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【自然の郷ものがたり#19】カメラマン松葉末吉の世界【写真企画】

昭和初期の川湯温泉で活動していたアマチュアカメラマン、松葉末吉。2005年に町内で発見された松葉の写真は、地域の歴史を物語る資料としても、芸術性においても、近年、再評価の声が高まっています。松葉はバス運転手の傍ら、日常の小さな幸福の瞬間にシャッターを切り続けてきました。未舗装の阿寒横断道路を走るボンネットバス。屈斜路湖畔で戯れる着物姿の観光客。硫黄山を背景に微笑む家族—。それらは単なる懐古を超え、揺るぎなく続く人間の営みを私たちに伝えてくれます。

高い技術を持ちながらも戦後、ぱったりと撮影を止めた松葉。弟子屈町在住の写真家、藤泰人さんに、謎多き松葉作品の魅力と、そこに写る昭和の弟子屈について伺いました。

松葉末吉プロフィール

まつば・すえきち/1902年、標津町出身。1920年代から30年代末まで、弟子屈町川湯の路線バス(当時の川湯駅〜川湯温泉街)の運転手、東邦交通(現在のくしろバス)の社員として勤務する傍ら、川湯とその近隣の地域でアマチュアカメラマンとして活動。「アサヒカメラ」など写真専門誌にも投稿し熱心に撮影を続けていたが、1941年、39歳で迎えた太平洋戦争開戦を境に写真から遠ざかり、根室市への転居を経て、石狩市にて96歳で死去。

藤泰人プロフィール

ふじ・たいと/1938年、根室市出身、弟子屈町在住。写真家。NPO法人ましゅうの里代表。弟子屈営林署に勤務していた21歳のころ初めてカメラに触れ、地域の自然風景を中心に撮影する。1971年、雑誌「暮しの手帖」掲載を機にプロ写真家に転向。植林に携わっていた経験を生かし、自然に関する講演活動も行う。著書に「摩周 屈斜路 巨大カルデラの森と湖」「オホーツク紀行-丘と海の四季」「SLが輝いた日々 釧網本線」など多数。

※この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「自然の郷ものがたり 2」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。


原風景から見えるもの


松葉末吉の写真アルバムは、いろんなところを経由して拡散しながらここにあるんです。釧路新聞にも掲載されたことがあったのかな、ちょっと記憶があやふやだけど、それと前後して弟子屈でアルバム発見されて、町内で写真展が行われたの。(※釧路湿原・阿寒・摩周シーニックバイウェイルート運営会議が発見し、2006年に「懐かシーニックパネル展」として展示)

松葉の写真というのは、あちこちに散らばっているんですよ。松葉の88歳になる次男の憲二さんの友人・五月女次男(さおとめ・つぎお)氏によると、松葉は人から「この写真は素晴らしいね」と褒められたら「おおやるよ、持っていけ」なんて言ってあげちゃって、妻のアサノさんが烈火のごとく怒ったらしい。今と違って、苦労して現像した写真だからねえ。松葉は、そういう気前のいい人だったんだね。そんなわけで、松葉の写真というのは、あちこちに散らばっているんですよ。

僕は1938年生まれだから、松葉が撮っていた昭和初期の弟子屈は馴染みがあるけれど、風景というのは日々、変化しています。昔とまったく同じものを撮ろうとしても無理。その長い歴史の中の動きがね、ものすごく面白いの。僕も、それを撮り続けたい。

例えば、硫黄山。弟子屈の原風景でありながらも、1876年から硫黄採掘が始まっているから、山の形は変化しているはず。膨大な量を採掘していたからね。ちなみに、硫黄は鉱石を窯に入れ、薪で火を起こして溶解していた。じゃあその薪はどこから持ってきたのかというと、硫黄山周辺の森なんだよ。現在の森で、そういう痕跡を探すのが面白い。

1902年生まれの松葉が写真を撮り始めた年齢は20代後半から30代で、たぶん1930年前後。その頃は硫黄山付近の道路の両脇に、ニレの木がまっすぐ立っているのが写真で見受けられるけれど、今は枝が伸びてトンネルのようになっている。そういうふうに、風景は日々、変化しています。

松葉は、家族の非常にいい表情のポートレイトも多く撮っている。この写真<※冒頭写真>なんて、感動もの。おそらく仁伏地区、屈斜路湖畔で松葉の次男の憲二さんと次女の百合子さんが遊んでいる風景なんだけどね、撮影者との信頼関係が伝わってくる。憲二さんは、モデルになることになんの抵抗もなく、むしろ喜んでやったと言っていたけれども、アサノさんも非常におおらかだったと思うんですよ。松葉の写真を撮る姿勢に、純粋さを感じていたのではないかな。阿寒湖の温泉に入るアサノさんの姿も撮影していて、シルエットだけだけど気を許していることが伝わる、とても良い写真だった。

観光客らしき男性と、フキの葉っぱを傘のように持っている憲二さんが対話しているこの写真<※1>も最高だね。松葉の写真集を作るなら、表紙にしたいくらい。人物写真の中では、これがピカイチ。子どもが気を許して、なんの疑いも持っていない様子や、年齢を超えて二人は仲良しだよ!という雰囲気が伝わってくる。今と比べて当時は、写真を撮られることに緊張感が伴うもの。これは撮ろうと思ってもなかなか撮れる瞬間じゃないね。

窓枠も非常に効果的に使っていて、男の子と女の子の写真<※2>の写真も、当時の日本ではあまり見かけない垢抜けた構図で、ヨーロッパ映画のワンシーンのよう。コンテストでこういう写真を出品したら、おそらく入賞しただろうね。今のように写真専門誌も多くはなかったし、当時のアマチュアカメラマンは、コンテストぐらいしか発表の場がなかったんだよ。


古い写真にひそむ「なにか」


あのね、僕は、これがすごい写真<※3>だと思うんだ。硫黄山に棒杭のようなものが7、8本立っている。ぱっと見、なにも珍しくはない風景でしょう。
僕は、この杭は墓標なのではないかと推測している。明治初期から昭和30年代にかけて、硫黄山は硫黄を採掘する鉱山として利用されていた。標茶の集治監(しゅうちかん)からたくさんの囚人が雇われて、硫黄採掘や運搬の効率化が図られたんだよね。事業を取り仕切っていた安田善次郎が、大量の硫黄鉱石を運ぶために鉄道も敷設した。1896年の廃線後は、一部(弟子屈・標茶間)が釧網本線として転用されている。

過酷な労働を強いられていた囚人たちは、その多くが作業中に命を落としているんだ。看守たちもそうだったと思う。明治時代の話だから、昭和初期のこの写真にある杭が彼らを悼む墓標ではないかということはあくまで僕の推測だけど、古い写真というのはなにが潜んでいるかわからないからね。拡大してみるといろんなものが見えてくる。

これもいい写真<※4>だよ。昭和初期の川湯温泉は、奥に見えるようなオンボロの家ばかりだった。そのうちホテルがどんどん建って、従業員たちがその家を借りて住んで、人口が増えていった。この雪が盛り上がっている地面の下には、ジャガイモやニンジンとか、野菜が入っているの。今で言う越冬野菜だね。

これ<※5>は1936年築、川湯温泉の駅舎。今も変わってないよね。この改札口は、駅舎と同じようにオンコ(イチイ)の木が使われている。オンコは腐りにくいけど固くて、組み立てるのは半端じゃなく難しい仕事だよ。駅舎も、当時であれだけ丸太をふんだんに使って設計したのは素晴らしいセンス。西森輝義と佐藤今朝夫という大工さん二人が、ああだこうだと言い合いながら、時には取っ組み合いの喧嘩もしつつ、腕を競って建てたそうだ。それぐらい気合いが入っていたんだろうな。二人とも小柄だけど筋骨隆々、当時の大工さんは材料さえあればなんでも作っていた。

当時の川湯温泉駅では、網走方面に向かう蒸気機関車の煙がものすごく元気よく上がってた。峠を上るから、グッグッグッと真っ黒い煙を噴いてね。


情熱を燃やしながら


僕も、仕事として硫黄山をバックに観光客の集合写真はいっぱい撮ったけれど、こんなふうに<※6>正装で家族写真を撮るというのは、なかなか珍しいよね。松葉の家族関係が良好だったんだろうね。憲二さんも、家庭内は常に穏やかだったと言っていた。ある日、家に憲兵が来て、父親と言い合いをしている様子を見たそうだ。戦時中、1941年〜1945年ごろは、カメラを持って外をうろうろするということが、はばかられたんだろう。

松葉が戦後、ほとんど写真を撮らなくなるのは、そういうことや、子どもたちが成長して撮りづらくなったということもあるだろう。勤務先のバス会社が統合されて自由がきかなくなったのも重なって、写真への情熱が途切れてしまったのではないか、と推測している。

松葉の長男の洋吉さんが1928年生まれ、長女の英子さんが1930年生まれ、次男の憲二さんが1933年生まれ、次女の百合子さんが1936年生まれ。松葉がめいっぱい川湯で撮影していた1930年から1945年ごろは、勤務先のバスを自由に使っていろんなところに行って、子どもたちも幼くてかわいくて、戦前の、撮影しやすい一番いい時代だったんだろうなあ。

松葉と僕の写真のスタイルはまったく違う。僕はプロとして主に大衆受けのする広告や雑誌向けに撮っていたけれど、彼は真逆。構図の作り込み方が、鳥取県の有名な写真家、植田正治(1913-2000年)にも似ているね。植田は白と黒のコントラストをうまく使い分ける写真家で、松葉の写真の魅力もそこにある。

松葉が撮影していた昭和初期に、どうやってあのようなくっきりとしたコントラストを出す現像ができたのか、未だに謎。僕は今83歳だけど、周りの同年代のカメラマンたちも皆、それに苦労してきた。なぜこの時代に、松葉はこれだけレベルの高い現像技術を持ち得たのか、疑問の大連続なんだよ。

僕が写真を始めた昭和30年代は、自ら現像液を作らなければならなかった。当然、松葉もそうしていたと思う。液を作って、現像して、画像を定着させて……と、ものすごい数の工程を経て、ようやくきれいなネガが出来上がる。並大抵の苦労じゃない。松葉はバスの運転手という仕事の傍ら、それをやっていたわけでしょう。

現像作業には電気が欠かせない。川湯に電気が引かれたのが1933年ころだけれど、わずか5ワットくらいのぼんやりした頼りない電気でね。それでも皆、大喜びしたそうだ。その弱い電力で、どうやって松葉があんなにも多くの写真をプリントできたのかが、わからない。とにかく半端じゃない写真への情熱を感じるね。

取材・執筆:中山芳子
撮影:松葉末吉、國分知貴

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