「大学は何処へ 未来への設計」で過去を学び未来を考える
この20年ほど改革を迫られ続けて今や疲弊の極みに達している,そして実際に論文数はガタ落ちになっている(それでも「改革が足りないからだ!」とか言えてしまう人達に囲まれている),日本の大学の将来を考える上で,まずは過去を知る必要がある.その観点から,とても勉強になった.というか,これまで知らなさすぎた.
著者である吉見俊哉氏は,現状を以下のように指摘している.
では,1930年代以前はどうだったのか.
明治時代以降,旧制高等学校が,高等教育機関として,帝国大学を中心とする旧制大学への進学のための予備教育(男子のみ対象)を担ってきた.
1918年の臨時教育会議に提出された新渡戸稲造や吉野作造らによる大学制度改正私見では,「専門的知識の大要と実務的教育とを授くるの学府」である大学と「学術の蘊奥を攻究する」ための研究組織としての学術研究所を分けて,それぞれの体制を再構築すべきとされた.現在の大学と大学院に相当するだろうか.
戦時中,日本が敗戦に突き進む中で,日本軍は理工系高等教育を拡充すべきであるという強い意向を示し,実際にそのような政策が打たれた.その一環で,東京帝国大学に第二工学部が設置された.この理工系高等教育拡充政策は戦後に影響を残すことになる.なお,東京帝国大学に元々あった第一工学部は概ね今の工学部に相当するが,戦後,戦時中に解体されかけた経済学部などがポスト増を狙って第二工学部の解体を主張し,実際そうなった.ただ,過半数の講座は工学部と新設の生産技術研究所に移った.
戦後,旧制高等学校は,旧制大学に吸収される形で,新制大学の教養部となった.このために,格上の専門諸学部と格下の教養部という差別意識が生まれ引き継がれることになった.
吉見俊哉氏は以下のように指摘している.
私が大学を卒業した1992年以前は,大学設置基準において,学部の種類は,文学・法学・経済学・商学・理学・医学・歯学・工学及び農学の各学部と,その他学部として適当な規模内容があると認められるものとすると規定されていた.ところが,1991年の大学設置基準の大綱化で大幅な規制緩和が行われ,中身のよくわからないカタカナ学部などが数多く設置され,さらに,ほぼすべての国立大学で,一般教育科目・外国語科目・保健体育科目の教育を担当する教員が所属する「教養部」が廃止された.
日本の大学で教養教育がボロボロになっていったのも,大綱化より遙か以前に,新制大学が作られたときには予見できていたという.学生のときには差別云々がどういうことかよくわからなかったが.
ちなみに,東京工業大学はその実力が世間に知られていないことがネタにされる大学だが,東京職工学校の時代から優秀なエンジニアを輩出してきた.しかし,専門学校であるため,東京帝国大学工学部とは格が違うとされ,卒業生の処遇に格差があり,戦時中には東京帝大第二工学部に学生を奪われもした.そこで,職業訓練校から世界トップ校に躍進したMITを手本として,専門学校から脱皮してリベラルアーツカレッジを目指した.東工大のリベラルアーツが強いのにはこうした歴史的背景がある.
大学とは何かについて,強い意志が感じられる.
一方,新制大学の工学部が非実践的だという産業界からの批判を受けて,そこに旧制の工業専門学校を復活させたい思惑も絡んで,工業高等専門学校が新たに設置された.当初は新制高校3年と短大2年を合体させて5年制の専門学校を作るつもりだったらしいが,新制大学に移行したいのに要件を満たしていないために短期大学に据え置かれたところは,高校と一緒になるのは論外だと考え,そもそも工学教育にも関心がないため,猛反対した.それで結局,5年制の工業高等専門学校が設置された.そのような経緯はともかく,これまでの個人的な経験の範囲において,大学や大学院に入ってくる高専の学生は非常に優秀だ.
さて,問題の1990年代以降について,吉見俊哉氏は以下のように述べている.
自分の体験からも首肯するところで,本当に,教育と研究に割ける「自由な時間」が少なくなった.
今,大学教員をしている一人として,何をしていくか.各々が考えて行動するほかない.日本の大学はこのまま凋落するかもしれないのだから.
© 2022 Manabu KANO.
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