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今村夏子「こちらあみ子」

引き続き今村夏子。何故か作者名をきちんと覚えられず、家村明子とか岩村とか違う名前が浮かんでしまう。ひょっとすると本当に作者名が見る度に変わっているのかもしれない。

「こちらあみ子」は第二十六回太宰治賞受賞作「あたらしい娘」を改題したもの、とのこと。

Wikipediaより

29歳の時、職場で「あした休んでください」といわれ、帰宅途中に突然、小説を書こうと思いついたという[5]。そうして書き上げた「あたらしい娘」が2010年、太宰治賞を受賞した。

私があまり本を読まなくなった頃にデビューされた方だったので、これまであまり手に取らずに来たのだが、Twitterやnoteで時々名前が出てきて、その語られ方が自分にはとても魅力的な作家と感じたので、いつか読むのだろうと予感していた。実際読んでみれば、自分の生まれる前からこの作家の小説を読むことは定められていた、とでもいうように、血肉のようにすんなりと心と身体に入ってきた。

音楽や文章は食物と同じように、人の栄養となり、人を形作る、と私は考えている。だから自分に合わないものを摂取するとアレルギー反応を起こすし、体調も精神も変調を起こしてしまう。逆に自分にぴったり適応した音楽や文章は、直接触れていない時でさえ、思い出すだけで自分の中を満たすことが出来る。

「こちらあみ子」が三島由紀夫賞を受賞した際の有名なエピソードがある。
授賞式がネットで中継された折、一人の記者が
「(この作品の主人公は)特異なケースの人の話で自分たちとは関係ないと思う人もいるのではないか」と質問した。
選考委員代表の町田康は、「こわれたトランシーバーで交信しようとする(あみ子の)姿はまさにぼくたちの姿じゃないのですか⁉」と反論したという。

即座にそう答えられる町田康の意気に感動する。
「こちらあみ子」を読んでいる時に感じるもの、いや、今村夏子作品に触れている時に感じるものがある。肌触りというか、直にこちらに響くというか。いや、直接に感じ取ってしまえばとても正気を保ってはいられないので、こちらであらかじめ防衛戦を張ってしまっている、とでもいおうか。
皮膚の下には血液が流れている。
だが本当は皮膚と血液の間にまた別の層があって、目には見えないし皮膚を切っても血しか流れはしないけれど、薄く全身に広がる膜があり、取り込んだ文章や音楽はそこを通って全身を駆け巡っている、とでもいうような。そこに少しずつではなく、直接注入されて、否応なしに自分の思い込んでいる世界を変容させてしまうような、そんな力を今村夏子の文章に感じた。

「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

続いて他の今村夏子作品を読んでいるのだが、途中で家族に声をかけられたり、何か物音がした時に、びくっとしてしまう時がある。読んでいる間にその中の世界に入り込み過ぎてしまって、現実の認識が一瞬遅れてしまう。ほんの少しの間読んだだけでもそうで、夢を見ている最中に急に起こされた時のようになってしまう。外で歩きながら読んだりしては、間違いなく怪我をしてしまいそうだ。


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