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何が証明するか、自己

最初に適応障害と診断されたのは25歳の時。初診即日、話して数分で診断が出されるという異常性を知ったのは、サードオピニオンたる現在の主治医による診察過程を見てからだった。ああ、普通は慎重に診察を繰り返すのか。普通はあらゆる可能性を考えて、診断を下すのは遅くなるのか。私は何も知らなかった。

大学院卒だったため新卒とはいえ入社時には24で、他の同期よりも年齢自体は上であることから、私にとって同期は同期でありながらも、年下の守るべき存在のような感覚を抱いていたことを覚えている。だから殊更、自分のことは自分で。むしろ同期からいつでも頼られてもいいように、むしろ助けてあげられるように、なんて。今思えばどこまでも傲慢な考えを、最初こそ抱いていたものだ。そんなもの、直属の上司が決定した段階ですぐに崩れ去って跡形もなく消えるわけだが。

結果的に言えば、適応障害の元凶となったのは「ハラスメント」が当たり前の上司、職場、取引先。とにかく、仕事に関わる全てだった。当時の情景は、数年たった今でも昨日の事のようにフラッシュバックする。だが全てが環境のせいとは言わない。休職からの退職を経て、そこから始まる地獄のような自己分析の日々は、私の欠点という欠点、弱点という弱点をじわりじわりと炙り出した。さながら拷問のような日々だ。そんな痛みの捌け口は、物理的な痛み。そうやって耐えるしかなかった。

退職後は学生時代お世話になった教授のツテを辿って、とある学術団体の事務局でアルバイトをさせてもらった。事務局とはいっても、実態はお世辞にも綺麗とは言えないボロアパートの一室を事務局として借りているだけの、まるで貧乏学生の部屋だった。普通スペックの一般的なPCで、全国にいる何千といる会員の個人情報を一手に担う。そう一手、一人だ。他に誰もいない、何があっても一人で対応しなければならない状況だった。事務局にはもう一人学生アルバイトがいたが、学生という身分もあり、あまり仕事の時間が被ることはなかった。

事務局のお偉方はみな大体大学講師や博物館学芸員といったご立派な先生方で、事務局の劣悪な環境など改善する気もなさそうであった。そもそもそんな状況だと認識していたかも怪しい。彼らが事務局に来るのは、溜まりに溜めてくれた精算の時くらいだから。現金手渡し、しかもピン札で。馬鹿みたいだろう?

今だから言えるが、ご立派な先生方の感覚は世間のそれとは完全にズレている。たとえば会員費。会員費といった帳簿管理は、それまで見たことのなかった紙の帳簿表による手書き管理だ。今の時代いくらでも会計管理ソフトは存在しているのに、全てがアナログ手法。もちろん会員費の請求ですらアナログだ。こんなことをしていると他の仕事が進まない。取引している他団体とのやり取りが疎かになる。効率的に仕事を進めたい私にとって、そうしたいくらでも改善可能な「慣習」のせいで、他の仕事が手につかず、結果的に膨大に蓄積され、捌くのに時間を要することで精神的負荷が削られるという負のループは、再び適応障害を再発させるには申し分ない環境だった。

そんな彼らだからこそ研究職などというものに打ち込めるのだろうが、そのせいで周囲を蔑ろにする非効率性にまで目を向けられないのは、さすがに社会の一員としては頭が悪いとしかいいようがない。

これ以上は耐えられない、というより、これ以上ここにいたら死ぬと判断した私は、辞めたい旨をすぐに申し出た。申し出は受理されたものの、後任が見つかるまでは頑張ってほしいの一言で、何ヶ月もズルズルと必死に、時には涙を流しながら業務に取り組んだ。

結局後任が決まりそうな気配は全く無く、何より私の病状に一つの心配の言葉すらなかった彼らのことなど最早どうでもよくなり、その時やれることを全てやり、見知らぬ後任への引継書を残して、逃げるように事務局を後にした。その後事務局がどうなっているかなんて知らない。一つ確定してしまったのは、もうお世話になった教授には顔向けできないということだけだ。


その時、並行して別団体の委託業務を担っていた。そちらは前述の事務局とは真反対に、お偉方もみな同じ場所で仕事をしているという、忘れていたが当然の環境であった。期限付きではあったが、それでもそこで仕事を任せてもらえたのは、少なくともいい経験であった。出社最終日に「もしかしたらこれからも仕事をお願いするかもしれない」と言われ、喜んでその連絡を待っていたが、どれだけ待っても、年度を超えても、4月を過ぎても、連絡は来ないままだった。

それがちょうど今年の話。冗談を言うタイプの業務先ではなかったため内心すごく期待していただけに、正直裏切られた感覚は消えない。でも仕方ない。そう言い聞かせながら、現在は通院しながら療養という名の無職期間に突入したという次第だ。


何かをしていないと、何かしらの対価を差し出し続けないと自分が存在している価値などいよいよなくなるという考えを持っていた自分にとって、今の状況はとても耐えられるものではない。だが、自分の状態を無視してあらゆる環境で働いた結果は、病状の悪化と、それまではなかった希死念慮の登場であった。客観的に見ても、療養に専念すべきなんだろう。

でも、療養って何?寝ていればいいの?いつまで寝ていればいいの?何も生み出さず、何も対価を支払わず、周りは働いているのに、ただ眠るために、有限な時間を浪費し続けるの?自分のことすらろくにできないのに、生きている意味あるの?それって、生きているって言えるの?

そんなことを、やっぱり嫌でも考えてしまうんだ。



今でこそ、その思考回路はマシな方向へ軌道修正を始めている。例の「ありがて〜」思考だ。だが、それでも限界はある。今回こんな記事を書いたのも、今にも襲われそうな希死念慮、虚無感から気を逸らすためのものだ。こんな自己開示に何の意味もないことは分かっている。せめてもの時間稼ぎだ。ここでまたネガティブに引きずられたら、また繰り返してしまう。もう嫌なんだ。嫌なのに。

考えている間に、また一つの疑問を見つけてしまったんだ。思考回路がマシな方向へ修正し始めたからこそ見え始めた疑問。

現在私が持ち合わせているのは、気分変調症という精神障害と、それを証明する障害者手帳。だが、それを抜きにした時、私には何が残るんだろう。今でこそこの「状態」が、私という人間を証明してくれているが、私のアイデンティティが病気に依存しているのだとしたら、もしこの病気が寛解した時、私はどうやって生きていかなければならないんだろう。

私のアイデンティティって、どこにあるんだろう。


どうやら私は、本当に自分で自分を地獄に突き堕としたいらしい。とにかく常に、自分を追い詰めたいらしい。どこまで自分が嫌いなんだ、それとも好きなのか?私の中のネガティブが、私自身の思考に殺されないように縋っているのか?

新たな問題は前進の合図だ。だったら向き合ってやるよ。
幸い無職には、いくらでも時間があるからな。


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