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「大学は何処へ 未来への設計」で過去を学び未来を考える

この20年ほど改革を迫られ続けて今や疲弊の極みに達している,そして実際に論文数はガタ落ちになっている(それでも「改革が足りないからだ!」とか言えてしまう人達に囲まれている),日本の大学の将来を考える上で,まずは過去を知る必要がある.その観点から,とても勉強になった.というか,これまで知らなさすぎた.

大学は何処へ 未来への設計
吉見俊哉,岩波書店,2021

著者である吉見俊哉氏は,現状を以下のように指摘している.

大学を疲弊させ,その疲弊の底からすぐに「役に立つ」であろう理工医の応用系を振興していこうする昨今の日本社会の動きは,泥沼の戦争に向けて総力戦体制を強化していった一九三〇年代以降の大学をめぐる状況によく似ている.戦時期に強力に進められた理系高等教育機関の大拡張と文系機関の周縁化は,戦後の経済成長期や安定期には一定程度の是正に向かうのだが,日本経済が危機に直面する二〇〇〇年代以降,国立大学法人化や理工系重視(=「文系学部廃止」)のムードのなかで再び反転し,まるで三〇年代が蘇ってきたかのような状況が現代日本に出現することになる.

では,1930年代以前はどうだったのか.

明治時代以降,旧制高等学校が,高等教育機関として,帝国大学を中心とする旧制大学への進学のための予備教育(男子のみ対象)を担ってきた.

1918年の臨時教育会議に提出された新渡戸稲造や吉野作造らによる大学制度改正私見では,「専門的知識の大要と実務的教育とを授くるの学府」である大学と「学術の蘊奥を攻究する」ための研究組織としての学術研究所を分けて,それぞれの体制を再構築すべきとされた.現在の大学と大学院に相当するだろうか.

戦時中,日本が敗戦に突き進む中で,日本軍は理工系高等教育を拡充すべきであるという強い意向を示し,実際にそのような政策が打たれた.その一環で,東京帝国大学に第二工学部が設置された.この理工系高等教育拡充政策は戦後に影響を残すことになる.なお,東京帝国大学に元々あった第一工学部は概ね今の工学部に相当するが,戦後,戦時中に解体されかけた経済学部などがポスト増を狙って第二工学部の解体を主張し,実際そうなった.ただ,過半数の講座は工学部と新設の生産技術研究所に移った.

戦後,旧制高等学校は,旧制大学に吸収される形で,新制大学の教養部となった.このために,格上の専門諸学部と格下の教養部という差別意識が生まれ引き継がれることになった.

吉見俊哉氏は以下のように指摘している.

旧制大学は,旧制高校を自校の一般教育を担わせるために吸収しながらも,それを学内措置による分校(教養部)とし,東大のような新しい高度なリベラルアーツを目指す「塔」の設置すら認めなかったのだ.その結果,「旧制下における旧制大学と旧制高校の教員の身分差を,そのまま新制大学に持ち込むことになった」(吉田文,「大学と教養教育」).つまり,リベラルアーツとしての一般教育の独自性が理解されず,それらに専門教育のための基礎教育の位置しか与えられなかったために,後期課程に対する一般教育の,つまりは専門諸学部に対する教養部の従属的な位置が覆されることはなく,組織間の差別が長く残存し続けたのである.だからこそ,一九九〇年代に文部省主導でなされた大綱化が,こうした長年の植民地的構造を断ち切ろうとするものであったことは改めて確認しておきたい.

私が大学を卒業した1992年以前は,大学設置基準において,学部の種類は,文学・法学・経済学・商学・理学・医学・歯学・工学及び農学の各学部と,その他学部として適当な規模内容があると認められるものとすると規定されていた.ところが,1991年の大学設置基準の大綱化で大幅な規制緩和が行われ,中身のよくわからないカタカナ学部などが数多く設置され,さらに,ほぼすべての国立大学で,一般教育科目・外国語科目・保健体育科目の教育を担当する教員が所属する「教養部」が廃止された.

日本の大学で教養教育がボロボロになっていったのも,大綱化より遙か以前に,新制大学が作られたときには予見できていたという.学生のときには差別云々がどういうことかよくわからなかったが.

ちなみに,東京工業大学はその実力が世間に知られていないことがネタにされる大学だが,東京職工学校の時代から優秀なエンジニアを輩出してきた.しかし,専門学校であるため,東京帝国大学工学部とは格が違うとされ,卒業生の処遇に格差があり,戦時中には東京帝大第二工学部に学生を奪われもした.そこで,職業訓練校から世界トップ校に躍進したMITを手本として,専門学校から脱皮してリベラルアーツカレッジを目指した.東工大のリベラルアーツが強いのにはこうした歴史的背景がある.

和田小六,終戦時の東京工業大学学長:
「大学の学科を廃止し,科目を教授指導の下に自由選択せしめ,個性を生かした各種の人材を養成しなければならぬ.現在のごとく,学科,学級等に制約され,一様同一型の人材を作ることは職業訓練に堕するのであって大学教育本来の性格として執るべき策でない」

大学とは何かについて,強い意志が感じられる.

一方,新制大学の工学部が非実践的だという産業界からの批判を受けて,そこに旧制の工業専門学校を復活させたい思惑も絡んで,工業高等専門学校が新たに設置された.当初は新制高校3年と短大2年を合体させて5年制の専門学校を作るつもりだったらしいが,新制大学に移行したいのに要件を満たしていないために短期大学に据え置かれたところは,高校と一緒になるのは論外だと考え,そもそも工学教育にも関心がないため,猛反対した.それで結局,5年制の工業高等専門学校が設置された.そのような経緯はともかく,これまでの個人的な経験の範囲において,大学や大学院に入ってくる高専の学生は非常に優秀だ.

さて,問題の1990年代以降について,吉見俊哉氏は以下のように述べている.

人口構造の変化を無視するかのような大学数や学生数の増加,学部名称の爆発的多様化という一九九〇年代以降の動きを貫いていたのは,新自由主義的な規制緩和路線である.この路線は,様々な仕方で平成の大学史を貫いてきたのであり,いわゆる三大改革,すなわち大学設置基準の大綱化と教養教育の空洞化,大学院重点化と大学院の質の低下,国立大学法人化と大学間,分野間の格差拡大がその代表である.これらの上からの「改革」は,いずれも高等教育政策が旧来の許認可主義から補助金行政に軸足を移していく中で生じたことで,その結果,大学の未来全体は,新自由主義的市場システムの手に委ねられていくこととなった.

ビジョンをめぐる徹底した議論や共有なしに,徒に「企業経営」というモデルが大学の新たな目的であるかのように導入されることは,本末転倒以外の何物でもない.そうして大学が効率化や生産性,卓越性だけを追求した先で残るのは,精神の荒廃でしかないだろう.そしてこの大学における精神の荒廃は,何よりも大学教師たちの意識の企業化として現れることになる.大学教授であることが,まるでベンチャー企業家であるかのような意識が浸透していき,器用な教授のところには大きな研究費が集まるようになり,短期雇用の若手研究者が雇用されていく.

等しく大学で研究や学びに取り組むものにとって最大の稀少な資源は自由な時間である.一九九〇年代以降,これほどまでに大学改革の努力が重ねられてきたにもかかわらず,それらが表明した目的とはむしろ逆の結果を生んできたのは,一連の改革が大学という場の時間全体のマネジメント,そのなかでの自由な時間の持続的な確保,それどころか自由の拡張というビジョンを十分に考え抜いてこなかったからである.(中略)大学が時間的自由を創造性の本源とする組織だから,効用性が優先される社会のなかでも,それとは異なる創造性の時間が保護されなければならないのだ.この点が,一連の大学改革で十分には自覚されてこなかったのである.(中略)大綱化や国立大学法人化をはじめとする規制緩和,また大学院重点化をはじめとする組織的拡張は,結果として大いに大学人の時間を劣化させ,大学を危機に陥れてきたのである.産業界や政府が大学に「改革」を促せば促すほど,大学人の時間は劣化し,ついには日本の大学の研究力や教育力が低下してきた.

自分の体験からも首肯するところで,本当に,教育と研究に割ける「自由な時間」が少なくなった.

今,大学教員をしている一人として,何をしていくか.各々が考えて行動するほかない.日本の大学はこのまま凋落するかもしれないのだから.

© 2022 Manabu KANO.

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