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【怖い話】さかさ

僕にはちょっと変わった趣味がある。
そのとき体験した(したというか、今も続く)おかしな出来事の顛末を、今のうちにここに書き留めておくことにした。

以前までは日記を自分だけが分かるよう紙に残していたのだが、人目につく形で記録できるようにしておいたほうがいいと判断して、少し前からこちらに切り替えた次第だ。

筆が途切れるようなことがあれば、それは恐らく僕に何かがあったということになる。


3月2日

よく晴れた日や、明日早起きしなくてもいい日の夜中には決まって、お気に入りの場所へ出かけ、田舎暮らしの唯一の特権とも言える綺麗な星空を観に行くことにしている。
建物や人の作り出した偽物の眩しさに邪魔されないばかりに、数え切れない大小の光星がたたえる赤や青や白の瞬きは、六等星でさえこうこうと映る。

いつまでもどこまでも広がるその天蓋を、一人で縦にし、小一時間見つめる。そうすると、その日の反省とか、保証の無い明日とか、探し物とか、その他色々を一瞬だけ忘れることができる。

そうしてひとときの思索に耽るのがたまらなく好きだった。

ここがどこなのかまだ書いていなかった。

家を出て、常に赤色が点滅する信号機が付いた横断歩道をふたつ程渡った距離に、町で一番大きいスーパーがある。勿論閑散としており、20時や21時そこらですぐ閉まる。
田舎の住人がこれを過ぎて出歩く用事などないので、採算が取れないのだろう。

面積だけは一丁前の駐車場は、広大無辺の草野原に負けず劣らず、店を囲むように人の出入りのない裏手側まで続く。

裏手側の搬入口は日中でも常に陰が差す。
従業員やゴミ収集車くらいしか通行のないそこは、営業中は沢山のゴミ袋やカゴ台車で溢れており、
轢かれてひしゃげた三角コーンは、健気に耐えた土台の部分だけを残して駐車場にまばらに立っている。

裏手側に車を停めるほど混むこともないので、見られない部分はそのままにされているというわけだ。

外壁に沿って取付けられている商業施設用の大きな換気孔は、幾星霜を経たのか定かでない量の油とホコリで、壁との境界線がぼやけている。
真ん前に立つと少しだけ胃もたれのする油のような風が生ぬるく、夜ならまだしも、日中は暑さも相まって気分を損ねそうだ。

しかし、僕のお気に入りの場所というのは、ここだ。
ときたまけたたましい音を立てて単車がたむろするのだが、田舎の住人というのは本質的には温厚で、閑居して不善を為すということもない。

そこにあるものは、四方から鳴り続ける羽虫の鳴き声に混ざり、たまに国道を通る2トントラックがコンクリートの亀裂を穿つときの軋みや、その道路沿いの茂みを通る小動物に、彼らが掻き分ける草木のぶつかり。それにジュッ、ジュッ、と変な鳴き方で鳥が連絡を図るぐらいである。

この孤独な天体観測の間だけは、全ては無為自然で、世界は僕の存在を一旦無かったことして忘れる。一人降ろして軽くなった地球は、しかしほんのわずかに速度を緩めて回り続ける。

特別綺麗に写る性能のカメラではないので写真だと見劣りするが、僕にしてはとても高尚な趣味だなと思っている。

……

そうしてずっと座っていると、東の方の空には、夏の夜明けを告げる星座が少しずつ昇り始めてくる。

空と地面の稜線には、新しい目覚めを塗るような穏やかな陽の色が僅かに滲みだす。
薄い赤橙の光は、その上にある濃い青とせめぎ合い、その朝と夜の接点に、ゆるやかな弧を描いた無彩色の間隙が広がっていく。

その目覚めが次第に建物や電柱をモルゲンロートのように家々を照らし始めたころ、小休止している僕までも頬を摘まみ起こされているような気がしてきて、それでようやく夜に佇むのをやめて、帰路につく。

書き綴る形式に変えたせいだろうか、人に見られるのを気にしてすっかり野暮ったくなってしまった。

家に着くと、出かける前に着た七分丈のTシャツは、やわらかな合成洗剤の香りをすっかり失い、土くれと空気と汗を混ぜたような、なつかしい青々とした匂いがいつもより強く残っていた。

手櫛をすると、それに混ざって、換気口由来の生暖かい油の臭いがした。小指についていた爪ほどもない羽虫は、今ばかりは潰すと後味が悪いので払って逃がす。

それから余計なものを脱ぎ捨てると、ベッドへ倒れるように大の字に眠る。
こうすると、夜空と星のかぐわしい余韻が、明けのまどろみと綯交ぜになり、夢にまであらわれるような気がする。これが僕の変な趣味だ。

3月4日 

昨日降っていた雨は上がり、空気は蒸し暑い。多分な湿気が衣服にまとわりつき、少しだけ身体を重たく感じさせる。

いつもの場所には、天井に取り付けられた、錆びてもう使われなくなったパルプからの雨垂れによって、漏ったような染みが楕円形にできている。

今日の星は、もう少しで掴めそうな錯覚があった。縦横に広がる星雲と夜の帳の広がりにじっと一点を見つめていると、次第に視界の縁は黒がかっていき、平衡感覚を忘れて後ろに倒れ込む。

さて、寝転んだまま星を縦横に見ようと首を後ろにやると、角度的に、等間隔に並んだ柱に支えられた搬入口の軒下(なんと言えばいいのか?)のような空間の天井部分が目に入る。
ただそれだけのことだが、なぜか気になった。

スマホの明かりで照らす。なぜそうしようと思ったのかについて深く考えることはなかった。誰も覗いたことのなさそうな暗がりに、僕の好奇心を満たす発見があれば良いなというくらいの感覚だった。ただ、いやに気になるのだ。

年季で剥がれかけた天井の装飾などと一緒に、細いコードのようなものが沢山の束になり、朽ちてしだれ柳のように力なく流れているのが見える。

もう少し目を凝らすと、その束になったコードは、
黒いかたまりのようなべっとりとした何かによって天井にくっついているのが分かった。その黒い何かから、雨だれのようなものがぽつりぽつりと床に落ち、コンクリートを濡らしている。

なぜだろうか、こうなってしまうとそれ・・が何なのかひどく気になって仕方がないので、明かりを点けたまま、起き上がってそれの真下に寄ってみることにした。

気味が悪いのが、天井から滴り落ちていた部分の地面は文字通り「黒い」のだ。水風船を割ったりしたとき、地面は水分で若干黒が色濃く映ったりするのは分かると思うのだけれど、そういうのではなく、まるでコールタールのような漆塗りの黒が楕円形に広がっている。

指でつついてみると、意外と人肌ほどの温かみがあり、なにか臭いに独特の嫌悪感がある。何と例えたらいいのか、涎を沢山垂らした枕が乾いた時の臭い、といえばまだ優しいほうで、それよりももっと腐敗臭がする。

それ・・に気を取られるあまり、頭に水滴が落ちてきた。僕は無意識に目線と明かりを上にやった。

人間の髪の毛。

天井から垂れるコードの束のようなものは、人間の髪の毛だった。接続を失った電線の集まりとかではなく、髪の毛の束。それが風でバサバサと揺れていたのだった。

コードにしては針金のようで細すぎるし、こう、なんと言うか、微妙な癖のあるうねりとか、縮れて草臥れた感じが、暗がりの中でも自然直感的に人のそれだということをいやに確信させた。

心臓の鼓動が早くなるのを感じたが、まずもって目の前で起きていることの意味が分からないために、思考は冷静だった。

確かに髪の毛だけれど、何かの偶然でそこにあっただけかもしれない(と思い込みたいだけだった)し、黒い物体も錆び切って酷くなった油の類だろうとか、そう解釈して、自分を都合よく納得させるだけの心の余裕がまだあった。

ただ気分が悪いのは変わらなかったし、こんな出来事の後に空を眺める気も起きないので、この日はもう帰ることにした。

動悸が治まるにつれ、次第に虫の鳴き声や車の音がよく聞こえるようになった。

先ほどのことは自分の中の嫌な思い込みがそう錯覚させたようなものだ、と思うことにした。が、やはりそんなことはなかった。


家に着くとまた、すぐ現実に引き戻された。

触った指は変わらず黒いままで、それだけでもう十分なのに、何より細く撚れた髪の毛が数本、足首に巻き付いていた。これには流石に血の気が引いた。

あれがもう勘違いで終わらせようのない事実になってしまったということに加え、靴に引っかかっていたとかならまだしも、足首に纏わりついていたというのが、ありがちな怖い話の導入部のように分かりやすく気持ち悪い。

それが自分の身に起こった。ただ、ひと呼吸置くと、一周回って笑えて来るほどだった。馬鹿馬鹿しい。

翌日の昼過ぎ、買い物ついでそこに寄ってみると、しかし経年劣化の跡だけを残して、地面の黒い染みも、天井のそれもまるで無くなっていた。

それ以上に、従業員が通るたび、こちらをおかしな目で一瞥してくるのがいたたまれなかった。
確かに買い物袋をもったまま搬入口で立ちすくむ用事などない。これでは僕のほうが変なやつだ。しかしあれは何だったのか。

心霊の類を信じている訳ではないが、整理がつくまで何日か、あそこに行くのも一旦休むことにする。

3月10日 

今日は天体観測ではなくて、この前の一連の奇妙な出来事が、まかり間違って白昼夢に見た何かだったのか、それとも今もそこにある・・・・・のかを確かめるために訪れた。

というより、一周回ってむしろ腹が立ってきた。
それが起きるまで僕のものだったあの場所が、まるで脅かされ奪われてしまうような気がしたからである。
随分と迂遠だが、仮に誰かの嫌がらせだったりしたら、これはもう争いごとである。確かに僕だけのものではないが、その人のものだけでもない。

これを解き明かすのはもう、星の下の安寧秩序を取り戻すための、僕自身の意地でもあった。

僕の考えた手法は至極簡単で、その辺にある手頃な長い木の棒であの物体を丸ごと突っつきひっぺがして、その辺の草むらに捨てるというものである。

なにより僕は幽霊や魑魅魍魎、全ての心霊の類を一切合切信じていない。科学合理的でない。納得できない。

だから、この前僕の身に起こった何かにも必ず現実妥当的な理由が存在していて、あれを丸ごとどこかにやってしまえば、一旦のところそれは形を失っているので、勝手に気持ちの収拾がつくだろうと考えた。臭いものには蓋をというやつだ。

あの時と寸分違わないまま、それはそこにあった。
男の子なら武器にして振り回したくなるようなサイズの木の棒をさっそく見つけて、作業にとりかかる(少し前の昼間には消えていたはずのそれ・・がまた元のまま戻っているという違和に、なぜ気付かなかったのだろう)。

高さ自体は足りているのだが、手元から作用点までの距離が長いばかりに力が上手く伝わらず、カン、カンと天井に当たって、音は空振りを繰り返す。

そこで、辺りに、明日回収されるのであろう、持ち手の欠けた買い物カゴや金属製の箱や棚のようなゴミがおあつらえ向きに捨て散らばっていたのを見つけ、バランスよく小さなピラミッドのように積み上げる。
これで片手で明かりを照らしながら作業ができる。

自重で崩れそうなのが少し不安だが、しゃがんだままでも頂点から良く届いた。あとは先端で引っぺがして投げ捨てればおしまい。何ならこの積み上げた回収物と一緒にゴミにしてしまっても良い。

何か引っかかりがあるらしく、ぬちゃっ、とか不快な触感を我慢して、最後に中腰になって力を込める。目にも鼻にも毒な物体は更に顔と近づき、目で捉えると今までよりもありありと映った。

気味の悪さに催してしまいそうになり、気紛れに斜めに視界を逸らしたとき、天井タイル一つ分の空間が綺麗にパカッと空いて奇妙に真っ暗になっているのに気付いた。

そして、目が合った。

天井の暗穴から、逆さになった人間の頭部が目の部分の高さまでぶら下がっていた。
目頭と目尻が異様なほど開いており、突出した目玉はビー玉のように不自然に丸いのである。焦点は合っているのに、意思が感じられない。それが、こちらを覗いている。覗いている、というか、明らかに僕のことを見ている・・・・・・・・・・・・・。あっ、と自然に声が出たが、既にそれ以外はもう何もできなかった。冷たい脂汗がじわっと流れ出しているのだが、身体のこわばりのせいで、拭うことができない。鼻と口が不規則に混じった過呼吸が始まっているのが自分でも分かるのだが、混乱のせいで、その抑え方が分からない。それに片方の手は明かりごとそれの方向に向けてしまっており、白目と黒目の縁が分かるほどはっきりと映してしまっている。黒目は瞳孔がなく文字通り真っ黒で、明かりの中でも微塵も動かない。

それがただ、僕の目だけを、じっと見ていた。明らかに動物の目ではない。しかし生きた人間の目でもない。たった1メートルと少しほどの距離。風や草木の音はいつもと変わらず聞こえるのが、今起こっていることと、感じている時間の長さを余計おかしくさせた。

いつまでそうしていたのか、手から落ちた木の棒が地面に落ち、コロ、コロ、と乾いた音を立てた。その反射で大きく吸い込むように背中が息をした。それでバランスを崩し、積み上げたゴミごと地面に転がり落ちると、緊張のせいか、起き上がれずそのまま気を失った。

同日 5:30

遠くのほうから犬を連れて散歩をする通行人の音が聞こえ、はっと目覚めた。
すでに空は青色に薄明るく、夜中の出来事を思い出させる跡さえなければ、普段と何事も変わらない様子だった。いつもの寝惚けなど、あるはずもなかった。

事件事故の形跡を疑われてしまうと面倒臭くなるので、道具を元の場所に片付ける。流石にこの明るさでは怖じることもないだろう。終わってしまえば自分の切り替えの早さもそれはそれで淡々としていておそろしいものだ。

棒の先端には昨日の痕跡が残っている(はっきりと文字に起こすことまでは気が進まない)のだが、天井のタイルは朽ちながらもきちんと嵌まっていた。物体が通り抜ける隙間などない。

なぜか収めた時には何も写っていなかった

霊魂の類は居るはずがないと理解しているが、数時間前の出来事が既に信じる信じないの話ではなくなっていることが分かるほど、今度はあれが確かにいたということを理解しなければならなくなる。

ではあれは何なのか。整理しようとすると、あの逆さの目を思い出して、また軽い過呼吸を起こしそうだった。自身の危険な好奇心をひどく後悔した。

とにかくもう、星がどうとか、そんな可愛いことを言っている場合ではないということだけは分かった。


3月14日 

結論から言うと、一人での解決が困難だと考えてあの後、僕はこのスーパーの目安箱、いわゆる「お客様のお声」に投書することにした(馬鹿だと思うだろうが、至って真剣に考えた)。勿論、自分の身に起きたことを丁寧に書き綴ったところで、誰もまともに取り合わない。警察に駆け込んでも相手にすらされないだろう。
友達に伝えても同じだ。寺や神社に駆け込む気もない。オカルト好きなネットの住人は興味を示すだろうが、きっと冷やかされるだけだ。

だから僕は卸売り業者とか、諸々の仕入れ業者とか、その辺の絶妙な距離感の関係者を装って、こんなことを書いていた。設定も言葉遣いもかなり苦しかったが、こうでもこじつけなればあんなところをどうにかしてもらう機会など作れないと真剣に考えていたのだ。

「いつもお世話になっております。卸売りで店舗に伺っているいちメーカー業者の者ですが、裏手側の搬入工~ゴミ収集場付近でのネズミや鳥の巣?などの駆除処理についてご意見したいことがございます。作業中、外壁に面した天井裏?から小動物の駆け回る音が聞こえ、剥がれた天井部分から入り込んだ鳥類が巣を作ったり、ネズミが棲んでいたりする可能性を踏まえ、こうして筆を執らせて頂きました。余計な世話かとは存じますが、昨今、企業は商品の品質や衛生管理意識を問われることが増えました。お客様への実害が生じる前の調査等の実施について、一考の余地があるのではと思い立った次第でございます」……

以下は、投書から三日後の今日、店舗に赴くと貼り出されていた回答である。

「常日頃より当店をご利用いただき、誠に有難う御座います。当店の関連業者様からということですが、形式上、お客様へのご回答という形で述べさせて頂きます。ご意見を頂いたのち、駆除業者様の定期調査を特別に早め、調査・点検を行いましたが、動物や衛生面における問題は見られないとのことでした。また搬入工~収集場の天井部は、おおむね店舗のボイラー付近に位置し、一般に都市部に生息する害獣・害虫(ここではネズミやゴキブリ等を指します)の生活圏にはなりにくいと考えられます。しかしご指摘にありますように、衛生品質管理はお客様からの信頼を頂き、継続的にご利用頂くために欠かせないことの一つであり、今後も定期的に実施する所存でございます。また、今は重篤な事態とはなっていませんが(天井の剝落や漏電等)、店舗全体の老朽化に伴い、補修工事についても随時、行っていこうと考えております。この度は貴重なご意見を頂き、誠に有難う御座いました。
店舗統括マネージャー 〇〇」

そううまく事は進まないようだった。回答欄には、あそこには動物は(ましてや人など)棲まないし、そもそも何かが入り込む物理的な隙間などもない、と書いてある。そう言われてしまったらそこまでだった。

成すすべが無くなってしまえばその後は早かった。消去法的に僕にできることは、場所ごと、あの出来事を少しずつ忘れていくことだった。

ただもう一度、スーパーの裏手側へと向かう。夕方近くになっても関係者の出入りは忙しない。僕以外の人々からすれば何事も起きていないので当然なのだが。搬送トラックの後ろに並ぶ林は風でそよと揺れ、下校時間を迎えた小学生の無邪気な声と姿がその隙間から見え隠れする。

もう何度目だろうか、こうした景色を見ると、やはりあの時の出来事は全て、何かの勘違いか、夜目の錯覚だったのではないかと、……

いや、まだある・・・・。それに何かおかしい、あの黒い染みは、もう楕円形の水溜まりのような形ではなくなっていた。天井部分(それも、大体だがあの位置の)から壁を伝い、墨汁が無くなった筆の掠れのような跡が何度か続き、地面まで繋がっている。
一点に伝ったような太く濃い染みは、もはや、線や跡といった方が正確だった。それは何かが摺って動いた跡のように見えた。

不思議なのは、これだけ真新しく目立った黒色に、なぜ誰も無関心なのか、ということである。仕事に打ち込んでいるだけとか慣れたとかそういう風ではなくて、明らかに気付いていない、見えていないように感じるのだ。

確かにそれだけと言えばそうなのだが、もうこれ以上気が滅入るような思いをしたくないと思った。
夏の太陽が強く照り付けているはずなのに、いやに寒気がする。これではもうノイローゼと変わらない。やはりここを訪れるのはやめにしようと思う。

3月29日

あれから2週間ほどが経った。あの数日間は一体何だったのかと思う程、何ごとも無い。日常生活のどの部分にも影が差すような思いをする瞬間などなく、あれほど神経質になっていた自分が我ながら信じられない。ただ、あの場所で星を見られなくなったのは残念だったが、あれを見てしまった以上は仕方の無い自衛だと思うことにした。

もうすぐ人を招く予定があったので、今日は合間を縫い家の掃除をするつもりでいた。と言っても換気、掃除機掛け、玄関掃除ぐらいだが。

あの出来事のせいですっかり憂鬱になってしまい、気分が乗らなかったのである。心霊だけでなく風水の類も信じてはいないが、文字通り空気を換えるという意味で、珍しく気が進んだ。浮き沈みが続いたしばらくの区切りにいい試みだと思った。

さて、家中の換気のためには、玄関前の小窓からリビングの大きな網戸、そして2階にある殆ど使っていない、日の当たらない物置部屋の窓まで全て開ける必要がある。僕はひどく物事の取り掛かりに時間がかかる人間だったので、それはもうリビングのソファで横になったり縦になったりして、ようやく取り掛かり出したのは日が暮れた後だった。

今からの換気は虫が入りそうだ、とか、どこの窓から始めるんだったか、とかを考えながら起き上がったとき、ちょうど2階の方から

 ぎしっ、  がたっ、

というような音が聞こえた。最初の音はゆっくりと重たく、住まいの床を踏みしめる様な音が鈍く響いた。次の音はそこから数秒置いて軽く鳴った。音の所在が有り得るのは散らかった2階の物置部屋だが、しかし、どちらにしても、音の聞こえと間隔が妙なのである。
勿論家には僕以外誰もいないし、窓を開けていないので風も吹かない。

先ほどの音を何度か反芻して、そして自分のこれまでとこれからを想像すると、思い当たる節があった。それはちょうど、屋根裏にいる何かが(勿論屋根裏に部屋など無い)、天井に嵌まった木板を外したときのような音なのである。無理なこじつけ話に思えるが、自分の中の全ての点と線が繋がるともう、それにしか聞こえなかった。

そしてそれがどういう意味を指すのか分かったと同時に、手に異常な汗が滲んできた。そしてあのとき・・・・自分が目にしたものがもう一度自分の脳裏に浮かび、その想像にそのまま、目線は2階へ続く階段へと自然に向けられた。

物置部屋は階段を上って目の前の部屋にある。近いばかりに、運び込みしやすく、使わなくなったものを取り出すのも捨てるのも手っ取り早いからだ。その部屋の物が壊れたとかであればいい。この際空き巣でも構わない。

過敏になりすぎた意識が、ありもしないものについてばかり頭を巡らせてしまっているというだけであれば良いのだが、それならなぜ、階段を上るこの一挙手一投足はこんなにもじっとりと暗く踏みしめるような気乗りなのか。確かめる為に僕は2階へと向かうことにした。

2階への階段は、吹き抜けという程ではないがゆるい回り階段状になっている。
いつもはその曲がり角に差し掛かる手前に、右手側にある手すりを体側にぐっと引っ張って上っている。
そうすると、駆け上がってきた体を右にねじるような要領で、勢いそのままに無駄のない動作で駆け上がることができるのだが、

半ばに差し掛かったころ、その癖が無意識に出た。

二階に辿り着く前に、心の整理をするための一呼吸を置こうと思ったのだが、それを忘れてしまった。これから起きるかもしれないことへの身構えの緊張と、身体の動きがズレたことで、無意識に「あっ」という声が漏れた。体勢を崩し、階段に手をついてしまいそうになったのを起こすと、それで視界は自然と、すぐ正面にある部屋の方に向いてしまった。


やはり開いていた・・・・・・・・ドアの前には、ドアの上枠の縁の部分から、長髪をぶら下げた逆さの頭部があり、それと目が合った。声が出なかった。家の明かりによって奇妙なほど青白い顔貌は目の高さまでだが、はっきりと見えた。上下の瞼が異様に膨れ上がっており、それが突出した目玉をより一層歪に映す。視点的には僕が見上げている形なのだが、鼻も口も見えない。微塵も揺れ動かない。生気のない丸い目玉の、何も映さない真っ暗な黒目には、悪意も敵意も感じられない。何も意思が読み取れない。しかし、それがじっと僕の方に向けられていることだけは分かる。

僕は半ば四足歩行のまま、転がるように階段を降り、鍵もかけず、明かりも消さず、靴も履かず家を飛び出し、近くの警察署に向かった。もうどこにも逃げる場がないのだと悟った。限界だと思った。天井裏から知らない人間がぶら下がっていた、と伝えても、彼らはまともに取り合おうとはしなかった。不法侵入だとか空き巣だとか言って被害届を書かされるのだが、警察が付き添ってくれるとはいえ、書き終えたあと夜中に家に取り残されるのは懲り懲りだった。そのまま有耶無耶な理由をつけ、そこで一晩を明かした。もう事細かに綴る気力が出ない。

7月28日

事件性はないとのことで、送り返して貰った(良い歳して自分の部屋までついてきて貰ったのだ)。しかし、逃げ出した場所に昨日今日で再び戻ってきているという現実に震えだしそうだった。それでそのまま書き綴っているのだが、そもそも、僕が一体どんな悪いことをして、何者の気にどう触れてしまったのか、見当がつかない。呪いや得体の知れない化け物の類だったらどれだけ良かっただろうか。ただ星を見るだけなら、高尚な夜遊びで済んだのだ。いつかの危険な好奇心のせいだとしても、なぜ僕が。
それに、少しずつあれ・・が近づいてきているのは気のせいではないだろう。一ヵ月ほどここに書き綴ってきたが、これが人目についてしまうのも、こうなると何か人に恐ろしいものを移してしまうようで気が引ける。しかしこの日記が途切れたとき、誰かが僕を探すための糸口になるだろうという自分可愛さからくる言い訳を許してほしい。
言えることはただ一つ、冗談半分で夜中に一人で出かけたり、ましてやそこで湧く好奇心など、危険で何ひとつ良いことはないということである。これを書いている今も、もう後ろを振り返ったり窓の方を見ることができない。いつまたさかさに・・・・なってくるか気が気でないのだ。天井のある場所に常にあの影がありはしないだろうかと、酷く神経質になった。

こうなったら早い方がいい、あまりこういったところに書き込むのは気は進まないが、ここまで来てなりふり構っていられない。出会ってしまった場所がどこなのか、もし僕に何かあったとき誰かに探して貰えるように詳細に書いておこうと思う、






〒196ー1111 北海道@あq





















どうしようもなく下らなくて、だけれど面白い何かに使わせて頂きます