『西遊記 はじまりのはじまり』を観る(ネタバレあり)

ことあるごとに触れて回っている映画ですが『西遊記 はじまりのはじまり』は名作です。今日はこの作品について考えてみたいと思います。
なお、ネタバレ全開で進めていくので、できればレンタル、各種サブスクや、ときおりGYAOなどで配信されるのでそれを先にご覧ください。

さて、この話は言わずと知れた古典中の古典、西遊記を基にした映画で、三蔵法師が若く未熟な時代に、三匹のお伴になる妖怪を仲間にするまで、旅立ちの前のエピソードゼロ的な「はじまりのはじまり」を描いたものです。
にもかかわらず、この映画は単体で異常に完成していて「悟空が妖怪とバトルしながら天竺に教典を求めに行く」という、いわば西遊記の本筋の部分が蛇足なのでは? と思う内容です。実際、別の監督で続編が2と題打って公開されましたが、それはスカスカで微妙なものでした。

これは水滸伝で108人の好漢が集まるまでが一番面白い現象や、三国志で天下を統一したあと尻すぼんでいくのにも似ていて、風呂敷を広げる瞬間が一番ワクワクする、というのもあるのですが、もっと突き詰めてみると監督がこの物語の本質を仏教説話であると看破していたことにあると思います。これは他のメディア化では恐らく重視されてない部分で、お経や仏教は西遊記と言う物語のキーアイテム、アクセサリではあっても本質ではない描かれ方をされてきました。しかし、仏教の救済とは何か? という問題にガチで取り組んだのがこの作品の唯一無二たらんところだと思います。

ざっくりと物語の概要を書きます。

若き三蔵は師匠より「わらべうた」の本を授かり妖怪ハンターをしています。他の妖怪ハンターは武術や妖術に長けた超人たちですが三蔵はわらべうたで妖怪を改心させ、教化するという方式を師から習っています。しかしこれはかつて一度も成功したことがなく、作中でも一回も成功しません。
そんな頼りない三蔵の前に凄腕の妖怪ハンターのヒロインが現れます。二人は互いに心惹かれるも、三蔵は男女の愛のような小さな愛は執着で、仏法の求める多いなる愛ではないと、断ち切ろうとしています。
やがて二人は伝説の大妖怪、聖天大聖を訪ね当てます。

さて、この映画はエンターテイメントとして非常に完成したこの作品ですが、観る人によっては喉の小骨のようにひっかかる部分があるでしょう。
それは冒頭で巨大魚の水妖が人を襲うシーンから既にあります。この水妖はのちの沙悟浄ですが、無垢な少女とその親を食い殺す、というかなりえげつない登場をします。
エンターテイメントに本当に徹するなら、間一髪で罪のない親子を助けたほうが後味はよく、どうも善人が死んだ後だと爽快なアクションも軽快なギャグも、「面白いけどさっき死んだ人可哀想だな~」となるし、沙悟浄が後に仲間になると言われても嫌悪感が芽生えてしまうでしょう。

なのにあえて冒頭でこのシークエンスをもってきた、ということは監督の作家性や国民性の違いというのもあるかもしれませんが、私はここに「早くも仏教説話としての西遊記のガチさ」をぶっこんで来た、と捉えました。
言い換えるなら「人文主義じゃないよ、自然主義だよ、妖怪は人を取って食うし、物語は人間の都合の為に回っていくんじゃないよ、縁によって紡がれて生まれてしまうものなんだよ」というメッセージです。

仏教には餓虎投身という説話があります。
文字通り、おなかのすいた虎に自分を食わせた僧侶の話で、手塚治虫の『ブッダ』にもアッサジというブッダの人格形成に深くかかわったキャラクターの死にざまとして出てきます。
ここでは虎が人を食うということは自然の営みの一環でしかありません。
沙悟浄も「食事」をしただけです。もし、それを人間の尺度で裁き、罪とするなら、妖怪を人間と同じ土俵に乗せ、同じ倫理で取り扱うことになりますが、殺された親子の村は漁村でした。だったら魚を取っている人間は裁かれないのか? という問題が生まれます。人間とそうでない生物を完全にフラットに扱った場合、営みや業はあれど罪はありません。どちらも食ったり食われたりするだけです。

この問いは形を変えて何度も出てきます。緒八戒はさらに輪をかけて残虐で殺しを楽しんでいる節もあるし、西遊記の中心人物である悟空に到っては残虐も狡知も極まり、ヒロインを三蔵の目の前で殺して高笑いします。一体、そんな奴が改心したからと言って、赦して旅の伴に出来るでしょうか?

そう、西洋的な感覚に慣れていると、この部分のわだかまりを「赦しと救済の物語」と読み換えてしまうのですが、この物語はそうではない部分で進んでいます。
三蔵は葛藤の上で悟空を赦したりしていません。そもそも憎んでいない。ただ深い哀しみがある。三蔵は悟空を復讐すべき敵とは見ず、赦すべき罪があるともせず、それを裁く権利があるとも思いませんでした。これは極めて非エンターテイメント的な構造です。
たとえば『ジョン・ウィック』では凄腕の引退した殺し屋が妻の忘れ形見である愛犬を殺され、復讐でマフィアを壊滅させますが、観ている方は「犬を殺すような奴は殺されても仕方ないよね」と思い、マフィアがスナック感覚でサクサク殺されていくほど爽快です。
しかし西遊記では断罪はされず、改心もなく、突発的に救済はやってきます。

クライマックスの悟空との闘いで、ヒロインの妖怪ハンターは三蔵をかばい致命傷を受けます。そのときようやく三蔵は愛を打ち明けます。
するとヒロインがあのわらべうたの本を手渡してきます。
それは「こんなもの役に立たない!」と、ヒロインがビリビリに破り捨てたものでした。しかし後でやはり三蔵に謝ろうと拾い集め、夜なべして字が読めないながら勘でつなぎ合わせていたのです。
それを三蔵が唱読しはじめると悟空の顔色が変わります。
バラバラになっていたわらべうたを再構成したその本の文字の並びは奇しくも「大」「日」「如」「来」「経」となっていました。

このシーンを最初見た時は衝撃を受けました。仏法はどこからやってくるのか? という問いの答えが「完全に偶然のランダムであり、同時に必然でもあるところからやってくるんだ」、という解答が、あまりに見事だったからです。いわゆる青い鳥的な「探しているものは一番身近なところにあった」というオチなのですが、続編が作りにくいのはこの大日如来経の出現の見事さに対し、天竺に形ある文書としての経典を取りに行くというのがある意味、空虚だからかもしれません。
もちろん、経典自体に意味があるのではなく旅をしてきた体験がただの文字にしかすぎない経に法としての命を吹き込むのだ、というのは「本編」でも描かれるテーマですが『はじまりのはじまり』はその部分で既に『ネタバレのネタバレ』をやり切ってしまっているように思います。

悟空は大日如来経の力で大妖怪から卑小な人間体に戻され、三蔵に従います。しかし改心はしていません。強いて言えば回心であり、仏教でいうと発心が近いと思います。

悪人は改心などしない。されど発心はある。

これが監督の出した答えなのではないかと思うと、こんな受け入れられにくい話をよくエンタメに出来たなと思わざるを得ません。

師のもとに戻った三蔵は「大いなる愛は何か」と問われ「男女の愛も大いなる愛も同じ愛。愛に大小はない」と答えます。そこには頼りない青年の姿はもうなく、迷いのない僧としての姿がありました。

愛に大小はないし、罪も罰もない。それらをあると誤解してしまう認知があるだけだ、というのは凄い結論です。
我々は自分を良きもの、裁く側、正しい側、導く側、教える側に置き、「間違いを正そう」としますが、それ自体が正しくない。そんな権利や立場は存在しない。救済はそういうところとは関係なくやってくる。むしろ、そういう執れから抜け出すこと自体は救済なんだ、という事ではないかと思います。

なんだそれは、ふざけるな、自分に害を与えた人間には復讐するべきなんだ、乗り越えて粉砕してはじめて救われるんだ、という考えも私は否定できません。そして『ジョン・ウィック』は当然スカッとします。

しかし現代で地獄絵図を作り出しやすい人間関係、たとえば親子の問題で、虐待を受けた子が親のパーソナリティを憎み、それに復讐したとして救われるかというと難しいでしょう。
かといって自分の本心をだまくらかして、全然赦せないのに無理に赦しますと言ったところで救われる訳でもありません。

その苦しみの輪から出る。「赦すも赦さないもない」という地平があると知る。そこに行くには認知を変えるしかなく、認知が変わるきっかけは全くの偶然であると同時に必然として起きる。修行とはその瞬間の訪れを見過ごさないように感性を開いておくこと、事象や自己の軽重大小を定めずフラットでいるだけだ、というのがこの映画を見て感じ入ったことです。
しかし当然これも私という認知の偏りから捉えた感想なので、みなさんも色んな見方をしてみてください。おわり。





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