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エントリーシートや履歴書を書く意味を若松英輔氏と田中泰延氏から学ぶ

客観的な事実としての学歴や職歴,研究テーマや資格はすぐに書けても,これまでに何を為してきたか,これから何を為したいか,といったことを書こうとすると,とても難しかったりする.自分に貼り付けられたラベルではなく,自分の内にあるものを表現するのは難しい.

書けない履歴書

書けない履歴書」という若松英輔氏によるエッセイが,2015年5月14日の日本経済新聞に掲載されている.このエッセイは「悲しみの秘義」にも収録されており,そちらを読んで大いに頷いた.履歴書の書き方ではなく,履歴書を書くことについて書かれている.

短い文章だが,その一部を紹介したい.

どんな人間かを示さなくてはならないとき、履歴書の提出をもとめられることがある。紙面には、あらかじめ定められた項目があって、それを埋めることで自分を語ることを強いられる。入試あるいは入社試験などでは、面接官がそれに文字通り目を通して、いくつも質問をしてくる。そうした応答がしばらくあって、「分かりました、本日はありがとうございました」と紋切り型の言葉が発せられる。

こうしたとき、私たちの中では静かに、しかし、確かに燃えるような思いが浮かび上がるのではないか。違う、あなたは分かってなどいない。そこに記されていることも私についてのことだが、何も私を語っていない。そこに私の本当の姿はない、と内なる声がする。

書けない履歴書

エントリーシートを書きながら,あるいは面接を受けて,このように感じている人は多いだろう.そしてその感覚は正しいに違いない.

では,効率よく人物評価をしてしまいたい採用側にとってではなく,エントリーシートや履歴書を書く人にとって,書くことにはどのような意味はあるのだろうか.

振り返ってみれば、履歴書を書き進めているうちに私たちは、どの項目にも書き得ないことこそが人生を決定してきたことに気が付いていたはずだ。しかし世の中ではそんな理屈は通用しない、そう思い込み、同じことを何度も繰り返しているうちに、いつの間にか履歴書という枠のなかで自身を理解し始めてしまう。自分を見失うことがあっても不思議ではない。

書けない履歴書

履歴書を書くとは、そこに書き得ないことを想い起こす営みだといってよい。そのことに気が付くことの方が、自分が何者であるかをうまく表現するよりも、人生においては大切なことなのではないだろうか。

書けない履歴書

日常生活の中で自分と向き合うことは希である.少なくとも私はそうだ.朝起きてから夜寝るまで,あるときは仕事に追われ,あるときは趣味を楽しみ,メールを読んで返信することに没頭したり,SNSの誰かの書き込みに頷いたりイラッとしたりしつつ,でも,自分自身には関心をよせていない.

「私の本当の姿」を伝えたいとして,誰かに知って欲しいとして,本当の姿とは一体何なのか.私は私の本当の姿を知っているのか.

エントリーシートや履歴書を書くことを通して,自分を振り返ることができるのであれば,自分の内面を覗き込むことができるのであれば,それは単に就職活動のためといった意味においてではなく,とても意義深いことであるように思える.

書けない履歴書」は次の文章で始まる.

情報はしばしば、現実から私たちを遠ざける。多くを知ったからこそ、遠ざかることすらある。むしろ、私たちの日常生活はこうした情報と現実の相克のなかにある。難しいことではない。知る側ではなく、自分が知られる側に立ったとき、こうした認識がいかに不完全であり、いかに危険かをまざまざと感じることになる。

書けない履歴書

エントリーシートや履歴書を書くとき,書き手は自分が知られる側に立っている.自分が知られる側に立ってはじめて,エントリーシートや履歴書が,自分が表現する自分が,とても不完全であることを痛感する.そうであるならば,自分が知る側に立っているとき,どれほど不完全な情報しか知り得ないかもわかる.そのような不完全な情報で誰かを非難したりできるものだろうか.

読みたいことを、書けばいい。

エントリーシートの書き方とか履歴書の書き方といった記事はいくらでもある.他のテーマと同様,駄文がインターネットにあふれかえっている.そんな中,とても面白い「履歴書の書き方」というコラムがある.青年失業家を自称していた元電通マンの田中泰延氏が「読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術」に書いた文章だ.

ちなみに,「青年失業家を自称していた」と過去形にしたのは会社を作られて,もはや失業していないだろうからだ.

その田中泰延氏による「履歴書の書き方」が,「電通に24年勤めたコピーライターが教える就活の「非常識な正攻法」」というタイトルで,ダイヤモンド・オンラインに公開されている.就活生もそうでない人も面白いので読んで欲しい.

もし文字を読むと蕁麻疹がでるというなら,文字を読まなくていい.記事の中央付近,「わたしのESを公開しよう」と書いてあるその下に,実際に氏が企業に送ったエントリーシートが貼られている.電通に採用されたESだ.参考になるだろう.

その後の「プノンペンのジョー」も面白いのだが,このコラムは次のように締めくくられている.

この項のはじめに、就職活動では、2つしか聞かれない。「おまえはなにをやってきたんだ」と「うちに入ってなにができそうなんだ」である、と述べた。就活は学生にとって、“それまで自分がなにをしてきたか”と“これから自分がなにができそうか”をあらためて考えるチャンスになる。いい機会だと思ってトライしてほしい。

そして自己紹介と志望動機からなるエントリーシート、そして面接で話すことは、思いがけないことに、あなたが書く「随筆」と同じものなのだ。

いままでの人生で触れた「事象」がある。それによって生じた「心象」があなたの現在の立ち位置を決めているし、将来の理想や願望を決めているはずである。

それを順を追って書けばいいし、言えばいい。しかも、一番大事なことをピックアップして読んだ相手の心に情景が浮かぶように、伝える。そしてそれには、特定の企業のような「ターゲット」など必要ない。相手のためではなく、まず自分が自分を理解するために書くのだ。

全くもって、随筆を書くことと同じなのである。その意識を持ってESを書いた経験は、あなたが文章を書くときに、きっと役立つことだろう。

電通に24年勤めたコピーライターが教える就活の「非常識な正攻法」

エントリーシートや履歴書を書く意味

若松英輔氏による「書けない履歴書」と田中泰延氏による「履歴書の書き方」は,正反対と言えるような文章である.そもそも「書けない履歴書」は,「悲しみの秘義」という,大切な人を亡くす悲しみと向き合うエッセイ集に収録されているのであり,かたや「履歴書の書き方」は,成年失業家が書いた「非常識な正攻法」なのである.同じわけがない.

ところが,それらに書かれている「履歴書を書く意味」には共通点がある.就職活動やその他の理由で,エントリーシートや履歴書を書かねばならなくなったとしたら,その機会を大いに活かすのがいいだろう.自分の内面を覗き込むチャンスなのだから.

© 2022 Manabu KANO.

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