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詩とはなにか ー異端審問ー

「当事者以外には決してわからない種類の感情というものがある。すべてを栄養(ネタ)にしてしまう優等生の無神経さがとどかない深い処に・・・」

昨日(1月24日)は何報か書いたツイートが致命的だった。ツイートしないで保存に回す理性が勝ったが、そのぶんは結局「詩」として書かれてしまった。田舎で孤立している自分の立場がさらに危うくなるような内容だ。出版・詩壇系権力勾配の落ちこぼれで生きているのにどうなのか。

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また傑作(註1)を書いてしまった。ガソリンの代わりに世界を炎上させる言葉を撒くのが詩人だと思っている。

そしてまたフォロワーの詩人たちに無視されたがこれはいつものことで予想通りだ。ツイートでも小市民的側面だけが受け入れられるはおまえの詩は認めんぞ!という遠回しの恫喝に近い。#被害妄想

科学の世界では、学術論文が学会に受け入れられる「公正な」システムが確立されているので、ある水準を突破した論文であれば、どこかのジャーナルで発表できる。英語で書けば世界が相手にできる。文学(詩)の場合、その点、厄介だ。ぼくのような怠け者には。その意味での努力をする気力体力が乏しい。

ぼくは「戦後詩」に衝撃を受けた世代で、「戦後詩以後」の世代の作品が隆盛を誇るようになった時代には詩から遠ざかった人間である。それが311震災を契機にまた書き始めた。いっぽうで、今、詩人として活躍している人たちの多くにとって、詩とは、「戦後詩以後」の詩人たちの作品なのだろう。

その意味で、ぼくの作品は、かれらの作品には「似ていない」はずだ。詩とはなにか、という根本的な考え方がたぶん異なっているのだ。そう思うことにしている。今の権威者たちも、自分の詩に似た詩を認めたいという欲求にしたがっているのだ。そう思うことにしている。

つまり、今の詩壇の権威者たちは、ぼくが若い頃見切ってしまった「戦後詩以後」の世代の詩人たちなのである。この認識はぼくにとっては決定的なものであって、むしろ「かれら」に認められない・無視される・排撃されることこそが栄光なのである。

現実的な一番の問題は金がないことである。詩集を出すにも詩的交友にも金と時間が要る。それ以外の通路を考えることも必要かもしれないが今はともかく生活を維持し勉強しなんとか書くことでエネルギーが尽きているのが実態だ。テキストの力を信じる外にない。これではもはや「信心」だが当面はこれで行くのみである。

戦後詩のもつ「現代性」を再認識し始めた詩人たちもいるが、その文脈・意味での「詩における実践」がぼくの第一詩集『聲』であった。そのことが認識・理解されなかったのか、無視されたのか、今でも不可解で、わだかまりになっている(註2)が、ともかく傑作を書き続けることでしか反撃はできない。そう思っている。

(註1)『反反戦詩 ー十三月の蠅ー』を指す。
(註2)詩界の習慣に従いめぼしい詩人たち・関係各位にはできあがった詩集を送付している。
(追記)マイナーな「創作者」のルサンチマンということで、どうしても脳裏を離れないのは、京アニ事件の犯人のことである。とうてい他人事とは思えない。私のあまりうまく書けなかった作品『薔薇園#4』(note)にもその片鱗が忍ばせてあるが誰にも気づかれることはないであろう。彼が文章でも漫画でも、被害妄想的反撃を加える私のような人物であれば、あのような悲劇も防げたのではないか。たとえ蟷螂の斧であったとしても、それが文學(創作)の原点だとおもうのだが。

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