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【ふしぎ旅】源翁和尚にまつわる話

 源翁和尚と言えば、殺生石の話が思い浮かぶだろう。

 平安末期、鳥羽上皇の時代。
 後に日本三大悪妖怪と言われる、玉藻前、九尾の狐が那須野にて討たれたが、その後、巨大な殺生石となって近づく人間や動物を殺し、あたりは死骸であふれた。
 様々な高僧が、玉藻前の霊を鎮魂しようと試みたが倒れた。
 時代は移り、室町の頃、会津より都に向かう途中の源翁和尚が、この霊を祓い、殺生石を杖で叩くと、殺生石は小さく割れ、その欠片はあちこちへ飛んで行ったという。

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今も、栃木の那須に行くと、殺生石のあたりは、有毒ガスであふれ、小動物なら死んでしまうという。

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 この源翁和尚、名を心昭と言い、越後国に生まれる。
 元々は、これも三大悪妖怪、酒呑童子が稚児としていた国上寺で学んだと言うが、後に曹洞宗に改宗する
 その後、十八歳で悟りを開き、全国行脚へとでる。
 鳥取、下野、結城などを渡り、さらに会津にて慶徳寺を開山する。

 さて、ある日源翁和尚は、慶徳寺から数キロ離れたところに熱塩に散策へと行った。
 当時、熱塩には慈眼寺という、空海によって真言の道場として開かれた由緒正しい寺があった。
 しかし、源翁和尚が訪れた頃には、荒れて廃寺同然となっていた。
 その辺りを散策していると、山の神と名乗る老人が現れ、源翁和尚にこの寺を継いでほしいという。
 源翁和尚は、この地は真言の道場として有名なところで、「宗派が違う私が入るのは流石に難しい」と断ったが、神は「この寺の僧は破戒邪教の徒で、もはや僧侶とはいいがたい。あなたがいらっしゃるのなら、この辺りを焼き払い僧侶を追い払って迎えよう」と言い姿を消した。

 そうこうしているうちに、突然地鳴りがし、辺りの木や地が揺れ始めたので源翁和尚は慌てて帰路についた。
 途中、ひどい轟音がしたので振り返ると天にも届かん勢いの一本の火柱が、熱塩に立ちのぼっていた。
 この日は三日三晩に渡って燃え続き、沈下した焼け跡からは熱湯が噴き出していた、
 これをみた源翁和尚は、遂に神の言葉を受け入れ、再び熱塩の地を訪れた。
 すると、また山の神が現れ
 「そなたが、またこの寺を建て直すこと嬉しく思い、お礼にと温泉を出しておいた。日々の疲れをいやし、村の者達にもその恩恵をぜひ与えてくれるよう、お願いする」
 というと姿を消した。
 かくして慈眼寺は源翁和尚により示現寺と改め、再び活気を取り戻した。1375年のことである。

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 この後、源翁和尚はこの地で亡くなり、その墓は示現寺内にある。

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 さて、ところで源翁和尚が割ったという殺生石の欠片はどこにあるのだろうか?
 最も遠いところでは岡山県の化生寺に殺生石の石塚があるという。

 また、源翁和尚になじみ深い福島県の会津の地にもいくつかあり会津高田の伊佐須美神社、末社に「殺生石稲荷神社」があり、見ることが出来る。

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とは言え、一見すると普通の石と何ら変わりはない。

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 猪苗代の玄翁石は、非常に分かりにくいところにはあるが、本家よりも大きく、見ごたえがある。後難がないようにと源翁和尚が、さらに石を割ったと伝えられており、また踏ん張った際の足跡があるという。

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 一説には、戸ノ口原の夜泣き石も、赤子を背負っていた源翁和尚が腰かけたところ、その赤子は狐が化けたもので、石と同化し、源翁和尚を押しつぶそうとしたが、払われてその足形が残っているという。

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また、この近くにある岡田一位稲荷も、妖狐の類を葬ったとあるので、何かしら関係があるのかもしれない。


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