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わかってもらわなくてもよかったのか!

皆さん、この動作学のアカウントで連載しているもう一つのマガジンの最新話、お読みになりましたか?

動作学を学ぶ仲間であるたむぅの気づきに、「ああ…」と私はため息を漏らしました。

”コミュニケーションのゴール(目的)は2人の納得解を生み出すこと” であり、”自分の言いたいことを伝えること” も大切ですが、それは手段でしかなかったはず。
いつのまにか、その手段が目的にすり替わってしまっていました!

私も手段が目的にすり替わってしまっていました!

何なら、このマガジンの目的も、「言いたいことを伝える」にすり替わっていました!

…見直しです。

メディアのコミュニケーションのゴールを考えてみた

はて、では、マガジンは何を目的にすればいいんだっけ?

コミュニケーションの基本で考えると、「2人の納得解を生み出すこと」になります。

ただ、メディアを介したコミュニケーションは、双方向の対面のコミュニケーションと同じにはできなさそうです。

そもそも“2人”じゃないし、何をもって“納得解”なのかもわかりにくいですし。

そこで真っ先に思い浮かんだのが、ペルソナマーケティングというマーケティングの理論です。

家族構成、学歴、職歴、趣味などまで、まるで実在するかのような具体的な架空の人物を設定して、その人(ペルソナ)に語りかけるという手法。

でも、このマガジンって、動作学をマーケティングしたくてやっているんだっけ?

いやいや、違う気がするな。

…答えは過去の自分が教えてくれました。

“動作学を知ってほしいだけでなく、体験してほしい” 

そう私は書いていました。

これを書いた後、私は「どうしたら体験してもらえるか?」と意識的に試行錯誤していたはずでした。

ところが期待していたような手応えがないものだから、「言いたいことが伝わってないんじゃないか?」と思い始め、結果「どうしたら伝わるか」にばかり意識がいくようになり、いつのまにかそれが目標にすり替わってしまっていたというカラクリが見えてきました。

でも、なんか世界ってすごいです。

↑で共有した過去投稿のタイトルを見て私は思ったのです。

“変わりたいなら、揺らぐのだ”

ここにヒントがあるじゃん!


動作学って、そもそも生命の仕組みの話だから、知ってようといまいとみんなもう生きているだけで動作学を体験しているとも言えるんです。

一番体感できるのは変化(進化)を経験することだと思いますが、変化というのはインプットを変えて、揺らぐことから始まるんですよね。

とすると、読者に何らかの新しいインプットがあれば、願わくば揺らぎを起こせれば、それだけでマガジンの目的を果たしていると考えてもいいんじゃないか?

結果として自分の状態が整った

ふと思い出したのは、以前、取材させていただいた禅寺のご住職のことです。

さすが禅僧とでもいいますか、取材はまるで禅問答。

「瞑想にはどんな効果があるでしょうか」と尋ねれば、「我々は目的や意味を求めることなく、ただ座るんです」。

「でも、何かしら変わることはありますよね?」と食い下がると、「どうでしょう…変わると言えば変わりますし、変わらないと言えば変わりません」。

そんなふうにのらりくらりとはぐらかさっぱなし。

でも、おかげで、私は自分がほしい答えをあらかじめ持っていた(つまりちっともニュートラルな視点で取材をしていない)ということを痛感させられたんです。

おそらく、ご住職は、意図的に答えを教えなかったのでしょう。

代わりに、違う視点を与えることで私を揺らがせ、いかに思い込みに捉われているかに自ら気づけるようにしたのだと思うんです。

マガジン、というか文章のコミュニケーションも、そこを目指せばいいのかも?

揺らぎを起こすにあたっては、必ずしも禅僧のようなトンチがなくたってかまわないはず。

それでいえば、わかってもらうどころか、混乱させてしまったとしてもいいとさえ思えてきます。

そう考えたら、すごくワクワクしてきました。

「読む人に何らかの揺らぎを起こす」が目的なら、「何をどう書いてもいいじゃん!」と心が広がる感じがしたのです。

自覚はなかったけれど、いつのまにか「何かが間違っているから伝わっていないのだ」と自分のやっていることを否定するようなマインドになっていて、縮こまって書いてしまっていたんでしょう。

でも、思い出しました。

自分が心地いい状態で書くことこそが、ともすれば何をどう書くか以上に大事だったのでした。

これは書くことだけでなく、すべてに通じること。

どんな状態(Being)で行動(Doing)をするかで、Having(得るもの=結果)がまったく違ってくるのです。

ああ、また一つ大きな詰まりが取れたような爽快な気分。

ようやく本当に、今度こそ本当に、自分から出てきたものをそのまま素直に表現することができる気がしてきましたが、果たしてどうでしょう?