。

そしてここが大変重要なのだが筆記試験で立候補者を予め絞ってしまえば非常識だがいい候補者が国民の品評会に晒されることなく切り捨てられてしまうことになり、むしろ国民の主権が制限されているとも言える。繰り返すが、悪い候補者ならば落とせばいいだけなのだ。予め立候補を許さないとする必要はない。

人々の暮らしを良くしていくこと、国の存続を守ることなどは政治家のやるべき基本的で重要な仕事だが、暮らしを良くしていくということ一つをとっても、何を改革していくのか、他と比較して何を重視して予算を配分したり、人事権を行使するのかやり方はいろいろだ。
問題解決の方向性を政治家が決めて、部下である官僚がその実務を正確にこなす。
難しい試験をパスしたエリート官僚が出世して事務次官になっても大臣の部下だし(厳密には大臣は選挙で選ばれているとは限らないが首相に指名されている)、国会の対応で議員にこき使われるのもよく知られている。
だがこれは悲観すべきことではなく、むしろ国民は選挙でトップを選ぶことができるということを意味するのだ。国民が主権者であるとはまさにこのことであろう。そしてその上には誰もいない、そのような至上の権力なのだ。

この構造を踏まえると官僚の上司たる議員の資格試験を誰がどのような観点から作るというのだろう。
法律や経済のような統治に直接必要な知識について試験をやるのか、それとも歴史や宗教などの人間社会の基礎基本となる人文的素養こそ重要とするのか、それを官僚だの大学教授あたりが決めるのか。それだと官僚独裁、大学教授独裁となる可能性があることを理解しているのだろうか。

ポピュリストや二世議員、「懐かしい」芸能人が国会に「再就職」することを問題視する人は多い。
では官僚や大学教授の方が賢そうで信頼できるだろうか。私は全くそうは思わない。賢い人もたくさんいるが、国家泰平を論じるには遥か遠いレベルにいながら権力への思い入れだけ強い自惚れたインテリもまた腐るほどいる。何も官僚や大学教授に変なのがいるという話をしたいのではなく、何らかの共通性、共同性のもとで人間が徒党を組むとき、どんな組織にも無能がいて、既得権にしがみつくものだということだ。立候補制限権なんてものを特定の集団に与えてはならないのだ。
立候補の権利を特定の意向のもとで制限するよりも国民主権をフリーハンドにしたままの方が、権力の交代性は担保される。民主主義とは権力の交代性だ。

投票する側にも一人一票の平等を要請するのも似たような理屈で理解することができる。
納税額や学歴などで投票する人に重みをつけないのは、そもそも既存の社会構造のせいで富や知力の格差が生まれ、そして再生産されている可能性があるということ、さらには構造どころかより直接的に既存の政治が特定の集団を経済的に有利にさせているという現実があるからだ。
金儲けばかりの美容外科よりも命を救う診療科が素晴らしいという意見もあるが、一方で自由診療である美容外科は保険診療で食ってる科よりも経営的に自立していて、その分客に横柄な態度を取ることはできない。
保険診療の意義はたしかにあるのだが、その優位性が固定されるとその大義を盾に人はふんずり返る。どんな人間集団もそんなものだ。
そんなこんなで肥太っただけの人間が貧しい人の何倍もの投票権を行使できるなんてことになれば、腐った構図は覆らないだろう。


立候補者の表現内容もできるだけフリーであるべきだ。
「○○人を叩き出せ」という表現は差別だ、「一人一人違うのだから民族や出身地などで一括りにすべきではない」と言われるが、先ほど述べたように民族や出自などでも共通性、共同性をもとに徒党を組む可能性がある以上はそこに触れるのをタブーとするのは実は危険だ。政治的に批判されないポジションの存在を許すことになり、そこを隠れ蓑にする余地も生まれるからだ。
具体的現実的な身体生命や財産への危害は許されないが、政治的主張としての言論の自由はそれによって傷つけられるかもしれない名誉感情と、どちらを優先させるべきか冷静に考えるべきであり、「差別はダメ」を盾に安易な現行秩序の追認にならないように注意が必要なのだ。
ちなみに「叩き出せ」はやめて「○○人の犯罪組織が勢力を拡大させて暴れている」とか「本来違法な外国人生活保護を受け取っているのは○○人が多い」などと事実を表現するぶんには差別にあたらないだろう。
差別っぽい表現を例に出したが、要は一般人が眉をひそめる表現の中には現行秩序の陰に隠れている真実があり、政治活動の場においてはそれらが自由に表現されることに意義がある場合があるということを言いたかったのだ。普段の牧歌的で予定調和の言論と、政治活動としての言論は区別する必要がある。


私は小学生のときに授業で憲法を読まされていろいろと疑問に思った。
参政権や報道の自由が大事だというのは比較的わかりやすかったのだが、表現の自由と聞いてなぜそれがお堅い憲法にわざわざ書き込まれているのかわからなかった。
当時「表現」と言えばそれこそ小泉さんの平成の名曲の一つであるドラマ主題歌とか、山奥の美しい湖を見て絵を描くとかを思い浮かべていた。
「そんなことを自由だとなぜわざわざ憲法で高らかに宣言しているのだろう」と思っていたのだ。
信教の自由もよくわからない。「何教を信じるのも勝手だとか、そりゃ誰にも迷惑かけないんだし当たり前じゃん」としか思えなかった。
もっとわからないのは学問の自由だ。当時「学問」と言ったらロケットを飛ばす技術とか細胞を顕微鏡とかで研究して医学とかに役立てる、ぐらいの認識だった。「なんでそんなものを憲法で擁護してるんだろ。そりゃ勝手にやってくださいでいいに決まってるじゃん」そう思っていた。

しかし、これらこそまさに国民主権のフリーハンド性を守っているのだと何年かしてから気づいた。
表現とは文学であれ音楽であれ感情を喚起して、そこに人々に向けてのメッセージを載せる。そのメッセージには広い意味での政治的内容が込められたり、現行の秩序への挑戦や追認が含まれがちなのだ。
宗教も信者どうしは、生活の基本的価値観や習慣を共有する。つまり共通性や共同性のもとに徒党を組む可能性がある。特定の宗教を国家が優遇すれば、他の宗教は少なくとも相対的に肩身は狭くなる。これも政治へと繋がるのだ。
学問も例えば歴史研究が完全に自由であれば、皇室の正統性や現行憲法の手続き上の正当性に疑義が付く可能性もある。また「軍事的に利用可能な技術の研究をやめよう」という一見平和主義的で聞こえのいいフレーズが、実は他国を軍事的に利する政治的影響力を持つこともあるのだ。

すべての国民の政治的アクセスを国家が邪魔しないようにすることを目的としたものが○○の自由シリーズなのだ。
歴史という失敗学に照らしてありがちな失敗を反転させて、○○も△△も自由ですよと宣言したものが憲法の一部として書き込まれていたということになる。これが私の理解だ。

小泉さんはこういった中高生の公民レベルの理解はあるのか、もしくはここまでの内容を体系的に論駁するロジックを持っているのか。
もしそういったものを持ち合わせていないならば、試験をやったらいい。ご自身が投票権を返上する結果になるであろう。


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