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ただ、今だけは心からの感謝を

私の診断名は「気分変調症」だが、治療方針は躁鬱(いやもはや鬱病)のそれとして、寛解を目指す方向に定められている。出される薬も基本的に抗不安薬や抗鬱薬、不安時の頓服、眠剤、その他、とまぁオーソドックスなものだ。つまり何が言いたいのかというと、病名こそ気分変調症であるが、実態は緩やかな鬱寄りの躁鬱ということだ。

つまり、感情の波が激しということ。基本的に感情が低い部分(ローテンション)で落ち着いているが、「稀に」気分や調子が良くなって活気に満ちたり、「よく」希死念慮に襲われ自責や自傷の衝動に駆られる。そんな感じ。自分でも、今自分がどこにいるか分からなくなるような感覚。そんな状態で生きている。

きっと今は「稀」の方。調子が良い故の思考回路になっているのだろう。大概そのあとの波は激しく荒れ気分は沈み込むが、今だからこそ書けることを書いておく。

前提が長くなった、調子が良いことの証左かもしれない。



ふと思ったことをツイッターに書いた。ここに書き直すのが面倒なのでツイッターごと載せる。

前回、前々回の記事を自ら覆す思考にふとたどり着いたということを共有したかった。極端で過度な思考を繰り返す我々精神疾患持ちにとって、こうした気づきは時に自分自身を傷つけもするし、救いもする。もしかしたら誰かの救い、とまではいかずとも、何か救いのきっかけになれれば。これは単純に、どこの誰とも知らない、私が出した一つのライフハックのようなものだ。

「普段」、つまり鬱状態の私はこんな恥ずかしく烏滸がましいことなど絶対にしない。自分のツイートを載せて救いだと?どこまで傲慢で恥知らずなんだと。だからこの記事も、鬱状態に入った私に消される可能性は大いにある。だから今、残してる。理由があるからだ。

不思議と、適当に何に対しても「ありがて〜」と思っていたら、全てがどうでも良くなった。この記事を読んだ人に引かれるだろうな、とか、後で読み返して恥ずかしさで死にたくなるだろうな、とか。そんなレベルすらとうに超えて、あれほど気にしていた「他人からの反応(肯定)」が、引いては「他人の目」が、急にどうでも良くなってしまった。だからこんな愚行に走っている。愚行と文字では言っているが、実際のところ何の感情もこもっていない。

つまり、いかに自分に期待して、悲劇的な自分を演出して、思い通りに周囲を動かすことを念頭に置いてきたかを理解した。病気を理由にして、過去を言い訳にして、他人の目という妄想を不安に変えて、自責して自傷して、そして希死念慮。

そのループにハマるのは自明だったんだ。私は何にも感謝の念を抱いていなかった。何者からも拒絶されていると思い込んで、全てを敵だと拒絶して、殻に閉じこもる。結局考えているのは自分のことだけ。ただ一方的な救いを、肯定を乞うてる自己愛に歪んだナルシストだったんだ。その事実の方が、今となってはよっぽど恥ずかしい。

歯車が一つ噛み合わなくなるだけで、脳は簡単に認知を歪ませる。それなら逆もあるはずだ。ふとした瞬間、思いがけない瞬間、急に歯車が噛み合い回り出すこともあるんだ。私はようやく、普通の人間の感覚に触れられた気がする。

日々を、精神障害があっても生きていられることを、頼る病院や薬があることを、こうして感情を書き殴れる場所があるということを、そんな感情を目にしてくれる人がいることを、とにかく何でも良い。「感謝する」というなんとも人間らしい歯車。人間らしすぎて、感情的すぎて、崇高なものだといつの間にか遠ざけていた歯車。ずっと隣に落ちていたんだね。

そしてそれは、表面的であろうが心がこもっていようが、どちらでも良かったんだ。その行為自体に意味があったんだ。常に自分の感情に寄り添う必要なんてなかったんだ。


生きづらさも生きやすさも、結局は自分次第だ。だったら楽な方法を探せば良い。それが茨の道なら、全身を傷つけながら探せば良い。病気が不安を作り出すなら、病院や薬に頼れば良い。生きづらい生き方を選択し続けるなら、そのまま変わらず在ればいい。

そう、どうだっていいんだよ。どうにもできないんだよ。他人の生き方なんてさ。

一時期は同じような人間を救いたいと本気で考えていた。でもそれは、自分を救いたいだけの愚かで傲慢な行為であることを知った。私は結局、自分の病気や問題を解決する前に、他人の欠点や悩みに目を向け、それを一緒に解決するという「善行」をすることで、己の欠点から、問題から、病気から逃げようとしていたわけである。その先にあるのは、責任転嫁と自責のループ、そして病気だという事実。それだけだというのに。


いつも以上に自分語りが過ぎた、さすがに恥ずかしいから今回はこの辺でやめておく。

ここまで読んでくれて、本当にありがとう。私もあなたも、自分の人生に納得して生きていけたら良いね。それは本当に願っているよ。苦しんだ分、人生に絶望した分、死にたいと思った分、全部ぶっ壊して覆して、例え寛解できなかったとしても、絶対幸せに生きてやろうね。



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