「学術系Vtuber」再考

 最近、「私たちは学術系Vtuberです」というタグが提唱されて、わずか数十時間で相当広がってきた。多くのVtuberがそれを使って自己主張している一方、態度を保留する方もそこそこ見かけている。僕はVtuberではないが、学術研究の発信についていろいろ取り組んでおり、かつVtuberの友人の手伝いもしているから、お恥ずかしいながらも一応中途半端な関係者として、少し私見を述べてみたい。

 まず確認しておきたいのは、「学術系Vtuber」という呼び方は別に新しいものではない。Vtuberという表現形式がキズナアイのデビュー以来、だんだん流行るようになった中、にじさんじやホロライブなどのエンタメ的活動が、往々にしてVtuberの主流として社会一般に広く認識されている。それに対して、観客の求めに応えることを基本とするエンタメ的活動とは違い、必ずしも求められていない専門的な知識や情報を伝播する活動に取り組むVtuberも存在している。少し前まで、僕も彼らの一部を学術系Vtuberと呼んだりしていた。他方、実際の活動内容は学術的かどうかはさておき、そう名乗る個人や団体は少なくとも2018年の頃からすでに現れたらしい。ただし、今回のようなタグの拡散によってカテゴリーを形成させようとする動向は、僕の認識では初めてのはずである。


活動について

 Vtuberの成立要件は、アバターを用いて活動することである。live2dだろうと3Dだろうと、イラスト1枚で活動する人すらいるようだが、その視覚的イメージはいずれも「リアル」または「三次元」と明らかに区別されたものである。言い換えれば、Vtuberの「ヴァーチャル」は文字通りの「仮想」という意味よりも、われらが普段生活している「リアル」世界と対極する別の世界を指し示す意味合いが強いとも捉えられる。

 このように言うと、SAOなどをイメージされるかもしれないが、大航海時代のヨーロッパ人の北米移住で喩えてもよいはずである。当時、多くの人々は旧世界にいた頃の階級身分などの制限から逃れ、新世界で有産者になることを目指していろいろ開拓してきた。Vtuberの場合、インターネットの性質により、旧世界に相当する「リアル」から脱出したようにも捉えられよう。

 1993年7月5日、『The New Yorker』に2匹の犬がパソコンを使っているというイラストが掲載されて、そのタイトル「On the Internet, nobody knows you're a dog」は、インターネットの最も重要な特徴である匿名性を的確に形容している。まさにその匿名性により、人がネット上で発言する時の主体と「リアル」の当事者と分断させられ、サイバースペースの中で別の人格を載せる基盤ができた。無論、ここ十数年間、とあるハーバードのリア獣がインターネットを周囲の人間関係の延長とするために、いろいろやったことの悪影響も半端ない。だがVtuberという表現形式、とりわけ「リアル」に存在しないアバターに基づく人格がますます大衆に受け入れられてきたことは、インターネットの匿名性が発展した結果とも言えよう。そのため、僕は「学術系Vtuber」を検討する前提として、「リアル」世界じゃなくて「ヴァーチャル」世界における現象として扱うべきと主張したい。

 では、「ヴァーチャル」が新世界だったら、当然様々な領域に大量の空白地帯がある。そこにやってきた人々は、各自の需要に合わせて様々な自己主張をすることが、空白を埋める行為として至極当然である。また、一つの社会システムが長く作動していくと、必ずどこかで不公正や不平等が起きてしまうから、旧世界の認証を必要条件とせずに新世界でより自由に活動することは、どれほど大きな意義を有しているのかは言うまでもない。何しろ、学問への道は、学位の取得、高等教育や研究機関を通ることが一番近いはずだが、唯一というわけではない。

 例えば、ロサンゼルス出身のEric Hofferという人は、視力の関係で正規の学校教育を一切受けたことなく、季節労働者として農園で働きながら図書館に通っていた。彼は独学で植物学を勉強しただけでなく、その地域で発生したレモンの白化現象の原因を突き止めたことで、カリフォルニア大学から招聘されることになった。だが彼はそれを断ってサンフランシスコに行って港湾労働者になり、後に約10年間の労働経験をもとに書いた『The True Believer』という大衆運動の研究書は、現在社会学の古典と数えられており、本人も晩年で大統領自由勲章を授与された。

 それに対して今日われらが置かれている状況では、法学部の学士助手制度がすでに消えており、論文博士を文科省がずっと廃止したがっているし、さらに研究者のためのロビー活動で知られる榎木英介先生がかつてハラスメントで本来の研究方向を断念したようなことなど、制度の硬直化をはじめとする構造的問題がますます増えてくる一方である。それだけでなく、実際専門分野によって名門大学や研究機構に務める人でさえ、勤務先の制度または出版流通環境の制約により、一般向けに知識や情報を伝達する機会を得られないことが少なくない。そのため、「ヴァーチャル」という新世界を拠点に学術的内容を伝播する活動には、まさにラバか馬かは歩き出させればいいということわざの通り、真摯に学問と向き合いたい人であれば、どんどん取り組んでいけばいい。


カテゴリーについて

 一方、Vtuberという表現形式で学術関連内容を扱うのはいいことだが、それらの活動すべてを「学術系Vtuber」というカテゴリーに集約していいかどうかは、やはり詳細に検討すべきだろう。『論語』には、名正しからざれば則ち言順ならず、言順ならざれば則ち事成らずと書いてあるように、「学術系Vtuber」という呼び方を広げるのは個人のためではなく、Vtuberの間で学術的内容の地位を確保するためなら、それくらいの慎重さが必要だろう。

 これまで、学術関連内容を扱う多くのVtuberたちにとって、物理系や化学系など、専門分野の名称で名乗るのが一般的だが、それは非常に包括的な呼び方でもある。一つの専門分野の中では、中高生向けの啓蒙的活動をするVtuberがいれば、最新の論文を紹介するVtuberもいるため、その呼び方が指し示す範囲も入門から研究のフロンティアまで幅が広い。本来ならば、「学術系Vtuber」という呼び方は、それらの上位名称として提唱されたため、それらのVtuberすべてを包括しなければならないはずである。しかし、ここ数日間Twitterで検索したところ、そのような役割を背負うべき上位名称を「学術」と呼ぶことに疑問または慎重な態度を示した方も相当いたようだ。彼らの意見を整理して言えば、とりわけ明治以来の日本語において、「学術」という言葉には、一定の専門性を意味するというイメージ、言い換えればそれなりの重みがあるからだ。

 確かに、英語の場合、「academic」は高等教育および研究活動のほかに、初中等教育の教科を巡る表現など様々なところで、体系化というニュアンスに基づいて広く使われている。だがその訳語である「学術」が、日本語世界において未だにそれほど広く運用されていないというなら、それはそれで真っ当な考え方と言えて、僕も賛同する。もちろん、言語は常に変化しているから、これから日本語世界においても、「学術」という言葉にもっと広い意味合いを持たせるのも一つのやり方だろうと僕は考えている。しかし、現時点では「学術」という言葉をラベルとして一気に広げると、何らかの混乱を引き起こしかねないという危惧は十分に理解できる。さらに言えば、研究のフロンティアから最新の情報を伝達することにしろ、知識の伝播方式を工夫することにしろ、ただ学習しながらその経験を分かち合うことにしろ、学術関連内容に取り組むには、資格や学歴と関係なく、真摯な態度こそ必要条件だと僕は考えている。だが現実的に考えれば、善意の目的を掲げたとしても、そこに集ってくる人々は必ずしも全員善意を動機としないのは当たり前なことだ。「学術系Vtuber」という自己主張に基づいて本当に有効なカテゴリー形成を促進できるかと言えば、まだ疑われる余地があるはずだ。

 Vtuber関連の事情を多少調べておけば、一見真面目そうなテーマを取り上げて、自ら活動内容を学術的だと主張しながら、実際その実力がなくてかつ真面目に勉強する気も見られず、雑学の認識で活動するケースは結構見付けられる。例えば、自ら特定の専門分野のVtuberを名乗りながらも、実際専門的な内容の動画をほとんど作っておらず、たまに他人の本を読み上げたりするだけで、かつ観客からの質問に一つも答えられないようなケースがある。ほかにも、アバターの運用において露出度の高い表現をジェンダー研究への貢献だと連呼するケースだが、活動の経歴を精査しても普遍的な知識とは実に程遠く、まるで科学と称して異性の生殖器関連情報に興味津々な思春期の真っ最中というか、いやむしろひたすら欲望に忠実で非行に走ることも惜しまない猿のようにしか見えない。たとえポジティブに解釈してあげようとも、決して学術の類ではなく、精々特定の集団を確立させるための政治的言説としか言いようがない。

 だがまさに個人の欲望を最優先するからこそ、中身よりは名義ばかりを重視する傾向がある。例えば田端大学のように、ビジネスの自己啓発塾が「大学」と名付けることは典型的な例である。もちろん、人々は「大学」と名付けるビジネス塾を高等教育機関の大学と混同することはないが、それは高等教育機関の大学は先にあり、かつ「リアル」世界の一部としてだいぶ前から高度に制度化されているからだ。だが「学術系Vtuber」の問題は「ヴァーチャル」という新世界に起きていることを忘れてはならない。新世界には旧世界ほど秩序が存在しないため、入植者の手で作るしかない。しかし、その秩序を作る手順または基盤として、「学術系Vtuber」と自己主張する人々を事実として提示するだけでは、カテゴリーまたはブームを形成させる前に、むしろ欲望溢れる連中を無条件で同等の存在として許容することになり、学問へのイメージを低下させるような事態を招きかねない。そうなると、今度このカテゴリーをより明確化するための包摂と排除が必然的に起きてしまうだけでなく、さらに炎上や混乱によって一部のVtuberをこの領域から遠ざけさせてしまうかもしれない。このような展開が十分に予見できるから、「学術系Vtuber」を自己主張のタグとして広げる方向は、実に得策ではないと言い切れよう。


構造について

 そもそも、概念やカテゴリーなど抽象的なものは、人々が行動を通して経験を積み上げてから、さらに系統的に整理した結果である。そのため、概念やカテゴリーは事実に基づいて常に再検証して、かつ必要に応じて修正しないと有効であり続けられない。逆に概念やカテゴリーをもとに事実を誘導するという逆方向の操作にすると、必ず天動説のようにいつか破綻する。だから、本当は「私たちは学術系Vtuberです」って大声で自己主張しなくても、知識への真摯な探究心をもとに活動を続ければ、欲望溢れる連中はいずれ自滅するか、クイズ番組を司会する芸人に転身するから、悪影響はそんなに広がることはないし、時が経てば、真面目に学術関連内容を扱うVtuberたちの存在感も自然に強まるとも考えられよう。類比的に言えば、四天王やら七人衆やらの組み合わせは、大抵他所や後世から呼ばれたものだからこそよく伝わっているが、人為的に設計された徳川の御三家は実際の運用においてどんどんいじられて、結局名ばかりのものになって、家康の構想と大分ずれてきた。

 しかし、このタグを使うべきか否かという件の裏に、もう一つ真剣に考えねばならない深刻な問題がある。今日では、Vtuberと言えば、大多数の人が無自覚にエンタメ的な存在として認識している。そのため、真面目に学術関連内容を扱うVtuberたちにとって、自分たちがその類じゃないと如何に主張すればいいのか、という圧力は常に伴っているはずだ。これはなぜ深刻な問題なのかと言うと、エンタメ的なものと知識への探求とは、構造的に正反対だから。エンタメ的なものは、具体的な形態は何だろうと、人々はそれを作り話即ち「真実」ではない「偽」経験として消費しているからだ。人々はスターウォーズを観て興奮したりするが、帝国軍の兵士があなたの家に乗り込んであなたを連行することはない。しかし一方、知識とは必ず真実である。重曹を使えばあなたの家のキッチンの汚れを取り除けるし、あなたが大量に飲んだら必ずやばくなる。この本質的な違いを踏まえて考えれば、学術関連内容を扱うVtuberの存在感を強めて系統的な知識と情報をより広く伝播するには、タグの拡散ではなく、現行の主流的なVtuberの運用と区別したメカニズムが必要ではないかと僕は考えている。

 さらに言えば、エンタメ的活動をするVtuberとファンとの間は、「偽」経験を巡る極めて単純な売買関係であり、あるいはその売買関係に基づく共謀とも言える。Vtuberがコメントを拾って読み上げたり、歌を歌ったり、アバターのパンツを見せたりするのに対し、ファンは様々な形で課金する。そして宴はいずれ終わるし、祭りの後がいつも寂しい。だが演出を提供するVtuber側と金を出す観客側と合意すれば、この幻とも言えるような内的循環関係がずっと継続していく。

 それに対して、学術関連内容を扱うVtuberの場合、Vtuberがいなくなっても、かつて取り上げられた知識と情報は消えないし、誰でもそれらを踏まえてさらに学習したり、実際の研究に取り組んだり、あるいは他人に教えたりできる。このような知識と情報の流通と受容は、原理的資本主義の一方的消費ではなく、実はディレッタンティズムの範疇に分類すべきである。ディレッタントは専業研究者やプロのアーティストではないが、一般人と専門家との中間に位置付けられるため、学問の伝播において専門家の役割を代行したり、場合によって専門家とともに個別分野のフロンティアに立つこともあり得る。かの高名な王立地理学会は、20世紀初頭まで様々な職業の人々による新発見などの情報提供に基づいて学問を整理していた。多くの現地情報提供者もその功績で後々学者の集団に加わることになった。残念ながら、ここ百年間くらい、ディレッタントという階層がだんだん消えて、一般人と専門家との二元化構造が主流になってきた。しかし、いわゆるアマチュア天文学のようなディレッタントが存在する領域はまだあるし、近年文化財関連でよく言及される公共考古学も似たような発想である。だから、学術関連内容を扱うVtuberにとって、エンタメ性を暗黙の前提としている現行のVtuberの作法や流儀に追従するより、個々の専門領域において如何に外周部でディレッタント層を動員すればいいか、という問題意識に基づいてVtuber活動を再考するのはお如何かや?

 ちなみに、「ヴァーチャル」という新世界では、時の流れが「リアル」即ち旧世界より早い。かつてVtuberの四天王にも数えられたのじゃロリおじさんのねこます氏は、1年前からすでに「Vtuber」であることをやめて、「アバターを活用するタレント」と自身を定義している。

https://twitter.com/kemomimi_oukoku/status/1220596372413403136?s=21

 「ヴァーチャル」の中でしか存在しないキャラじゃなくて、「リアル」と「ヴァーチャル」をまたがる人格になる。言い換えれば、氏は主流のエンタメ的Vtuberのように新世界の内陸部に深入りして、どこかで夢の楽園を作って一国一城の主に満足するようなパターンではなく、港町にとどまって新旧世界間の往来をもとに事業を展開するパターンである。属性以外に売ることが何もないキャラやヴァーチャルアイドルと違って、タレントは演技など専門的なスキルが求められるから、氏の行動は学術関連内容を扱うVtuberたちにとっても、大いに参考すべきではないだろうか?

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