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息子に学ぶ『手段の目的化』の危険性【女医が思う子育て#16】

こんにちは。くんぱす先生です。
医師として働きながら、2児の子育て真っ只中です。

↑これらの記事にも書いたように、毎朝子どもを最寄りの駅まで車で送っています。
基本的には子どもの読書の時間に充てているのですが、この時間に結構ドラマが生まれるんです。
【車内の事件簿】みたいにシリーズ化してもいいんじゃないかというくらい。

そして先日、またこの送りの時間に事件がありました。

いつもギリギリ

「学校での朝遊びの時間を楽しみたい」という息子の願いで早い時間帯の電車に乗ってクラスメートとともに通っています。
朝早いので、出発の時間がいつもギリギリです。
数分遅れることで電車に乗り遅れる状況で、信号のタイミングに恵まれたり恵まれなかったりしながら目的の電車に乗る日々を送っています。

前の車が青信号なのに止まる

そんな状況で、信号機のタイミングが運命を握っているのですが、、、
先日、前の車が青信号なのに停止線で止まってしまったのです。

こういう信号機ありません?

これを”赤”だと勘違いされたんだと思うんですが、止まってしまったのです。
私はすかさず、めったに鳴らさないクラクションを軽く
 (プップクプー!=行けまっせ!)
と鳴らしました。
何回か鳴らして気付いたようで発進されましたが、時すでに遅し。
信号機は黄色に変わっていました。
私はそのまま前の車を見送り、停止線まで進み止まりました。

「あーあ。前の車のせいで、電車間に合わないかもしれない、、」
とぼやく私。

息子「えー?そうだね。ギリギリの時間だね。」

「でもさ、大切なのは『安全に学校まで辿り着くことでしょ』」

この言葉に、ハッとされられました。

手段の目的化

そう、私はいつしか目的を見失い、手段に注力するようになってしまっていたのです。
この場合、私の目的は息子が言うように『安全に学校へ行ってもらうこと』です。
それが、毎日毎朝送り届けているうちに『この時間の電車に間に合わせること』が目的にすり替わってしまっていました。

思えば、これは電車の乗り遅れそうなときや遅刻しそうなときに私が息子に伝えていたことです。
「遅刻したっていいんだよ。先生もママも、危険な思いをして時間通りにあなたが学校へ行くことより、遅刻してでも安全に着いて欲しいって思っているから。だから、急がずに安全に行きなさいね。」

この時の気持ちを一瞬でも忘れてしまい、手段が目的にすり替わってしまっていたことに気づかされました。

どんな分野にも存在する危険性

この『手段の目的化』は様々な場面で遭遇します。
私たちが暮らす日常にも溢れています。
例えば、このように。

認知症

認知症のご本人を中心に周りを囲むサポート体制(ご家族、医療機関、行政、地域包括支援センターなど)は『本人が平穏に自分らしく暮らせること』を目的にサポート介入します。
それがいつしか、本人の気持ちは置き去りになり、「入院が安心」「施設に入所が一番」というように目的がすり替わっていないだろうか?と思う事態になっていることがあります。

万人にとっての幸せの基準がないように、患者本人の幸せは十人十色のはずです。
医療機関につなげること、プロの介護にお世話になることが本当にその人の幸せかどうかはケース毎に慎重に判断すべきだと思うのです。

こんなケースがありました。
独居で、自宅にひきこもりながら身の回りの家事はできている、ご飯も配食されれば食べている、けれどお風呂にあまり入っていない様子。
そこで、施設への入所を勧めているが本人が拒否しているといった患者さんの入院相談が入ることがあります。
本人はもちろん入院に同意しておらず、入院する場合は医療保護入院という強制入院の形をとることになります。
私はこのケースに関して、本人や周囲の人、近隣などが困っていないのであれば、強制入院という形を現時点でとる必要はないのではないか、誰のための入院なのだろうか?と悩みました。
ましてや、周辺症状で本人や周囲の人が困っているわけでもない。

本人の気持ちはどこにあるのだろうか。

入院して身体的にも管理されていれば、安心かもしれません。
けれど、それがご本人の人生観と合っていれば、です。
適切な医療を受けることがすべてにおいて正義だとは思いません。

『ご本人が平穏に自分らしく暮らせること』を目的としていたのに、気付けば”一般的に”安心な生き方を強制しているように思えます。
介入しサポートするうちに、手段が行き過ぎて目的を見失っているのではないかと感じます。

学校に行くこと

なぜ子どもたちは学校に通っているのでしょうか?
その目的はいろいろとあるでしょうが、その一つに『社会と繋がり、社会をよりよく生きていくため』が挙げられるでしょう。
つまり、学校に行くことは社会をよりよく生きる一つの手段であり、目的ではないと考えられます。
それがいつしか、学校に行くことが目的となっていることがあります。
学校に行くこと以外にも社会をよりよく生きるための別の手段は多くあるはずです。

こういった考えが以前か私に内在していましたが、この本を読んでこの思いが言語化されている!と感じました。

それ以来、工藤先生の著書を何冊か読みました。
教育界に永く身を置きながらも、自身の意思や目指す方向性を見失うことのない姿勢にとても刺激を受けました。

身近にある『手段の目的化』

みなさんの仕事においても、よくよく考えてみると『手段が目的化』してしまっていることが多くあると思います。
立ち止まって「そもそもなんでだっけ?」と目的を再度振り返ってみると気づかされることがあるかもしれません。

お読みいただきありがとうございました。

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