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鰻の神に導かれ

「ねえ、お昼ご飯どうすんの?」

一緒にランチを食べに行こうと妻を誘ってみたものの、どこに食べに行くのかを決められない私に対し、妻が語気を強めて言いました。

私は優柔不断な性格にプラスして、店選びに失敗したくないという気持ちが人一倍強いため、なかなか新しいお店の新規開拓に踏み出せないでいたのです。

ならば別に新規開拓などしなくても、いつも行っているお店に行けばよいではないかと、そう思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、これがそう単純な話でもありません。

というのも、ここのところ私のお気に入りだったお店が相次いで閉店、はたまたシェフが変わって味が激変などということが起こっていて、どうも家の近所にある飲食店に足が向かなくなってしまっていたのでした。

かといって、せっかくの休日に駅前のチェーン店というのも味気ありません。

そこで、私はこの窮地から脱出すべく一念発起、近隣の駅に私のお腹と心を満たしてくれるお店はないかと、スマートフォンを使い検索を開始したのです。

すると、ものの数分後、ある1枚の写真が私の目にとまりました。

それは、深い赤色のお重に敷き詰められたご飯の上に"ふっくら香ばしく"焼かれた鰻が乗った、鰻重の写真でした。

「うわっ、美味しそう」

その写真があまりにも美味しそうだったので、私はどこのお店だろうかと思い調べてみることにしました。
すると、それは電車に乗って5つ目の駅にある、老舗の鰻屋さんで撮られた写真だとわかったのです。

「うーむ、5駅か。行けない距離ではないな」

私の中で鰻食べたい欲が一気に肥大し始めました。
そこで、さらに情報を集めようと口コミのページを開いてみると、そこには「相場より安い値段で味も抜群」というコメントが多数投稿されているではないですか。

これはもう、鰻の神様が今日はここに行きなさいと、そう言っているに違いありません。

しかし、何を勘違いしたのか、私の心の中の大蔵大臣がしゃしゃり出てきて言ったのです。

「いやいや、ドリオくん、いくら相場より安いからと言ってもだね、鰻は鰻だよ。記念日でもあるまいしさ、ちょっと贅沢し過ぎというものではないかね。それにだね、どうしても鰻が食べたいって言うんだったらさ、ほら、なにも遠くまで行かなくたって、駅前の牛丼屋さんに鰻丼があるじゃないか」

すると、それを見ていた鰻の神様が、見かねて大蔵大臣に言いました。

「そうは言ってもだね大臣、今年の夏の暑さは異常なんじゃよ。ドリオくんにしたって、ちゃんと職人が炭で焼いてくれた"ふっくら香ばしい"鰻の一つでも食べないと、とてもじゃないけどこの暑さは乗り越えられやしないってもんだよ」

すると、さすがの大蔵大臣も、鰻の神様に言われたのでは仕方がないと、つまらなそうに口をとんがらせたまま、心の中の大蔵省へと戻っていきました。

ということで、私と妻は今日、鰻の神様のお導きにより鰻重を食べに行くことになったのです。


その鰻屋さんは私たちが住む街から電車で5つ目、各駅停車しか停まらない小さな駅の、長い坂道を下ったところにありました。

創業60年、鰻を一度蒸してから炭火で焼き上げる、いわゆる関東風の鰻を提供する老舗です。

「あっ、あそこじゃない」

私たちが遠目からそのお店を見つけた時が、ちょうど開店時間だったようで、並んでいた人たちが順繰りにお店に吸い込まれていくのが見えました。

私たちも日差しが照りつける酷暑の中を小走りして、その列の最後尾に並びます。

そして、いざ暖簾をくぐろうとしたその瞬間、いかにも職人といった雰囲気の大将がカウンターから出てきて、私たちに言ったのです。

「今のお客さんでもう満席だよ」

「え?!」

私は目と耳を疑いました。

そんなはずはない、私たちは鰻の神様に導かれてこの店までやって来たのだ。
それにほら、現にカウンター席が2つ空いているではないか。

私はカウンター席を指差して言いました。

「あそこのカウンター席でもよいんですけど、ダメですか?」

すると大将は言います。

「カウンターはおひとり様の為の席なんだ。もし、どうしてもって言うんだったら外で待っててくれてもよいんだけど、これから一斉に注文をとって、それから調理してだからね、おそらく1時間はかかると思うよ」

私はその大将の職人然とした態度に、今日はもう鰻が食べられないのかもしれないとショックを受けました。そして、それと同時に、きっとここの鰻はさぞかし美味いんだろうなと、そう思わざるを得ませんでした。

それは、たとえ今日おひとり様が来ようが来まいがそんなことは関係ない、カウンターはおひとり様の席と決めたのだから、おひとり様の為にとっておく。一度決めたことは貫き通すのが職人なんだと、その大将の職人然とした態度が物語っていたからです。

私たちは何も言えずに、ただ鰻食べたい欲を俄然肥大させたまま、ガクンと首を前に倒し、うなだれるように店の引き戸を閉めました。

すると、燦々と照りつける太陽が容赦なく、うなじの辺りをジリジリと焼き付けます。

嗚呼、炭火で焼かれる鰻ってこんな気分なのかなと、陽炎立ち上るアスファルトを眺めながら途方に暮れていると、蝉が一匹飛んできて、私たちの足元でひっくり返ったまま動かなくなりました。

その蝉の姿を見たとたん、私の中に後悔の念が一気に押し寄せてきたのです。

こんな暑い中で1時間も待ってたら、鰻を食べる前に干からびちゃうよ。やっぱり、大蔵大臣が言っていたように、私たちのような庶民は贅沢なんかしないで、駅前の牛丼屋さんで我慢するべきだったんだ。
それなのに私ときたら、休日だからって、料理人だからって、夏のせいだからっていって、ついつい調子に乗って、交通費まで使った挙句に時間を浪費、さらには炎天下の下で途方にくれるだけなんて、とてもじゃないけど目も当てられないよ。

私は妻の顔もまともに見ることができないほど憔悴していました。そして、「もう鰻は諦めようか」と、そう口に出そうとしたその瞬間、私たちの背後でガラガラガラッと大きな音を立てて、店の入り口の引き戸が開いたのです。

すると、そこには女将さんが立っていました。そして、「ごめんなさいね、ちょっと勘違いしてたみたい。2階の席にひとつだけ空きがありますので、よかったらどうぞどうぞ、お入り下さい」と言ったのです。

その瞬間、私の目の前に、一本の光り輝く道が現れました。その道は私の足元から始まり、大将がいるカウンターの前を通過して、店の奥にある階段へと続き、さらにはその先にあると思われる2階席へと続いているようでした。

「Stairway to Heaven」

私は思わずそう呟いていました。


私たちはさっそく暖簾をくぐり、店内に足を一歩踏み入れます。すると、大将もカウンターの中から、はにかんだ笑顔で「いらっしゃい」と言ってくれました。

私は心の中で「大将、期待してるぜ」と呟くと、すばやく光り輝く階段を上がり、2階席の空いてる席に腰掛けました。

すると、すぐに女将さんが注文をとりに来たので、私たちは「松」「竹」「梅」、とある鰻重の中から「松」を2つと瓶ビールを注文しました。

ふう、これでやっと一息つける。
と思ったのも束の間、あっという間にビールが運ばれてきました。

そのビールからはユラユラと冷気のようなものが発せられていて、見ているだけで夏の暑さを忘れさせてくれそうでした。

捨てる神あれば拾う神あり、鰻の神あればビールの神あり。私は万物に神が宿る国に生まれて本当によかったと思いながら、ビールをグラスに注ぎ、胃に流し込みます。

「うひゃっ、うますぎる」

そのビールは五臓六腑だけにとどまらず、私の脳随にまで染み渡り、全身を痺れさせました。

あともう少しで鰻重が食べられるというだけあって、ビールの美味しさもまたひとしおです。
普段はあまりお酒を飲まない妻も、グラスに半分ほどビールを注ぎ、美味しそうに飲んでいました。


それから待つこと30分。
いよいよ待ちに待った鰻重が運ばれてきました。

この深い赤色のお重の蓋を開ければ、あの"ふっくら香ばしい"鰻が横たわっているのかと思うと、私はなんだか感慨深いような、神々しいような、畏れ多いような気がしてきたので、まずは肝吸いを一口飲み、心を落ち着かせました。

そして、そっとお重の蓋に手をかけて、まるで繊細で壊れやすいものでも扱うかのように、ゆっくりと慎重に蓋を開きました。

すると、そこには、お重にきっちりと敷き詰められたご飯の上に、見事に"ふっくら香ばしく"焼かれた鰻がででんと横たわっていたのです。

「ああ、これだ。この照り、この厚み、この存在感」

私はなんとも言えないその魅力的な鰻のフォルムに魅了され、無意識のうちに、うっとりとした溜め息を吐いていました。

すると、妻が言いました。

「なにやってんの?早く食べなよ、めっちゃ美味しいよ」

私は妻があまりにも美味しそうに鰻を頬張っている姿を目の当たりにして、いよいよ辛抱たまらなくなり、すぐさまお重の底深くまで箸を沈めました。そして、タレの染み込んだご飯と鰻を一気にすくいとり、すぐさま口に運びます。

すると、私の口の中に、今まで食べていた鰻とは比べ物にならないほどの、ふっくらとした軽い食感が訪れたのです。

「えっ、なにこれ、めっちゃ美味しい」

それはまるで、高級な羽毛布団に一糸纏わぬ姿で飛び込んだ時のような、エアリーな感覚でした。

私がその、あまりにもふっくらとした食感に驚愕していると、先に食べ進めていた妻が言いました。

「しかも、ふんわりしてるだけじゃなくて、ちゃんとカリッと香ばしいとこが最高だね」

私はそれを聞いて、すぐにもう一口頬張ります。

すると、そこには妻が言っていた通り、ふんわりとした食感の中に、確かにカリッとした香ばしい食感があったのです。

私はこの2つの食感が共存していることに、再び驚愕しました。

それは、この2つは本来対極の位置にある食感であるがゆえに、共存させることが非常に難しい食感でもあったからです。

私たち料理人はふっくらとした食感が欲しい時、水蒸気を使い『蒸す』という作業を行います。しかし、この作業はふっくらとした食感を手に入れるのと同時に、香ばしさを失う作業でもあります。
また、私たちはカリッとした香ばしさが欲しい時、火を使い『焼く』という作業を行います。しかし、これも香ばしさを得るのと同時に、ふっくらとした食感を失うという作業でもあるのです。

つまり、この2つの作業は同じ火を入れるという作業でも、対極に位置する技法であり、どちらかの食感を得ようとすると、もう片方の食感を逃してしまうというロミオ&ジュリエットなのです。

しかし、大将はこの2つの食感を鰻という食材の中で、見事に共存、いや、共栄させていました。

これはまさに、炭火と水蒸気を自在に扱う匠の技であり、美味しい鰻を食べてもらいたいという情熱の結晶でもあるのです。

妻が言いました。
「今まで食べた鰻の中で1番美味しいかも」

私もまったく同感です。

鰻のふっくらとした食感もさることながら、その柔らかさとのバランスをとるように少し硬めに炊かれたご飯にも、すべての要素をひとつにまとめ上げるために、やや甘めに味付けされたタレにまで、私たちは大将のこだわりを感じないわけにはいかなかったのです。

しかも、これが相場よりもリーズナブルな価格で提供されているなんて、この店の大将がきっと鰻の神様なのでしょう。


ご飯一粒残さずに鰻重を平らげてしまうと、私たちは席を立ち、階下にあるレジへと向かいました。

そして女将さんに代価を支払い、大将という名の神を拝み、店を後にしました。


駅までの帰り道、長い坂道を登る私たちの頭上には、ふっくらとした入道雲が鎮座していました。

私たちはその入道雲を見てどちらからともなく言いました。
「あの入道雲、さっきの鰻みたいにふっくらしてるね」
「ああ、本当だね」
「なんだか、もう鰻食べたくなってきちゃったな」
「私も」

夏の太陽は相も変わらず容赦なく、炭火の如くジリジリと、私たちの肌を焼き付けるのでした。

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