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院内巡回

斎藤悟郎にとって、入院は初めての経験だった。

健康診断で見つかった悪性リンパ腫の治療のための入院生活もそろそろ3週間になり、病室の窓から見える雪が少しづつ溶けてきたころ、主治医からそろそろ退院の話も出てきた。

この入院生活を経験して悟郎に現れた変化、それはさまざまな物事に対する「感謝」をあらためて感じたことだった。

抗がん剤を投与していると食欲が減る。大好きな白米を食べるのにも体力を要したが、それでも食べるとしっかり元気が出るのを健康な時以上に感じた。慌ただしい日々のなかでそういったことに意識を向ける余裕がなかったが、1日3食しっかり食べれるということにありがたい気持ちを感じたのである。

ひな祭りの日には折り紙の雛人形を貼り付けたメッセージカードが配られた。これも社会の喧騒から一歩離れたことによって余裕が出来たからだろうか、それとも単に病気で心が弱っているからだろうか、手書きで「早く良くなりますように」と書かれているのを見て、悟郎は思わず涙を流してしまった。普段なら気に留めないような何気ない気遣いでも、まるで砂漠に滴り落ちた水滴のようにスッと心に染み渡るのであった。

感謝と言えばとりわけ感じるのは看護士の方々の手厚いサポートだ。点滴や採血などの患者の命に関わる様なことから、トイレの介助、食事の配膳、お茶汲みまで…それらを嫌な顔せひとつせず、むしろ気持ちの良い笑顔でこなす看護師たちに、これが仕事というものだというプロの凄みを感じたものである。

当たり前かもしれないが看護士は夜勤もこなす。21時の消灯以降、患者が寝てようが起きてようが2時間に一回懐中電灯を持って巡回にくる。

悟郎は視力が悪く寝ている時はメガネを外していたのでどの看護師が来たかまでは分からないけれど、何度か病室の扉がスッと開く気配で目を覚ましてしまったことがある。
悟郎の病状としてはこれといって自覚症状がなくピンピンと元気だったので、こまめに行われる見回りに対して「そこまでしなくても」と思っていた。

が、抗がん剤の投与が始まってからは寝ている間に点滴が外れないかという不安を感じていたし、何より抗がん剤の副作用に心毒性といったものもあるのでこれらを巡回の際に確認してくれるということに対しても感謝を感じていた。

抗がん剤の副作用といえば、膀胱炎なんていうのもある。これを回避するため日頃より水を多めに摂取し、尿をたくさん出すようにと主治医から念を押されていた。もともと1日に数回しかトイレに行かなかった悟郎だったが、しっかり主治医の言うことをきき、暇さえあれば水を飲む様にするとトイレに行く回数が普段に比べて3倍くらいになってしまった。そうなると必然的に就寝中も尿意で数回目が覚めるようになってしまった。

その日もまた尿意を感じて覚醒した。

物置がわりにベット横に置いたスツールからメガネを取ってかけるとぼやけた視界が一気にクリアになる。電灯は消していても、雪あかりがカーテンの隙間が入ってくるので部屋の中はぼんやりと明るい。目が覚めた時の感覚で結構な時間寝たような気がしたが、時計を見ると2時…起床時間の6時までまだ4時間もある。果たしてこれから一眠りできるかな、それともこのままスマホを弄りながら6時までコースか…などと考えながらトイレに向かうため病室のドアへ向かう。

横開き式のドアの取手に手を伸ばそうとした時、奇しくもその動作と同じタイミングでドアが横にスッと開きだすのを感じた。しまった、夜勤さんの巡回だ。ドアを開いた瞬間僕がすぐそばに立っていたら看護師さん、驚くだろうな…これはちょっと気まずいタイミングだななどと考えていたが、不思議なことに開きかけたドアは数センチ開いたところで停止し、それっきりだった。

目の前に存在しているのは看護師などではなかった。数センチだけ開いたドアの奥には果てしなく、まるで何処までも続くような暗影が広がっていた。

そして宙には二点、カッと見開いた眼が二つ浮かんでいた。

蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなった悟郎を、その眼はただじっと瞬きもせず漆黒の闇の中で見つめ続けるのであった。

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