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魯迅「出関−砂漠に逃れた老子と関所役人の物語」

魯迅ろじん(1881−1936)が1935年に執筆し、翌年に発表された、作者最晩年の作品である。自らの死の予感もあったのだろうか、去りゆく者としての老子の物悲しさ、滑稽さが描かれている。

光文社古典新訳文庫の「酒楼にて/非攻」に収録、藤井省三訳。

「故事新編」というシリーズの一編で、中国の古代の人物を題材にした話が収められている。同種のものを書いた中島敦好きにもお勧め。

この系譜の年代別流れをざっくり書くと、

芥川龍之介「鼻」「羅生門」などを記す。
魯迅が中国語にそれらを翻訳、後に自らも中国古代の伝説上の人物たちを題材にした「故事新編」を記す。
中島敦が「弟子」「李陵」らの短編を記す。

もっとたくさんの作家の、古典を題材にした作品はある。直近でも、「義経記」町田康バージョン「ギケイキ」、古川日出男の書く「平家物語」など。

ふとNIRVANAを聴きたくなる。
そんな風に、ふと魯迅を読みたくなる時がある。
「酒楼にて/非攻」はKindle Unlimitedにも入っているので、ユーザーであれば無料で読める。光文社古典新訳文庫はKindle Unlimitedに大量に入っているので、次に読む本を特に決めていない時に「何か古典を」といった際に便利だ。

老子と孔子の会話から物語は始まる。始め老子の考えを理解していなかった孔子だが、やがて老子の考えを「理解しすぎて」しまったことを老子は悟る。身の危険を感じた老子は国を去る決心をする。

「同じ靴でも、私のは砂漠を歩く靴、彼のは朝廷に登る靴なのです」


ここまでの老子は文句なく格好いい。諸子百家中の歴代フォロワーナンバーワンといった貫禄だ。
だが出国の際に函谷関の関所についてからの老子についての描写は、読んでいるこちらが悲しくなるくらいの情けなさに溢れている。
関所の番人たちは「あの老子先生が来た」とはしゃいで、講演の席を用意する。普段は哲学などに触れない者らも集まって耳を傾けるのだが、語られるのは、当時の彼らにとっても今さら感のある話。たとえていえば、数十年前のベストセラーの一節を万感の思いを込めて語られたという感じか。時代も人も変わり、求められる思想も当然変わってしまっているのに。
さらには訛りがひどくて大半何を言っているか分からないときた。

だからこそ、「何言ってるか分からなかったので自分で書いてくれ」と依頼されて書いたものが、後世に残った、という設定なので一応救いはある。原稿料は「塩ひと包み、ゴマひと包みに、饅頭十五個」しかも没収品の布袋に詰めて渡すという徹底ぶり。もし老子が舞い戻ってきたら、

「次には、新作家発掘に方針を変えたと言って、原稿二冊なら、饅頭五個を渡せば十分です」

とこき下ろす徹底ぶり。

昔の哲学も今では通用しない、とも読めるし、哲人の事を理解出来ない俗人を書いた、とも読める。


魯迅「出関-砂漠に逃れた老子と関所役人の物語」の内容がたびたび私の中で思い出されるのは、他人事ではないからでもある。
自分はとっくに過去の人だという思い。
かといって今さら曲げることも出来ず、書き続けるくらいしか出来ない。
自分の去った職場では笑い者どころか、もう思い出されてもいないんじゃないか、とか。
止められず書き続けているあれこれも、もう誰も気に留めていないんじゃないか、とか。

老子のように砂漠に去った後、数百年生きたとか誰彼に転生したとか伝説になれるはずもない。
近所に砂漠などないし。
もしくは砂漠しかない、か。

現代の諸子百家なら、noteだけでなく、インターネット中に溢れている。その中の誰か、あるいは複合的人物として、後に一人の書いたものとして後世に残されるかもしれない。

人類が滅亡した世界に残る、壁画に刻まれた誰かの記事。
末尾に刻まれる、無数のハート。
それを見つめるのは、人類を超越して、生き続けてきた老子一人。


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