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「ボランティア、利他主義、絆の気づき」【note】で社会貢献にチャレンジ #利他のエバンジェリスト

 ボランティアであるということは、喧伝されるような自己実現や生活の充実という面だけでなく、潜在的に傷つきやすい面を内包しています。正義感や責任感から燃えつきてしまう人や理想と現実の乖離に悩まされる人も多いです。そのようなボランティア活動を継続する上で、仲間の存在、人と人との絆が重要です。

 パラドキシカルですが、むしろ個人の自発性やニーズと他者のそれらとの出会い、折衝、調和というようなプロセスを体験することが、個人的で自発的なボランティア活動がもたらす重要な産物です。その意味で、ボランティア活動における気づきは、とてもスピリチュアルなものです。

 かつての共同体では、まったくの見知らぬ人は共同体の外の人であり、日常的には出会うことのないよそ者です。一方、現代社会において、かつての共同体生活では日常的に出会うことがない見知らぬ他者、つまりはかつての共同体にとってのよそ者がまわりに溢れています。そして共同体が崩壊してしまった現代社会では、「相手の気持ちを思いやり、尊重する心」が大切と説くことはできても、それを育む場、人と人とのつながりがないのです。ボランティア活動はそのような場となる可能性を持っており、そして、それはとてもスピリチュアルな取り組みです。

おかげさま

 漠然とした感謝の気持ちを表わす言葉として「おかげさま」があります。言葉にしなくとも、そのような気持ちからボランティア活動に踏み出す人もいます。大阪に住む鈴木太一さん(仮名、60代)のボランティア活動もそのような気持ちからはじまりました。鈴木さんは阪神・淡路大震災の時から現在の高齢者を訪問・移送するボランティア活動を継続しています。

妹が神戸だったんですよ。妹も震災でマンションが半壊位の認定を受けたんですけども。まぁそれ以前にぼくが心臓手術をしたんですよ。手術をやる時に、子ども小さかったんで断っとったら先生が「あんたこの歳までには手術せんかったら死んでしまうよ」と、命の期限をつけられたわけですよ。それでもう思い切ってやって、一応助かったんですけどね。それで、助けてもらったお礼っていったらアレなんですけども、まぁなんか役に立つことがないかなぁ思ってたら地震があって、妹がおって。妹のところへいって、その後になんか他にお手伝いないかなぁいうことで。


 製造業で働いていた鈴木さんは、以前はボランティア活動や慈善活動にまったく興味がありませんでした。中学一年生の時に父親が亡くなり、鈴木さんは母親一人に育てらました。「貧しかったんでね。周りのこと考える余裕無かったですね。生活としては。」ところが、心臓の手術後に気持ちの変化がありました。「助けてもろただけで平々凡々と生きとっていいんかなぁと。せっかく助けてもろた命やから、なんか役に立つことないかなぁと。そういうこと考えるようになりましたね」とボランティア活動をはじめた頃を回想します。

 玉木キクさん(仮名:80代)は、チャリティ用リサイクル商品の値段つけというボランティア活動を続けていました。以前は、他者のために活動をしたことは一切ないといいます。

生活いっぱいで、なんでそんなもん。助け合いは昔は確かにあった。そりゃまぁ隣保、隣組ゆうて。戦前よ。戦後はちがう。戦後はもう個人主義。自分が生きていくのに一生懸命や。あの苦しさは経験した人間やないと。あの苦しさから無事ここまで来れたんやから親のおかげやと思ってる。今頃になってね。死ぬ前になってやっと親の有り難さがわかってきた。それと、周囲のね。

物質・金銭を超えて

 スピリチュアリティを構成する一要素として、物質的な価値や金銭の非重要視が指摘されることがあります。もちろん、自給自足が困難な現代社会で生きていくには物質とそれを手に入れるための金銭が必要です。しかし、スピリチュアルな人は、そういったものに深く執われず、他のものに満足を見つけ出します。その意味で、鈴木さんは非常にスピリチュアルな人といえましょう。

高収入も確かに魅力ですけどもね。収入ばっかり追うとったんでは、人間らしい生き方はできへんのちゃうかな、とそういうふうに考えましたね。今はリストラで会社辞めてから無職なんですよ。障害あるからなかなかね。就職もないし。いま嫁に食わしてもうてるんですけども、嫁がボランティアに理解があったんで、現在までできてる。

 阪神・淡路大震災を契機に、ボランティア活動をはじめた平井啓子さん(仮名)は、夜はパートで病院に勤め、昼間はボランティア活動をしていました。しかし、ボランティア活動をはじめて5年目、病院のパートを辞めました。

パートでわずかな給料もらってもなんやから、それやったらお金に関係なくボランティア活動やってみようかなと思って、それでどっぷりと浸かってしまった。お金に代えられない何かがあるなと。お金で縛られるよりは、拘束されるよりは自分の自由にできることがいいなと思って。それと主人の理解。

お金が入る仕事をやめて、自分の時間を人のために使う、その原動力はどこにあるのでしょうか。平井さんはいいます。

お金に代えられない人とのつながりというか、いろんなことを見せてもらったり聞かせてもらったり人と会ったりして、いろんなものを吸収できるじゃないですか。それが自分のために、人格完成と言ったら大げさだけど、やっぱり自分のためになってる。言葉ではわかってるけど実践てなかなか難しいじゃないですか。でもそれが試されてる。こういう時は怒りたいけど怒れないとか。自分もヘルパーの資格も取ったんだけど、どっかに登録してお金じゃなくって、自分から進んで、喜んでできること。仕事となったら当たり前になってしまうけど、自分はお金をもらってない。気持ちも楽しくできるじゃないですか。お金に縛られたら楽しくない。

 ボランティア活動が個人的な趣味や自己利益と結びつけて論じられることが多いでしょうか。ボランティアの数を増やすための賢い戦略とも言えましょう。しかし、個人的な趣味や自己利益のみをことさらに強調することは現実を無視した、あるいはボランティア活動の経験がほとんどない者の観念的な言説です。ボランティア活動に多少なりとも参加したことがある人ならば、きっかけや動機が自己利益のためや個人的な趣味であったとしても、継続的に活動に関わるならば、そのような個人的な希求を中心に活動を展開することは事実上不可能であることを実体験として理解しています。

 ボランティアであるということは、喧伝されるような自己実現や生活の充実という面だけでなく、潜在的に傷つきやすい面を内包しています。正義感や責任感から燃えつきてしまう人や理想と現実の乖離に悩まされる人も多いです。そのようなボランティア活動を継続する上で、仲間の存在、人と人との絆が重要です。

 パラドキシカルですが、むしろ個人の自発性やニーズと他者のそれらとの出会い、折衝、調和というようなプロセスを体験することが、個人的で自発的なボランティア活動がもたらす重要な産物です。その意味で、ボランティア活動における気づきは、とてもスピリチュアルなものです。

 信仰する宗教があることは有意にボランティア活動の参加頻度を高めます(2005年JGSS「日本版総合的社会調査」多変量解析)。また、正月・盆のお参りといった伝統的宗教儀礼を行っている人は(たとえ宗教組織に所属していなくても)、ボランティア・NPO活動に参加しやすいということも分かっています。(大阪大学経験社会学研究室2010年SSP-Pデータ多変量解析)三谷はるよ『ボランティアを生み出すものー利他の計量社会学』(2016、有斐閣)

本稿は、「ボランティア、利他主義、絆の気づき」『アジアのスピリチュアリティ―精神的基層を求めて』勉誠出版 に加筆修正しました。




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