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家康の決断 4.自分の目標を常に見ているか

こんにちは、いっせいです。
徳川家康の75年の生涯の中でターニングポイントとなった決断について、書いていきます。今回は4回目、「小牧・長久手の戦い」になります。

当時の時代背景や、家康の状況

1582年に本能寺の変が起きます。
織田信長が亡くなった後に、羽柴秀吉が台頭してきます。

そんな中で織田家の重臣は、織田信長の近親者を担いで対立していきます。秀吉は信長の次男である織田信雄と手を組み、柴田勝家と争います。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と三男の織田信孝を滅ぼして、秀吉が中心となっていきます。

一方で家康は、天正壬午の乱を経て領土を拡大していきます。その際に織田信雄が徳川家と北条家との仲裁を実施したことで、関係性が深くなっていきます。秀吉は、賤ヶ岳の戦いの後の信長の孫である三法師を担ぐようになります。

対立をする中で、ついに1584年3月に両者が衝突して小牧・長久手の戦いが起こります。緒戦を行った後に両軍の全面衝突のないまま推移して睨み合いをするようになります。最終的には1584年9月に和睦します。

家康はどのような決断をしたのか

ここで家康としては、二つの選択肢がありました。

  • 羽柴家と良好な関係性を継続する

  • 独立して、抗戦する状況を継続する

ここで家康は、羽柴家と縁戚を結んで関係性を継続していく路線を選びます。秀吉の妹と縁戚を結び、豊臣家と協調路線を進みます。
豊臣家に権限を集約することで、平和な状況を作れるという意図からこのような選択をしたのだと思います。

家康の決断から学べることは?

以前、書いた記事の中で、家康は住職の方から「厭離穢土 欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という言葉を説かれ「戦国時代という混乱した世の中を、平和の世の中に変える」ことを自分の目的を定めたのでは、と書きました。

自分が中心になるのではなくても、求めていた内容に効果的なのであれば、その決断をすること。自分が行いたいことを常に定めながら生きることでそのような選択をできるなどと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました!
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