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キッチンの音、心の音

私はキッチンの音が好きです。

まな板の上で物を切るトントンという音。
洗い物を流すジャージャーという音。
食器同士がぶつかり合うカチャカチャという音。

そのどれもがいろんな感情を含んでいて、人の営みを感じさせるような、そんな音が私は好きなのです。


今私は真っ暗な部屋のベッドで横になり、眠りの世界と現実の世界を行ったり来たりしながら、キッチンの音を聞いていました。

ボウルで卵を混ぜているようなシャカシャカという音。
コンロの上でフライパンが動くカタカタという音。
冷蔵庫を開けたり閉めたりするパタパタという音。

妻が夕飯の支度をしている音です。

しばらくすると、私がいる部屋の扉がスーッと音もなく、かつ無駄のない素早い動作で開かれました。

私は扉の向こう側が眩しくて、目を細めながら、ベッド脇にある小さなテーブルの上に妻が何かを置いていくのを見ていました。

私は妻に何か話しかけようと思ったのですが、私の口から言葉が出てくるよりも早く、妻は何も言わずに逃げるようにして去っていきました。

部屋が再び暗闇に包まれると、私は重い体をゆっくりと持ち上げて部屋の明かりをつけました。

そして、テーブルの上に目をやると、そこには使い捨ての容器に入った白粥と、やはり使い捨ての薄ピンク色をしたプラスチック製のスプーンが置かれていました。

その他には、すでに生ぬるくなってしまった飲みかけのポカリスエットと体温計が、なんとも居心地悪そうに置いてあります。

私はベッドのヘリに腰掛けてテーブルに向かい、今の状況に思いを巡らせました。

私はいったいなぜ仕事も行かずに暗い部屋で横になっていたのだろうか。
妻はなぜ無言で逃げるようにして去っていったのだろうか。
なぜお粥が使い捨ての容器に入れられているのだろうか。

その答えはすぐに見つかりました。

「そうだ、私はコロナになったんだ」

巷では、そんなのはただの風邪だよなんて言っている人も多くいましたが、とんでもありません。

熱は39度をこえているし、体は油を差し忘れたロボットのようにギシギシと悲鳴をあげています。
それに激しく喉も痛いし、頭も痛い。

これがただの風邪だなんてのは、たまったもんじゃありません。

ただ、いつまでもそんな事を言っていてもしょうがないし、何も食べないわけにもいかないので、私はスプーンを手に取りゆっくりと白粥を口に運びました。

味覚が鈍くなっているせいか、味はまったくしません。

それでも胃の中に食べ物が入ると、不思議なことに少しだけ安心感を得ることができました。

それでも一向に食欲の湧かない私は、結局お粥を半分くらいしか食べられず、起き上がっていること自体がだんだんしんどくなってきたので、ベッドに横になることにしました。

そのまましばらくボーっと天井を見つめていると、どうやら妻も食事を食べ終えたようで、再びキッチンから音が聞こえてきました。

残り物を小皿に移すコツコツという音。
洗い物を流すシャーシャーという音。
食器同士がぶつかり合うカチャカチャという音。

キッチンの音にはいろんな感情が含まれています。

優しさや愛情も。
不安や悲しみも。
時には憎しみやイライラも。

人の気も知らないでと言われてしまいそうですが、優しさの中に少し不安が滲んでいるような今日のキッチンの音も、私はなんだか人間らしくて好きなのです。

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