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家康の決断 1.何のために生きるのか

こんにちは、いっせいです。

徳川家康の75年の生涯の中でターニングポイントとなった決断について、書いていきます。
今回は1回目、「今川家からの独立」になります。

当時の時代背景や、家康の状況

1560年、織田信長の名前を有名にした桶狭間の戦いがありました。
結果としては今川義元を奇襲することで織田方の勝利となるのですが、当事者の方々は結果をわからないので、各々の役割を果たしていきます。

当時、松平元康と名乗っていた家康は今川方の一番手として進軍しており、織田方の丸根砦を攻め落としています。当時は、独立した大名家ではなく、今川家に臣従する一武将でした。しかし、今川義元が織田方の奇襲により敗死してしまいます。

大高城に入っていた家康は、織田方からの攻撃を避けるべく岡崎まで退却しました。岡崎は、松平家のゆかりの地であり、家康の出生地でもあります。中でも大樹寺という松平家の菩提寺まで戻りますが、ここも織田方に取り囲まれてしまいます。

家康はどのような決断をしたのか?

ここで家康の前には次の3つの選択肢がありました。

  • 祖先のゆかりの地で切腹する

  • 体制を立て直して、今川家の武将として陣に戻る

  • 体制を立て直すと同時に、松平家として独立を果たす

家康は、荊の道である独立を目指します。理由は2つあると思います。
一つ目は情勢的な状況から、二つ目は精神的な理由からです。

今川義元の死により、上記の岡崎を含めた西三河の地に対して今川家の影響力が薄れました。なぜなら義元の嫡男である氏真は健在だったものの、義元から権威の引き継ぎを行うことをできなかったため、直接の影響力を及ぼすことができませんでした。一方、家康は松平家の復権を行うという大義名分もあり、西三河への影響力を自然に取り戻すことができます。

ただ、ぼくは精神的な理由の方が大きいと思います。

当初、菩提寺では家康は切腹しようとしていたようです。今川義元という大きな傘の下で活動していたところから急転直下、混迷の状況に陥ったのです。悲観の中で切腹するという選択肢も取り得たのかもしれません。

その時、住職の方から「厭離穢土 欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という言葉を説かれたのでした。「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という意味の言葉です。戦国時代という混乱した世の中を、平和の世の中に変えると解釈できます。家康はここで自分の目的を定めたのだと思います。

家康の決断から学べることは?

今から当時の状況を見ると、次の2つの事実がありました。

  • 今川家の影響力が及ばなくなった

  • 元々、ゆかりの地であり大義名分もあった

これを理由とすることはもちろんできると思いますが、当事者が、当時の事実情報をきちんと掴めるとは限りません。

その時に、大事になるのが、何をもって決断するかだと思います。
最終的には、江戸幕府を開き、260年間の平和な世の中へ導く家康ですが、この時の決意を元に60年間生き抜いたのではないでしょうか?

自分は何のために生きるのか?改めて考えようと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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