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N氏からの手紙:詩集『聲』について

研究會の先輩N氏から分厚い封筒が届いた。開けてみると便箋十八枚にびっしりと書き綴られた詩集『聲』の批評・感想だった。黒インクの流麗な達筆でところどころ読み取れない部分は推測で読んだ。ぼくはコロナ以前から研究會も出なくなって、すでに五年近くはご無沙汰しているのではないだろうか。

関係者に詩集を送付したのは昨年十月のことで、大方の反応(ほとんどがぼく個人宛のもの)は出尽くしたあとだったし、期待した詩誌などの出版物の反応も知る限り完全に無視された格好で、思うようには詩界に受け入れられなかった苦い事実を反芻している日々に、思いがけない光が差したことになる。

詩集に発表した作品も自分にとっては過去に属する存在であって今の作風・表現から言えばまた違う位相で書かれているように感じられる。ともかく自分自身には「わかる」作品であることは確かだが、客観的にはどのように読まれるのか、作品毎に明らかにされたのは今日受け取ったN氏の書簡が最初になる。

その意味でも先輩N氏に深く感謝しなければならない。自分の作品が詩を求める人に読まれる幸運に恵まれたとして、果たしてどのように受け止められるのか。

詩も芸術作品として客観的な存在であって、人間に対して有意義な謎を与える「なにか」であっていいはずだ。

その謎のような存在としての詩が、魅力的であるかどうかだけが問題なのである。

知的な意味での解釈は二の次であることになる。入沢康夫だったと思うが、「詩は何かの表現ではない」という名言があった。

先輩N氏の書簡は、ぼくの作品を、知的解釈として、有意味な思想的あるいは宗教的"statement"として読み解こうとする努力に満ちていた。その方向で評価されたいという気持ちはおそらくぼくにはない。ぼくにとって、人間という謎を謎のままに提出する方法が詩なのである。

とはいうものの、書き手としての自分には、とうぜん、各作品における隠された、あるいは(ほとんどそうではないが)あからさまなモチーフというものがある。それを見事に言い当てていただければ、これほどうれしいことはないだろう。しかし、いままで、そういう経験をしたことは残念だが一度もない。

ぼくの方法=詩法は、その意味で、まちがっているのかもしれない。「受けない」理由はたぶんその辺に潜んでいるにちがいないと思っているし、最近はその辺が変わりつつあるかもしれないが、自分ではよくわからない。たぶん、「わかりにくさ」「親しみにくさ」の点で、それほど変わってはいないだろう。

ぼくにはクラシック音楽を聴く時期とジャズばかり聴く時期が交替でやってくる一種の生活のリズムがある。ブラームスに「崇高なる諦念」を聴き取る音楽評論家の文章を読んだことがある。ぼくの場合まったく崇高さとは縁遠いが、誰かに理解されるという文脈では、諦念をもつことがだいじだと思っている。

そんなことを書いた翌日(正確には当日午後)に、ある方から強く肯定的な評言をいただいた。出版物に公表されるまではまだしばらくかかると思う。楽しみ。感謝!

(付記)
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