中東問題を考える〜歴史編①〜
一神教の起源
アクエンアテンの宗教改革
一神教であるユダヤ教が生まれるきっかけとなったのは、ツタンカーメンの父であるアクエンアテンの宗教改革による。
それまでエジプトはアメン神を祀っていたが、それにより神々に声を聴く神官の権力が増大してしまった。
そこに手を打ったのがアクエンアテンである。
彼はアテン神を唯一絶対の神とした。
当然、そこに自分を重ねた。
そして首都も動かし、既得権益をぶっ壊した。
だが、既得権益を失なった神官団も黙ってはいない。
絶対王を暗殺し、歴史上からも抹殺してしまった。
そして残された絶対王の幼児をツタンカーテン(アテン神)をツタンカーメン(アメン神)に改名させた。
ユダヤ教の成立
この一連の宗教改革でアクエンアテンを手助けした人たちがいる。
そう、後々ユダヤ人と呼ばれる人たちである。
このアマルナ事件から100年と経たずして起こったのが「モーセ」の「出エジプト記」であるらしい。
歴史上、痛めつけられてきた彼らはモーセの指示に従って苦難を浴びたエジプトを脱出するのである。
ただ、モーセはシナイ半島を彷徨い、約束の地カナンに着くのはなるか先のことであった。
アクエンアテンの宗教改革を経験し、辛苦の時代を乗り越えた流浪の民が作った宗教がユダヤ教である。
世界3大宗教にして、他の2教の根本になっているある種、トップオブザレギオンと言えなくもない。
ユダヤ人の迫害の歴史(有史以降)
ユダヤ教徒は離散の民と呼ばれる。
歴史上、何度もディアスポラと言って排斥されてきたからだ。
下記はAD以降のディアスポラの主な例である。
BC時代にはバビロン捕囚などがあるが省略する。
第1次ユダヤ戦争(AD66〜73)
ローマ帝国の侵攻によりエルサレムが陥落する。
ここにディアスポラが始まった。
しかし、民族が全て離散したわけではなく大多数は残ったともされる。
そこから長期間一市民としてキリスト教徒やイスラム教徒と普通に暮らしていたようである。
ただ、国を失ったことは事実である。
※第2次はローマ帝国への反乱
②スペイン追放
1492年 レコンキスタを完了したスペインを追放される。
但し、受け皿としてオスマン帝国があった。
③19世紀末 ロシアでの大虐殺
④第2次世界大戦 ナチスによる大虐殺
ここで見えるのはキリスト教による迫害だ。
キリスト教はキリストを磔にしたユダヤ教徒を許せないのだ。
シオニズムとは
シオニズムとは「ユダヤ人が迫害を受けるのは国を持たないからだ。約束の地で国を作ろう」ということだ。
ただ、国を持つべき場所に関しては、約束の地はカナンだけではなく色々候補があったようだ。
しかし、結果的にパレスチナの地を選んでしまったことが近代の争いの悲劇を生む。
ちなみにパレスチナというのは海洋民族「ペリシテ人」からきているらしい。
彼らがカナンの地に住み着いたからパレスチナと呼ばれるようになったそうだ。
第1次世界大戦
第1次世界大戦の対立構図
対立の構図は
◯連合国
イギリス
フランス
ロシア
●中央同盟国
ドイツ
オスマン帝国
ハプスブルグ帝国(オーストリア・ハンガリー)
ブルガリア
である。
皆様承知の通り、連合国が勝利している。
連合国の勝利に「貢献」したのがイギリスの悪名高い3枚舌外交だ。
イギリスの3枚舌外交
①フセイン=ホフクマン往復所管
イギリスがオスマン帝国の背後を脅かすために、アラブ諸国の独立を促し、承認した。
②サイクス=ピコ協定
イギリスがロシア、フランスと勝手に戦後の支配領域を決めてしまった。(それが今日の国境線だ)
③バルフォア宣言
イギリスがユダヤ人がパレスチナに建国していいと確約した。
特に③を受けて、多くのユダヤ人がパレスチナを目指した。
そして土地に関しては先住のパレスチナ人から土地を買うという方法で取得した。
なのでユダヤ人からすると理論上何も問題ないだろうということになっている。
ついに拠点の地を持ったユダヤ人が当初パレスチナ在住が2万5千人だったのが、バルフォア宣言を経て8万人に増えたとされている。
アラブ諸国の独立
1919年イラクとシリアが独立を宣言した。
①で承認を受けており、正当な独立だった。
しかし、②でイラクはイギリスが、シリアはフランスが支配することを決めていたため独立を阻止。
そして広大なシリアはヨルダン、レバノン、パレスチナが分割された。
その後サウジアラビアはイギリスの手を借りて独立。
イラン、エジプトも独立した。
今日に至る軋轢の元凶
今日の問題の元凶が第1次世界大戦にあるのは間違いない。
そして、それが人道的な問題から宗教の問題もあり複雑化しているのが現在である。
日本人が中東問題を理解できないのは一神教を理解できないからだろう。
第1次大戦以降の中東問題
第2次世界大戦での中東
第2次大戦前のユダヤ人のパレスチナの土地所有率は5.7%とされている。
この数字は覚えておいてもらいたい。
第2次世界大戦について詳細は書かない。
皆様既に承知の通りだ。
ドイツのホロコーストで世界的な同情を買い、ユダヤ人のパレスチナ移住が増えた。
そしてユダヤ人は更に土地を買い増していく。
そしてユダヤ人の熱意は駐留するイギリス軍にも向けられた。
度重なるテロ攻撃でイギリスに撤退を迫った。
イギリスは手に負えなくなり国連総会にあげる。
このことが後世に尾を引くこととなる。
なんと国連総会の結果、土地の振り分けを56%をユダヤ国家、43%をアラブ諸国のものとしたのである。
(残り1%はエルサレム)
となり、ユダヤ人は第2次大戦前後のわずか10年程度で土地を10倍にしてしまった。
ホロコーストにより、世界の同情を買ったからなのか。
国連総会の結果はどうだったのか。
なお、この時のパレスチナ在住のユダヤ人は65万人とされている。
第1次中東戦争
当然アラブ諸国からはこの国連の決定に不服の声が上がる。
1948年5月 アラブ連合がイスラエル(1947年に建国)に攻撃を開始。
第1次中東戦争の始まりである。
しかし、戦線は絶対的に不利なイスラエル優勢に推移した。
国連の停戦決議の段階ではイスラエルの土地所有は77%(21%UP)となった。
このイスラエルの増えた土地に残ったアラブの人たちはアラブ系イスラエル人となり、ユダヤ人と比べて2級市民とされ生活が制限された。
第2次中東戦争とPLO
1952年 エジプトでクーデターが起き、軍事政権となった。
大統領となったナセルはイギリス・フランスが独占していたスエズ運河を国営とした。
1956年10月 エジプトとイスラエルで戦闘開始。
イスラエルは出足の遅いイギリス・フランスをおいて先制攻撃をぶちかます。
イスラエルがシナイ半島を制圧し、イスラエル勝利。
1964年 このイスラエルに奪われた土地を解放するために組織されたのがPLO(パレスチナ解放機構)だ。
PLOといえば、アラファトが想起されるが、この頃のPLOは穏健であり、アラファトはむしろテロ組織の長として対立勢力だった。
第3次中東戦争
イスラエルは230万人まで増殖。
そのため、領土欲が増し、国境の非武装地帯でシリアと接触するなどした。
そのため、シリアはエジプトに協力を要請。
エジプトはシナイ半島に兵力を集め、PKO(国連平和維持)軍を撤収させる。
そのエジプトに対して、イスラエルが先制攻撃し、エジプト軍を殲滅。
更にはアラブ諸国にも致命的打撃を与えた。
なんとこの戦闘 6日で終わったらしい。
イスラエルの大勝。
3連勝である。
これによりイスラエルは更に領土を拡張。
ヨルダン川西岸ガザ地区を手に入れた。
パレスチナ人230万人が難民になったという。
PLOでアラファト台頭
イスラエル大勝の裏でアラファトの組織ファタハがイスラエルと戦い、希望の星となる。
そして反イスラエル諸国、反米共産主義勢力から支援を受け、アラファトがPLOのトップに立つ。
そう、中東は世界の対立の裏構図なのである。
但し、PLOは固有の土地がないため、在住していたヨルダン(イスラム国家)を追放されたり、レバノン(多宗教乱立)移住後は他宗教と激しい抗争を繰り返した。
第4次中東戦争
1973年10月 アラブ諸国が報復行動を開始。
ロシアがアラブ諸国に軍事支援をしたことにより、アラブ諸国が先制攻撃に成功。
しかし、結局5分で終わり、土地や領土の変更はなし。
ここで大きかったのはアラブ諸国が自分たちの武器が「石油」だと気づいたこと。
第1次オイルショック
OAPECは
・石油価格の21%UPを通告
・アメリカ、オランダへの石油輸出全断
・親米国には輸出量5%減
を通告したことで世界に混乱が広がった。
世界で原油価格が短期間で4倍になったそうだ。
エジプトとイスラエルの和平
エジプトのサダト大統領はパレスチナ問題を解決しようとした。
アメリカのカーター大統領の仲介もあり、1978年にエジプト・イスラエル和平条約が調印された。
これによりエジプトは第2次中東戦争で失ったシナイ半島を回復した。
しかし、アラブ諸国からは裏切り者として猛反発を受けた。
そしてサダト大統領は1981年に軍に暗殺される。
更にイスラエルのラビン首相も1995年に過激派に暗殺される。
日本人には絶対わからない感覚だろう。
平和が全てではないのだ。
その姿勢がイスラム法に則っていないとなれば反対派から攻撃を受けてしまう。
イスラム法は成文法ではなく、法学者の解釈による。
つまり法学者が絶対的な権力を持つ。
その解釈次第では平和をもたらす行動も悪魔の行動をなり得るのである。
ガザ地区の民衆蜂起⇨オスロ合意
1987年12月
パレスチナのプロパガンダが成功し、イスラエルに非難が集まった。
その後紛争が続く中、湾岸戦争や東西冷戦終決に伴い、世界の注目を集めるチャンスであった。
そしてオスロ合意に向かっていく
1993年にオスロ合意
これによりガザ地区とヨルダン川西岸でのパレスチナ自治政府が発足する。
ついにアラブ諸国側がイスラエルに対して1本取ったのがこのオスロ合意である。
しかし、この時パレスチナ自治区となったガザが現在紛争の真っ只中にあることは皆さんご存知の通りである。
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