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Lil Uzi Vert「Eternal Atake」という特異点~2022年USヒップホップにおける場所と身体、モチーフ、幽霊について~

はじめに

ラップ・ミュージックにあったのは「わたし探し」という実存的な問いではなく、とりわけ強固なわたしを形作ることであった。しかし、ふとした瞬間に立ち現れる実存の叫び、その多くの場合に当てはまるニヒリズムは、現代のラップ・ミュージックまで引き継がれる本質的なものの一つとみなすことが出来るだろう。
またそうした方法は広く「エモラップ」によって大きく刷新されたが、それすら新たになりつつあると同時に、臨界点を迎えつつある。

ミレニアル世代からZ世代に至るまでの不安感、社会の持続可能性に懐疑的なもの、衰退論が広く取り立たされる中、大きな変革、ラディカルな正義の必要性は殊更に強調されてきた。またそういった「感覚」への対抗言説として、革命とその必要性、つまり世界の速さは統計学や経済学的な手法で否定されつつある。
そのいずれにしても誰もが憧れた世界の終わりが容易に訪れないということが、薄々実感を伴ってきている。

メンフィスを舞台にハスラーがラッパーになる過程を描いた映画「Hustle and Flow」で主人公のD Jayは、"いつの日か、このクソみたいな場所全てが無くなるんだ。このクラブ、この街、このアメリカ全体が、塵と化すんだ。そしてそこから全く新しい文明が誕生するんだ。"と歴史を一巡させるためのニヒルな希望を語った。

しかし今日のラップ・ミュージックにおいて、この漸近的な、あるいはもはや途切れてしまった歴史の円環は、極めて個人史的な終末論で、熱狂を帯びたノンモラルで無理やり繋ぎ合わされた。それは決して円環を巡らせる方法ではない。ただ一刻も早く、「コレ」を終わらせる方法だ。
アナーキズムに共産主義等々における文学的希望、アメリカの力で作り上げられる文化的希望、回心や内省のアイデアによる宗教的希望、あるいは前述の実際的希望に対する「彼ら」の応答はただ一つ、“だからなんだと言うのか。”それらは生の退屈、人生におけるぼんやりとした不安にはさほど対応していない。
そしてこの新たな、絶望的な「パンク」は、「革命」でも「反抗」でも「乗り越え」でもない。「ユートピア」でも「ディストピア」でもない。とにかく明日を夢見ないこと。今を消費しきること。

そんな諦念と気分変調症を熱狂的なノンモラルで引き受けたのがRAP TO INSTRUMENTALの体現者たるアトランタ出身のラッパー、Playboi Cartiである。例えば彼のアルバム「Whole Lotta Red」では、シンセサイザーの過剰と複雑なハイハット、808による唸る低音という「不自然」をベイビーボイスと特異な発声によって増幅させ、雑多なアドリブと陳腐なリフレイン、フィクショナルなペルソナの中に身体を隠した。
拝金主義者であり、過剰な情欲があり、殺人中毒者であり、リーン中毒者であり、“アベレージなんていらない”とのたまいながら決して満たされないニヒリストである彼の実存は、それらの方法によってメタレベルで隠されている。
ゆえに “銃なしではどこにも行けない”、“この場所から抜け出せない”、“俺は変われない”など語られる不安と苦しみ、音楽業界に対する疑念や愛の萌芽は、自己破滅的なロックスター像によって破壊されながら、次の瞬間には辺りをたゆたう記号になっていく。

またあえて言葉を追うと、数秒の耐え難い沈黙の後に始まる「Place」では、ザナックスの副作用に絡め、“自分の顔を感じることができない“とスピットする。
彼の双極性を表す「ILoveUIHateU」でも、リーンの製造工程にかけて“死の床に転がるまで、全ての問題とプロメタジンを混ぜ合わせる”とニヒルで無鉄砲な詩を紡いでいく。
そこから「Not Playing」において、“嘘はつけない。人生は素晴らしい。”、“俺はもうこれ以上演じない“と宣言しつつ、アウトロの「F33l Lik3 Dyin」では、”俺は偉大なオールスターの一人だ。落ちることはできない。堂々と立つ。追い詰められている。全てにファックだ。死にたい気分だ。“と破滅的な詩で終わらせる。(ここで”いっそ死んでしまいたい気分だ“などと訳すのは不適だろう。彼の死への欲動は、もはや後ろめたさを孕んでいない。)

分裂したアメリカの産物であるヒップホップは、総体としてのみならず、個を、つまり身体を、一人称を分裂させる。ラッパーの身体は引き裂かれ、詠われ、秘匿されてきた。(それはDrakeを起点にさらに増幅している。)
いずれにしても中庸を失い、感情のアンプ的性質に歯止めが効かないラップ・ミュージックに、その世代に色濃くなった双極的な不安感は強く共鳴するだろう。Carti自身も「Die4Guy」において、“俺はお前の兄弟だ“と彼をカルト的に愛するリスナーにシンパシーを感じている。

もちろんこれらエモとノンモラルの統合、快楽主義的ニヒリズム、個人史的にありながら普遍的であること、つまり時代や世代に対する迎合性を2020年代風の方法とするのは尚早であり、そもそも現代において同ジャンルであれプロダクションを超えた方法を総体として語るのは偶然性を無視した恣意的なナラティブ化に他ならないが、「Whole Lotta Red」と同年にリリースされたLil Uzi Vert「Eternal Atake」の方法を合わせて検討していくと、場所、身体、モチーフという三つの要素から2022年の作品をそれぞれ位置づけていくことが可能になる。

またここでは便宜上、創作の動機という意味を超えて、素材、テーマ、そして作者という要素を繋ぐために導入される概念を「モチーフ」とする。ラップ・ミュージックの方法に倣えば、アルバムという単位を作品概念として引き受けた際、それを通して行われるワードプレイと換言してもいい。(ただその概念も作品を容易にナラティブ化し、粗雑さをも根拠づけうる。ゆえにそれを批評のスケールとするにあたっては、強く警戒しなければならない概念でもあるが。)

Lil Uzi Vert「Eternal Atake」

Lil Uzi VertはPlayboi Cartiと並べ語られることが多いラッパーである。サウンドもさることながら、あらゆる意味で非革新的な消費主義的リリックと主にフックで挿入される押韻をさほど気にしないリフレイン等々もそうだ。(Complexでは彼を“気取りもギミックもないラッパー“として悪意なく紹介している。)

またCartiのベイビーボイスと同じように、Lil Uzi Vertのオートチューンやファストフロウも身体を隠ように機能している。
(声に対するエフェクトとして使用される)オートチューンは、マーク・フィッシャーが欠点を消去する不自然な自己強化として、またそれに伴う消費主義者や快楽主義者における倒錯的な正常性として引き受けているように、脱身体的でありながら、かつ倒錯的に非享楽的でもありうる。

ゆえに二人の間を大きく隔てるのはエモラップ的要素とその方法だろう。ギャングスタ的、つまり場所における死や暴力に対する不安を口にするPlayboi Cartiに対し、Lil Uzi Vertは往々にして卑近で普遍的な不安を物語る。
つまり両者ともに身体は隠されているが、Lil Uzi Vertにはおよそ場所がない。そしてその場所を宇宙に見出したのが「Eternal Atake」の特異性である。

その意味で、Lil Uzi Vertにおける宇宙というモチーフは決定的だ。(宇宙というモチーフそれ自体はさほど珍しくはないが。)
まず「Eternal Atake」にあるのは物質の過剰である。そしてそれに反する欠乏である。
こうした喪失の感覚、退屈の第二形式はヒップホップにおいて特に盛んな形式であり、再びマーク・フィッシャーにおいて、“ドレイクとカニエ・ウエストはどちらも、度を越した富にまみれた快楽主義の核にある悲惨な空虚さを探求することに、ぞっとするほど病的に執着している”と語られる。
フェルナンド・ペソアにおいて”ああ 僕であるまま おまえになることができたなら!“と語られるようなジレンマは、(ヒップホップにおいて特に)素晴らしき物質の過剰によってさらに逃げ場を無くすことになる。

またこういった過剰による喪失のモデルは、SNS世代における情報の過剰による喪失の感覚、あまりに広く目が開かれてしまうことによって萌芽する不可能性から自身を匿うためのニヒリズムと通底している。私たちは計らずともパーティーに興じなければならず、過剰によって引き起こされる散漫な意識は退屈を少しも和らげず、このダイナミズムを御することなど出来ないというニヒルな感覚が広がっていく。

こうした未来への喪失感には多くノスタルジーという方法、もしくはパーティー憑在論という語に指摘されるように、古い形式をテクノロジーで分かりづらくすることで未来を夢見る方法がとられてきた。KanyeやDrakeにおける飽和による喪失は、「手に入れたあの時」に対する郷愁にもほど近い。そしてその快楽主義、飽和、夢が叶うことによる喪失の感覚は、未だ叶えることができぬ私たちの喪失をさらなる谷底に突き落とした。

ただLil Uzi Vert「Eternal Atake」のサウンド自体は未来志向にも聴こえる。
もちろんここで言う「未来」が七十年代のシンセサイザーによる実験性を引き継ぎ、”シンセサイザーがもはや未来を暗示することがなくなっている“としても、少なくともその感覚においては、よりフューチャリスティックなサウンドであると言っても良いだろう。
例えばサイモン・レイノルズもこうしたトラップ・ミュージックにはメランコリーなノスタルジー、Vaporwaveのような憑在論的なものをおよそ認めていない。

トラップ・ミュージック本来的な「場所」を喪失し、不自然が多様な方法で高められながら「身体」を喪失し、反革新的でありながら未来志向であり、過剰と喪失が交互に語られるLil Uzi Vert「Eternal Atake」において、自然ながら超自然的な、何にもまして在りながら意識のうちに存在しないような、欠乏しながら過剰でありうるような、数多くのアンビバレンスを孕んだ宇宙という「モチーフ」は、決定的だ。

では実際に、この作品における宇宙というモチーフに対するアプローチを見ていこう。「Eternal Atake」という語の意味は「永遠に追い越すこと」であるとUzi自身が説明しているが、序盤はジュエリーやスポーツカー、ファッションアイテムを絡めた消費主義とマチズモに溢れるボースティングといった反革新的、ノンモラル的リリックである。ただ彼は常に何か(おそらくUFO)から逃げ続けており、「POP」でついに誘拐され、「Homecoming」で解放される。

そこから「I’m Sorry」ではガールフレンドに対する謝罪とそれに伴って“何もかもが最悪だ“、”こんなの計画外だ“とエモラップ的展開をみせる。またここでも宇宙のモチーフは引き継がれており、UFOから解放されたは良いものの、“俺はいまハイすぎて着地できない “と物質の過剰とドラッグの作用による超現実を宇宙の「高さ」にかけて表現する。
さらに“人生の全ては書かれている“と決定論的なニヒリズムと拝金主義が乱立しながら紡がれるバースは、”俺の人生には欠陥がある“、“俺は不運だ“とまさに実存のジレンマが惹起し、”彼女は俺の存在から追放だ“と今度はUziがガールフレンドを解放する。

続く「Celebration Station」では、ファストフロウと過剰なライフスタイルをかけて“俺はゆっくり出来ない”と否定的なニュアンスを含みつつ表現し、未だ地球には帰れていない。

哀愁漂うコーラスとアコースティックギターを背に“俺は何百万ドルも稼いだんだから、何も考えることは無い“と宣言する「Bigger Than Life」では自責の念が悲痛に語られ、宇宙にかけて“俺はSpaceを使い切ってしまった“と装飾品を身体中に身に着けることを”ロックスターゴール“とする彼には悲壮感を感じざるをえないだろう。(これも過剰による喪失のメタファーだ。)

そこから物質主義を根拠づける周囲の人間に対する不信感を口にする彼は、ボタンを押してついに“暗闇の世界“、つまり宇宙を抜け出す。
そうして彼は“火星人”のガールフレンドを、彼のスタイルを模倣する他のラッパーにディスを飛ばしながら“俺は宇宙から来たんだ”とラップする。
このラインは他のラッパーに対するマウンティングにも、“俺はビッチもあいつらも信じない”とする彼の疎外感にもかかっている。

そして「Secure the Bag」において“分からないんだ。理解しようとしてるけど、何も意味をなさない。このアルバムをドロップすること、それが全てだ。”と語られながら幕を開けるアウトロの「P2」では、“俺は大丈夫だ。俺の金は大丈夫だ。”とラップする。
しかしそこで語られるのは恋愛関係の不和であり、仲間の喪失であり、拝金主義の弊害、過剰による感覚の欠乏(“money make me numb”)である。
“俺の人生は長い1日みたいだ。俺はただこの瞬間を生きている。”

宇宙は過剰、疎外、欠乏でありながら、ユートピアでありうる。なぜなら宇宙は今日まで引き継がれる何か、例えば場所、それに伴う身体を、切り離すことが出来るからだ。
ゆえにLil Uzi Vertにおいて宇宙は引き裂かれた身体を、実存的なジレンマを引き受ける場所であり、倒錯的に郷愁が立ち現れる場所となった。
しかし彼は過剰に浴することの出来た、疎外を動機づけ、正当化することの出来た宇宙から解放されてしまった。

このアイデンティティ意識も階級意識もほとんど見られない極めて個人的な作品には、「些事」に苦しむ私たちと直接の共時性が表れている。例えば観念としてある戦争より、実際的な平和が苦しいという状態を否定できないほどに。

先述の「Whole Lotta Red」においてもそういった小さな(それゆえに大きな)苦しみは多く見られる。詳細な説明はないが、ローリングストーンはこの作品を“「吸血鬼ノスフェラトゥ」に対するZ世代の回答”と結論づけている。
しかし、「吸血鬼ノスフェラトゥ」においてホラー映画らしからぬ鮮明な映像技術によってなされた吸血鬼像は、Cartiが導入する身体にモヤのかかった吸血鬼像とは異なる。
つまりCartiは煙となった吸血鬼の塵芥を纏い、日の光で消滅できなかったことを嘆いているのである。それは動的なもの、希望的なもの(終わり、死さえも)を失った私たちにも繋がっていく。

Lil PeepやXXXTENTACIONに代表されるサウンドクラウド・エラの主題はメンタルヘルスのその先であり、ドラマティックなものを失った「今ここ」が、いつ終わってくれるのかである。
そしてそれが容易に終わりえないことが分かりつつある(殺される心配が大きくない限りでの)今日的なラップ・ミュージックでは、場所と身体を強く見せ、共同体的にあった段階から、実際の姿をそのまま表現する個人史的な段階を踏み、逃れられないものからどう逃れるかというアイデアが(モチーフによって)模索されている。

「Eternal Atake」にしても「Whole Lotta Red」にしても、広くポストヒューマニズム的な思想傾向が見られるのもそのためだ。
そういった地球の持続不可能性に、人生の苦しさに要請されるアイデアは、決定的なニヒリズムを孕んでいる。
「蛹から蝶」のような変化は、もはやなんの足しにもならない。隔絶された何処か、持続的でない何かでなければならない。(そしておそらく月に行くことも、変身することも、ジジェクが指摘する形で現実世界に統合されていくだろう。)

ただここでは2022年におけるそういった方法の残滓、もしくはそのもつれのような偶然をあえて糾っていこう。

Kendrick Lamar「Mr. Morale & the Big Steppers」、JID「The Forever Story」、redveil「learn 2 swim」

モチーフの扱いという点でまず語らなければならないのは、コンプトン出身のKendrick Lamarだろう。Kendrickは回心、性愛、ジャズ、アフリカ等々あらゆるモチーフを駆使し、ナイーブな救済の形を模索してきた。
そして「Mr. Morale & the Big Steppers」では、自己破壊的な狂気、ギャングスター像をメタ的に引き受け、その全てに神の栄光を示そうとした「DAMN.」のテーマを引き継ぐためのモチーフとして、ブラックジーザスを打ち立てる。
それは拳銃をポケットに据え、ダイヤであしらわれた茨冠を被った、全てのヒップホップ的矛盾を引き受ける冒涜的なキリスト像であった。

換言すれば、「Mr. Morale & the Big Steppers」は精神分析という基礎構造とブラックジーザスというモチーフが無ければ、矛盾だらけの”私たちを困惑させることを楽しんでいる作品”に過ぎない。またそれがあったとしても、私たちはナイーブでダイナミックなモチーフを建立させるKendrickに翻弄されてしまう。
その事実全てを包含してもなお傷一つ付かないブラックジーザスというモチーフは少々狡くもあるが、決定的だろう。

また今作はサウンドにおいてもリリックにおいても「場所」はさほど問題にされていない。今作は「場所」によって「身体」が引き裂かれた後であり、それを「DAMN.」より明瞭なモチーフをもってして、荒々しい繋ぎ目をそのままに接合させることに奮起している。またそれはエックハルト・トールの先導による他者性に対する接合でもあり、エゴイズムの否定でもありうる。
しかしそこから再びエゴを獲得するようにして“I choose me, I'm sorry”と自由に紡がれていく。

この生々しいアンビバレンスの結合部をなぞっていくと、実存のジレンマがいかに厄介なものであるかが悲痛に感じられる。
ともかく私たちは、殉教することを選ばなかったKendrickを祝福すべきだろう。

アトランタ出身のJIDもKendrickにも負けず劣らず巧みにモチーフを扱っている。今作「The Forever Story」は、自らのリアリズムが感得せざるを得ない不可能性、「Never」という概念をアルバムを通して扱った「The Never Story」を引き継ぐ作品である。

ここでは「Forever」という概念を導入し、引き継がれるもの、永続していくものを良し悪しの区別なくラップしていく。
暴力、拝金主義、人種差別という負の「Forever」、ラップをすること、家族愛という正の「Forever」の間を取り持つため、双極的なヒップホップ的方法を“踏み込みすぎない方法を見つける“として一部否定し、愛と少々のニヒリズムを救済とするストーリー展開は誠実なリアリストたるJIDらしい作品だ。


またメリーランド出身のredveil「learn 2 swim」も「水の中を泳ぐこと」というモチーフを多義的に用いた作品である。水面と内省、水流と変化、座礁と失敗、向かい波と階級/人種差別、ダイビングと覚悟…。ティーンらしさと大人びた態度が同居する素晴らしい作品だ。しかし彼の真価が問われるのは、豊かで実りある闘争を失った時だろう。もがき続けた海の底に、不意に足がついてしまった時だろう。


Yung Kayo「DFTK」

Lil Uzi Vertと直接の関係性を持つワシントンD.C.出身のYung Kayoによる「DFTK」は、まさに今日的だ。
ファッションブランドが羅列された享楽的なリリックは身体を強烈に意識させるが、「Eternal Atake」/「Whole Lotta Red」的方法に加え、不規則にミキシングされた機械的な声によっても身体はほとんど隠されている。

ただ「no sense」で Kayoは引き裂かれたことに自覚的になり、失った身体を探す旅に出る。“意味をなさない” “俺が生きている人生なんて存在しない”と語りながら双極的なリリックを経て、“チェーンが重くて俺は押さえつけられていた”と拝金主義への疑念を語る。

それらを振り切ったように、半ば受け入れたように進行する「it’s a monday」では、“彼女は大文字で俺の名前を書く。全ては資本だ。俺たちは首都から来たんだ。”と日本のファッションブランドKapitalにかけつつCapitalを多義的に用いながら語る。

そしてタフなリリックによる差異化の果てで、自分自身に語りかけるように、
“俺を手放さないでくれ。俺は風の中で間違いなく迷子になってしまったんだ。俺は自分自身を感じられない。危機を超えた気がしているんだ。“と過剰なエフェクトがかかったオートチューンで物語を終わらせる。

この作品は身体を失った段階から根源的な「わたし探し」に回帰させられていくような、いわばラップ的個人史の円環をなぞるような構成も含め、あらゆる意味で今日的であった。

Conway the Machine「God Don't Make Mistakes」、Roc Marciano and The Alchemist「The Elephant Man's Bones」、Ka「Languish Arts/Woeful Studies」

こうした内に向かうラップ・ミュージックは、ハードコアなヒップホップにもコンセプチュアルな意識をもたらした。
その一大成果が現行ブーンバップにおける最重要人物、NY バッファローのConway the Machineによる「God Don't Make Mistakes」だ。

ここでの主題はPTSDによる暴力と拝金主義であり、例えば「Tear Gas」という楽曲では、まさに催涙ガスのように目に見えないものに涙を飲むことになるConwayの苦しみが迫真性を持って語られる。フッド、場所への愛憎がヒップホップの伝統を踏襲する形で現前していく中で、無神論者であるConwayはキリストを蹴落とし、自らを神とする。

そこからThe Alchemistプロデュースの表題曲「God Don’t Make Mistakes」に入っていくのであるが、ここではPTSD、銃撃によって麻痺した顔面、息子を失ったという事実を引き受けることを拒むようにして弱々しい“What if”が吐露される。
“時々俺は考える。俺はストリートで上手くやれるのか?それともストリートは俺を連れ去っちまうのか?俺はストリートに潰されちまうのか?“

そうでなかったかもしれないものたちが背後にひしめく中で、私たちは現前されてしまったものを歩まなければならないのだ。


NYアンダーグラウンドシーンのレジェンドRoc MarcianoとカルフォルニアのレジェンドプロデューサーThe Alchemistの二人が手を組んだ「The Elephant Man's Bones」も素晴らしい完成度の作品だった。

どの楽曲もヒップホップを愛する者なら誰もが唸るようなビートでボースティングを続けるのであるが、ミニマリストRoc Marcianoのプロデューサーキャリアの代名詞とも言える、ソウルフルなヴォーカルループに微かなドラムを乗せるビートメイクをAlchemistが美しい鍵盤を混じえながら再現した表題曲「The Elephant Man's Bones」では、内省的なアイデアも数多く綴られる。

そしてハードコアで時折ユーモラスなリリックをしたためるMarcianoは、アウトロの「Think Big」でNYのレジェントThe Notorious B.I.G.との対話を試みる。(Kendrickが「Mortal Man」で2Pacと対話したように!)
“俺は霊媒を通さずにB.I.Gとチャネリングしてるんだ”と語るMarcianoは、
“俺はここにいる。俺はどこにでもいる。“と叫ぶBiggieに対し、
“あなたは俺と共にいるのか?ずっと共にあるか、そうでないかだ。”と返答する。

Marcianoは「ここ」では無いどこかにいながら今も「ここ」に、未だ世界中あらゆる場所に在り続けるBiggieと共にあり、共にはないのだ。
この微妙な感覚が、他者の個を、生を奪いかねない憧れや重ね合わせを超える「レペゼン」に他ならないだろう。


またAlchemistが発展させた「ドラムレス」は、今日でこそアブストラクト/エクスペリメンタル・ヒップホップを巻き込んでいったが、それらを胚胎させたのはハードコアなラップのみではない。その意味でKaはMarcianoと対をなすようなラッパーだろう。NYブルックリン出身のKaは、真に階級意識の高いラッパーだ。

二枚組の今作「Languish Arts/Woeful Studies」でも、
“貧しさを勲章として身に着ける新しさ”
“俺は愚鈍な奴じゃない。意味をなそうともしないし、ドルを積み上げようともしない。しかし、俺は死に物狂いで主張するんだ。“と力強く語る。

しかし理性的に生まれてしまったKaの物語は悲劇だ。
「Languish Arts」は、“内心では生き残ろうとしてるけど、彼はそんな設計にはなっていない。前頭葉を制御しようとしたけど、心の奥底では分かっていた。”
“巨人に抵抗して戦ったけど、リリパット(ガリバー旅行記における小人の国、ここではアメリカの蔑称として)には勝てない。”とスピットする。

まさに“苦しみのみから作られた”今作は、“1日の終わりを飾るような作品では決してない“。

billy woods「Aethiopes」、 Vince Staples「Ramona Park Broke My Heart」

NYアンダーグラウンドシーンの重鎮であるbilly woodsによる「Aethiopes」は、歴史に残る傑作だろう。
今作ではPreservationの古典的なビートメイキング・マナーを守ったクリエイティビティ溢れる態度が可能にした前衛的なミニマルループに乗せ、billy woodsが過去を行きずりながらポストコロニアリズムを主題に物語を展開していく。

ただここでのwoodsはありとあらゆる過剰な引用を駆使し、また自身と重ね合わせることによって場所も他者性も有耶無耶にしてしまう。それこそまさに植民地主義的な態度ではないだろうか?
しかし「Aethiopes」では、作品においての主体、支配者であるbilly woodsの無力が鮮明に描かれることによってそのアイデアは否定されることとなる。

革命的なアイデアに乏しい今作においてwoodsは活動家でも革命家でもなく、徹底的に傍観者である。アイロニーとユーモアで権力に立ち向かった気になっている小市民である。
しかしwoodsのユーモアは「夜と霧」で語られるような生きんがための意志を持った気高き「まやかし」である。手も足も出ない権力構造に対する諦念を引き受けるユーモアである。
政治的な表現にはこうしたアイロニーやユーモアが多く用いられてきた。クライス・マーカーによる箴言、“ユーモアとは絶望の礼儀である“。

そのニヒルな世界認知において、woodsはあらゆる権力関係に皮肉を飛ばしたのち、「Remorseless」に抑えきれなかった、ままならぬ身体が立ち現れることとなってしまった。
woodsは煽動的で吐き捨てるようなフロウで露わになる身体を、他者の介在によって能動的に隠していたのだ。革命家billy woodsというペルソナは、身体を隠す必要があったのだ。シニカルな傍観者でいる強かさを容易に引き受けられないのだ。

そのことを根拠づけるように「Remorseless」では、“Dollar Treeの休憩室でトランプをしていたら、壁には万引き防止のポスターが貼ってあった“、“軌道上から惑星を眺めていた”などと自身が植民地主義的な関係性を温存する資本主義に取り組まれていることを真摯に振り返りつつ、“俺を救ってくれ“、“マルクス主義者の刻印を俺に与えてくれ”と悲痛に語られる。

内に向かうラップ・ミュージックにおいてもはや不可欠のものとなった内省、つまり他者/対象としての「私」がおよそ存在しないままに物語を展開させながら、物語ること全てを破壊せんとする対象たりえない「私」がここで惹起してくる。

こうして資本主義リアリズムと決定論の前に何も出来なかったwoodsは人間性を奪われ、美術館で獣の剥製のように鑑賞される。そしてそういった現代まで引き継がれる支配の痕跡を笑えるか否かという問いに、最後のアイロニーを、「抵抗」を示すのであった。

このか弱く気高き作品は、神の無慈悲は、根拠の届かぬ、ままならぬ何かに私たちを再び引き合わせる苦々しき芸術の場である。


またbilly woods「Aethiopes」と同日にリリースされたロングビーチ出身のVince Staples「Ramona Park Broke My Heart」というもう一つの絶望は、場所が前面に押し上げられることによって身体が崩壊していくストーリーだ。
今作はエレクトロニックなDTMサウンドを離れ、ウェッサイのメロウなサウンドに、ギャングカルチャーや多くのOGの引用など、場所が強く刻印されている。

サウンドの浮遊感、メロディアスなフロウ、しかしどこかぶっきらぼうな発声に表れる情感は、ここでは無いどこかに行くことを、真に動的な何かを否定する。
そしてギャングカルチャーへの疑念、暴力への懐疑、システムを温存する資本への対抗心などの上昇的なアイデアの萌芽を狂気的な歓声/銃声が響く「場所」は完璧に摘みとり、キャリアを通して模索してきた愛の在り処を金とギャングカルチャーに捧げる悲劇的な末路を迎えることになる。

ただここで改めて語らなければならないのは、Vince Staplesの成功、狂気、場所、それらが一切の偶然にあるということだ。
彼の誇張され、拡張された「ホーム」概念は、「MAGIC」という楽曲の含蓄は、ロールズにおいて正義のために必要な偶然、つまりそうでありえたことへの想像力を引き起こさせる。それはメイヤスーにおいて世界がそうである必然性が一切存在しない事実によって、「今ここ」を終わらせるように働きうる偶然でもある。

この二作品は全く異なる仕方で正義と無力感、私と私であったかもしれないもの、そういった幽霊と二重にありながら決定的に在る「私」との狭間で揺れ動く不安を掻き立てるものであった。

billy woods「Church」

ここまでは前述の2020年風ラップミュージックの雰囲気を根拠づけ、正当なものとするようなあり方の作品であるが、私たちが目を背けてある可能性が未だ残されている。

「Church」の主題は無神論と反宗教だ。あらゆる権力構造に皮肉を飛ばしてきたwoodsは、ラップ・ミュージックがおよそ手をつけてこなかった、もしくはアンビバレンスな感情を宙吊りにしていた下からの権力構造である宗教、そのモチーフとしての「教会」と、ここでは怠惰と厭世の象徴としてある「大麻」を軸に物語を紡いでいく。また今作におけるwoodsの性愛のメタファーは婚姻/不倫関係と交わりながら希望的に機能している。
Messiah Musikによるカバーアートに表れる錆び付いた鉄筋をなぞるような質感を持ったビートに無感情に響かせるコーラスが廃墟を思わせるようにある中で、ここでのwoodsは強かだ。

冒頭の「Paraquat」では、“俺は宗教を見つけた。俺が預言者だ。“、”正しいことを言う“と宣言しながら、大麻の除去剤にかけて“神の恩寵によって、誰も彼もが捕まった“と力強く繰り返す。
そこからイスラム教教義とその伝道者に対して皮肉を飛ばし、“俺はそれを尊重しない“、“なぁ、俺に朝飯を食わせてくれよ”と続ける。
また原爆を引き合いに死への欲動を語りながら、自身の死を歓喜し、“前はない、後だけだ”と自らが預言者であることにかけて新たな紀元を主張する冒涜的なラインで終わらせる。

続く「Artichoke」でも、
“正気を取り戻すチャンスだ“と語りながら、地下室の暗い教会で「花嫁」を待っている私たちを婉曲に批判する。そしてそういった態度を”ブラック・コード(黒人の自由を制限するために制定された法)のように動く“としてさらなる皮肉を飛ばす。(背後で「大麻」は伸びていく…)

そこからホモフォビアを持つラッパーを一蹴、“全てが壊れ、バラバラになった。火はとうに燃え尽きて、ここにあるのは煙と灰だけだ。“とニヒルな世界認知は引き継がれつつも、”科学は明確/不思議だ“と確かなものを手繰り寄せていく。

また消費主義という権力構造に対する反抗心を示したところで「Fever Grass」では、“パワー(電気、権力)を切れば、俺は暗闇の中でも生きていける“
“ノアの方舟に乗った奴らを尻目に月光の下で踊る”と、洪水で溺れ死ぬとしても権力に一切与しない覚悟が力強く語られる。

続けてキリスト教における男尊女卑的な構造を描写し、美しいピアノサンプルが挿入された「Classical Music」において、
“粉々になるまで88個の鍵盤を引き続けた。幽霊を追え。”と叫び、woodsは自分の手をピアノの手、なんてもったいない!と言った「彼女」のピアノの演奏に神を見るのだが、“俺は自分の道を見つけることができなかった。それはいつも同じで、俺は信仰を全く持っていなかった。”
“何もかもを流してしまったが、自分自身を煙に巻くことはできなかった。俺はそれを神に投げつけたんだ。“と信仰しえぬ窮屈な実存がここでも顔を出している。

そこから「Schism」では自由に自分を語りつつ、ラップゲームに異議を唱える。
“お前のぎこちない詩、そして俺の詩には「ホーム」が必要かもしれない。
お前らの好きなラッパーは、殺人を犯してまだギャングだと主張する。その敵はそいつを捕まえて殺す。
神は死者を祝福するが、俺たちはキング牧師について何も話していない。
お前らはやり過ぎだ。お前らは何でもやったんだ。
王冠を手にするまでは悔やんでいた。飛行機が着陸するまで、俺は窮屈だった。「俺はずっと正しかった!」と観衆に言ったんだ。“
woodsが今作の冒頭で手放した場所は、こうして自らの言葉で語るために必要になってくるのだろう。

そして“天地を創造された全能の神よ、今お頼み申し上げます。この建物の中のすべての悪魔の力を打ち砕いてください。主よ、弱き私たちは負けていない!”と信心深い言葉が挿入されながら幕を開ける「Pollo Rico」は今作のクライマックだ。
“「コレ」は最初のセックス(the jump)から壊れていた。誰が何をしたかなんてどうでもいいことだ。”と語るwoodsは、友人の見舞いに“天国には女しかいないことを願ってるよ“とユーモアを込めて弔いの言葉を口にする。
それは一切の対象を持たない、つまり権威に与しない純粋なる祈りであった。そして計らずも厭世の極地に至った、まもなく世界を後にするであろう友人に「大麻」を送るのであった。
続けて「教会」無き場所で忘れられた革命の犠牲を悲痛に語るwoodsは、最後に"天国には愛しかないといいな"と締めくくり、ここからユーモアとアイロニーを放棄しながらさらなる死者を弔っていく。

ゆえに「All Jokes Aside」である。
そこでは“ステージの上でしゃがんでいる。与えた以上のものを奪ったことがないことを願いながら。”
“冗談は置いておいて、俺は旅を楽しんだ。仲間に会いたい。「教会」に連れて行って、空へ打ち上げた。“と語りながら、“俺たちはイケてるか?イエスかノーならノーだろうな。そういう時代だ。”と大きな物語を失った現代を噛み締める。
そうして“「彼女」は逝ってしまった”と空へ向けて何度も嘆くのであった。

アウトロの「Magdalene」では、生気を取り戻したコーラスの上で、不倫関係にある女性をボーイフレンドから取り戻すため、「幽霊」だらけの車に乗り、“俺の運命”とされる「GPS」をそのままに、押し寄せる草木と狭まっていく道に車体を揺しながら、“疑念と疑問は音を立てている。”
しかしそれは“逃走車につけられた空き缶(結婚に際し車にブリキの缶を結び、その音で悪霊を追い払うための風習)のように鳴る”。

woodsは目に見えない権力や死者への哀しみ、「Aethiopes」で語られる資本主義リアリズムといった幽霊を、決定論的にある狭き道を通りながら、思考によって追い払うのであった。

Earl Sweatshirt「Sick!」

そして最後に語らなければならないのは、Earl Sweatshirt「Sick!」だろう。

ダークで陰鬱な詩を紡いできたEarlは、パンデミックによって陰鬱にある世界に対して逆張りをした。というよりも、“このクソッタレにロマンを持たない自由がここにある。”という宣言に代表されるEarlは、今作においてニヒリズムというロマンチズムに逃げ込むことをしなかった。希望を救い上げた。
今作の散漫で洗練されたサウンドも、人生の複雑さと明るさを認めるようにしてある。

パンデミックさえ終わらせてくれなかった世界に対して“終焉の酒に乾杯できないでいる”とEarlは自嘲気味に言葉を送るが、アウトロの「Fire in the hole」(爆発するぞ!)という楽曲のタイトルには、何か大きな変化を求めるような心情を汲み取ってしまう。
ただ私たちはおそらくどこにも行けないし、誰にもなれない。

未だここに立っていなければならない私たちは、そうであった/そうであるかもしれないものへの想像力と、他でもない今ここにある「私」との間を抜ける光を手繰り、人生のうちに確かにある希望から目を逸らしてはならないのである。



2022年間ベスト(USHiphop)
billy woods「Aethiopes」
Vince Staples「Ramona Park Broke My Heart」
billy woods「Church」
Earl Sweatshirt「Sick!」
Kendrick Lamar「Mr. Morale & the Big Steppers」 Conway the Machine「God Don't Make Mistakes」 JID「The Forever Story」
Roc Marciano and The Alchemist「The Elephant Man's Bones」
redveil「learn 2 swim」
Pusha T「It's Almost Dry」
Denzel Curry「Melt My Eyez See Your Future」
MAVI「Laughing so Hard, it Hurts」
Leikeli47「Shape Up」
Quelle Chris「Deathfame」
Danger Mouse&Black Thought「Cheat Codes」
Nas「King's Disease III」
Joey Bada$$「2000」
Yung Kayo「DFTK」
Open Mike Eagle「Component System with the Auto Reverse」
Ka「Languish Arts/Woeful Studies」

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