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外せやその箍、理性を飛ばせ

昨日は完全に、半日を通した躁状態であったことが確定したわけだが、それに伴って翌日朝に必ず襲われていたような不安感や虚無感は、かなり薄らいでいるようだ。前々回の記事に「日記」として記してはいるが、前回の通院日から処方される薬の用法が変わった。朝飲んでいた薬を寝る前に飲む、という「それだけ」の変化であるが、たった「それだけ」で起こる変化は計り知れない。正直今も怖い部分は残るが、どうやら杞憂だったようだ。

変化がないわけではない。感覚的な話にはなってしまうが、最大の変化として起こったのは「どうでもいい」という思考回路が起きた瞬間から起動、維持されたことだ。鬱のときは逆に考えられない「どうでもいい」なんて感覚。自傷や自罰を意味するようなそれではなく、全ての事象に対して興味が失せているというか、「どうでもいい」。それに尽きる。

こういう書き方をするとそれはそれで危ない気もしてくるが、目覚めた瞬間からまるで生理反応のように脳の過集中を思考に費やす私にとって、それすら「どうでもいいわ」と思えることは、至高の状態とも言える。変な力が抜けきった、というべきだろうか。今こうして手探りに言葉を探すことすら億劫だ。単なるインターネットにいる人間一人の状態記録。価値という尺度で測ることの土台にすら上がらない普遍的なそれ。「どうでもいい」。


話は変わるが、昨日の躁状態での行動記録は前回の記事にまとめた。

とはいってもアルバムのようなものになってしまったが、珍しく外に出た記録をまとめてはいるので、もし興味があったら見てみてほしい。ねえか、別に。でも素人なりに写真にはそこそこ自信あるからやっぱ見てほしいわ。満たしてくれ承認欲求。

なんて宣伝はさておき、外出といえば近場の病院への通院のみな私にとって、外出という観点では昨日は相当に疲れた。人に疲れたとかではなく、歩き回ったことへの疲れ。これだから日本橋は嫌いなんだよ。メトロ乗り換えのたらい回しぶりは異常だクソ。おまけに昨日はムシムシと暑かった。危うく雨雲も直撃だった。我ながらよく行って、帰ってこれたと思う。


話が逸れた。この展示を見た帰り、自宅から一番近いトリキへ焼き鳥求めて食べに行った。私ら精神疾患持ちは分かると思うが、精神薬にアルコールはご法度だ。私もここ数年一滴も酒を飲んでいない。

弱いながらに好きだった酒、なぜなら酔えるから。酔ったフリができるから。要するに、理性を外す大げさな演技ができるから。常時理性にがんじがらめになった脳みそを、思考を、自他ともに解放することが許される時間だからだ。幸い私は程度を弁えたヤニカスではあるが、アル中ではない。基本的に酒はなくても困らないが、合法的に箍を外す理由がなくなってしまったことは弊害でしかない。

だが、昨日のトリキは違った。そう、肉体的な疲労。とにかく疲れていた。トリキに行ったのも、夕飯を作る以前に選定するのが面倒くさい。そして焼きたてのささみ串を異様に食べたかった、という理由だけだ。金を払えば店員さんがご飯を用意してくれる。なんて素晴らしいシステム。トリキの値上がりぶりにはドン引きしたが、焼き鳥さえ食えればそれでいいのでまあモーマンタイだ。


また話が逸れた。そう、そのトリキで気づいたことがある。焼き鳥をウーロン茶で健康的に流し込みながら思ったこと。

似ている。アルコールで酔ったときの感覚と、肉体的な疲労による脳の状態。そう、どちらも機能が低下している状態だ。酒が入れば馬鹿になるし、肉体が異常に疲れていれば回復以外に気が回らなくなる。要は馬鹿になる。似ている、似ているでないか。そうか、「酔う」ためにわざわざアルコールを摂取する必要はないんだ。肉体的に疲労すれば、ウーロン茶と焼き鳥で酔えるのだ。

それに気づいてしまった私は歓喜した。疲労という避けたい現象は、脳を馬鹿にしてくれるんだ。馬鹿になった脳は、ガチガチの理性の箍を外して、「ありのまま」の私を発露する。躁も鬱も薬も、何も関係ない。どうでもいい。どうでもいいんだそんな小さなこと。

どこに救いが落ちているかわからない。何が救いになるかわからない。それは思考回路に依存するから。再三書いてきたことではある。そう、救いがないなら作り出してしまえば良い。実体があろうがなかろうが、根拠があろうがなかろうが、「救い」だと勘違いしてしまえば良い。箍は、こうも簡単に外れる。今も外れたままなのかもしれない。

ああ、全てがどうでもいい!誰も見ていない!誰もこちらを気にしていない!世界に溶け込んだ一つに過ぎないちっぽけな人生!一番満たされたい承認欲求は満たされずとも、私は私を救う手段を一つ発見したんだ!


私達は恐怖に敏感になりすぎている。見えない敵意に怯えすぎている。身を守りすぎている。呪いを自らにかけ続ける。

けど、分かるけど、世界はそこまで自分を追い詰めるようにはできていない。人間はそこまで冷酷ではない。ただ、気づいていないだけだ。気づかれていないだけだ。助けを求めさえすれば、微弱なSOSを発信すれば、必ず誰かが受け取ってくれる。そうやって人類は、ここまで数を増やしたんだろう?

せめてインターネットでくらい、箍を外して、理性なんてなくして、全部どうでもよくなっちゃおうよ。呪いはまじないとも読むんだ。せっかく呪いをかけるなら、どうせなら、世間体とか、人間関係とか、病気とか、先のこととか、そんな見えない妄想なんか捨てて、今五感が感じる全てを、自分が大事にしたい何もかもを守る呪いをかけようじゃないか。

人生なんて、どうなろうがどうでもいい。所詮予測することなんて不可能だ。どうしたって外から掻き乱される以上、自己の内側だけは、何にしがみつこうがしっかり保たなきゃいけない。人生にレールなんて最初から敷かれていないし、私らはトロッコじゃない。お前も、私も、ただ今を生きてるだけの人間なんだから。

さあ、難しい思考をフラフラ散歩させよう。疲れればきっと、安心できる場所へ自然と帰りたくなるから。




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