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伊東潤「武田家滅亡」

 先日読んだ「天地雷動」の続編にあたる。


 長篠の合戦で宿老の大半を失った武田家のその後を書いている。
「たけだけめつぼう」と打って変換した際に「丈だけ滅亡」と出た。
 ズボンの丈が失われた世界で呆然と佇む人々の姿が見えた。

 信玄が死に、武田家を支えた多くの名将を失い、西では信長が覇権を確実なものにし始めていく。周囲から見れば武田家は死に体でしかない。それでも信玄の後継者である勝頼はもがき続ける。彼についていく者達も。また、武田家を見限る者達も、懸命に生きる道を探し求める。

 実は本書を読むにあたり、常とは少し違う読み方をしようとした。
「周囲から見れば明らかに死に体」という業界がある。コロナ禍により数は増えた。それらを長篠の合戦以降の武田家と見立て、今後どうしていくべきなのか。どう足掻いていくべきなのか。もしくはどのようにして諦めるべきなのか。
 出版業界、音楽演奏業界、機械化が進み、少ない人手しかいらなくなっていきそうな製造業界、その他諸々の斜陽産業。自分が好きな業界が多く含まれているため、他人事ではない。自分の今後の身の振り方の参考にまでする、といえば大袈裟かもしれないが、その気もゼロではなかった。

 もっとも途中からそんな想いは忘れた。今回も幸い(前回は天野純希「もろびとの空」の時)家族の誰にも見られない稀有な時間帯に、終盤で涙を流しながら読み終えた。武田家滅亡と本能寺の変が同年というのも因果なことだ。滅びの連鎖。一代で天下統一などとうてい無理な話だ、歪が出る。

 府中の町には、昔日の面影はなかった。家財を積んだ車が埃を蹴立てて行き交い、親とはぐれた子供が泣いている。そこかしこに糞尿は垂れ流され、街中に悪臭が満ちている。誰が食べたのか、内臓のない犬の死骸が転がっている。

 
 かつて賑わっていた街が寂れていく。
 かつて隆盛を極めたサービスが廃れていく。
 かつての第一線が今では誰も振り返らないものになっていく。
 あらゆるところに武田家は転がっている。
 自分はどこにいるかというと、内臓のない犬の死骸の側にいる。

 
 勝頼は断腸の思いで信濃国を放棄した。父信玄が人智も及ばぬ権謀術数を駆使し、十年以上の歳月をかけて経略した信濃国を、勝頼はわずか一月で放棄せざるを得なかった。
 しかも、弟盛信と高遠城を見捨てたのだ。
 二十八日、幽鬼のような姿に変わり果て、勝頼は新府城に戻ってきた。食事は喉を通らず、目は落ち窪み、頬はこけ、勝頼は別人のように憔悴していた。


 先代の偉業が、先輩方の苦労の結晶が、膨大な歴史の積み重ねが、崩れる時は脆く、呆気なく、瞬く間に、崩れていく。父が生きた。母が生きた。その父と母も。そのまた父も母も。私は何を残せる。私は未来に何を。これまで何をしてきた。子ども達の将来を思う時、いつでも既に自分は死んでいる未来ばかり見てきた。私が私になるまでに積み重ねてきたこれまでの諸々は、数年後には全て無意味だったこととして、誰の記憶にも残らなくなる。そんな未来ばかりを想像してきた。このままでいれば、遠からずそれは現実のものとなる。

 終盤の怒涛の戦死者達の描写を読み進めるうちに、自分の代わりに彼らが死んでくれているような気になる。歴史上の人物でもありながら小説の登場人物でもある彼らは、二重に生き、二重に死んでいく。歴史に残れない私は、多数のハイライトを引いた終盤の文章を読み返しながら、二度目の涙を流している。

 分かってはいる。まだ足掻くことすらしていない。
 やがて滅びる者であれ、その身全てが燃え尽きるまでは、まだいくらか時間がある。




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