見出し画像

節目を超えていけ

17:30のチャイム

30代に突入してからもうすぐ半年が経つが、思ったよりも若い。
見た目がとか活力がとかいうポジティブなことでもなく、幼稚だとか成長してないとかネガティブなことでもなく、ただ30歳は想像していたよりもずっと若かった。

昔から年齢を重ねることへの恐れもなければ、独身でいいやとはなから誰かと共に生きることを諦めている私にとっては、1年が過ぎることの実感は自分の中にはあまりない。
むしろ子を持つ親のように、学年が上がる学生のように、外部の変化によって「1年」という社会の一区切りを感じられている。

よく「学生と社会人の違いは?」という質問への答えが取り沙汰される。
色々な意見はあると思うが、私の考えはこうだ。

「学生は、始まりも終わりも社会によって区切られている。社会人は、終わりも始まりも自分で区切る」

前述の「1年の区切り」に矛盾するような気もしなくもないが。
学生という存在は、制度と時間経過によって何らかの「節目」が自動的に訪れる。
4年の在籍年数が経過し、規定の取得単位を習得すれば卒業となる大学生。
3年間の出席日数と、一定の評定点を取れば卒業できる高校生。

学生は、季節を感じながら段々と「前へ」「上へ」と進んでいく。

一方で社会人は、事業年度や会計年度、期やクォーターに区切られながら経済活動の中で生きる。
1年が経っても、その成果が認められなければ苦しい状況も低い賃金も変わらない。
3年が経っても、毎日家に帰ってビールを飲んでアニメを見て寝るだけでいたら、どこにも上がって行かないし、どこにも進んでいかない。
そして、終わらない。

社会人を終えるには、めちゃくちゃお金を貯めるか。会社を辞めるか。自殺するかしかないのだろう。

曲がりなりにも社会人5年目を迎え、ありがたいことに学生を長くやらせてもらったので年齢は30歳の節目を超え、キャリアを中期的に考えられるようになった。

今回は、ちょっとだけキャリアについて考えてみた内容を、せっかくなので文字の起こしておこうと思う。

ワーク・スタディ・ライフバランス

昨年末に転職をした。
大学院(土木工学)→総合職(人材)→畜産(派遣)→フリーランス(IT)→一般職(畜産&IT)→専門職(IT)
と、キャリアが全く積み上がらないままに、それでも色々経験できたなと思える20代を終えるにあたって「普通の転職」をした。

普通に転職エージェントに登録し、普通に職務経歴書を書き、普通に面接を受け、普通に正社員として入社した。
この選択には大満足の今であるし、転職を決意した当時の自分の望みがほとんど叶っていることに喜びを感じる日々である。

しかし、そうして選んだ仕事は、あまりにホワイトすぎた。

それゆえ、暇で暇で仕方なくなってしまった。

ストレスのない人間関係。生活に困らない給与。
フルリモート勤務。ITエンジニアとしての成長につながる環境。
業務の裁量権。残業の少なさ。完全週休2日制。
フルフレックス勤務。有給取得100%可能。

もう少し給料を望めばそれはそれで不満を言えるのかもしれないが、現時点で同年代の平均よりも多くもらいながら、残業をすればもっともらえうような環境でそんな烏滸がましいことを言う私ではない。

少々、「30代はちゃんとキャリアを積み重ねていこう」と考えた「30代の1社目」にしては、出来すぎた職についてしまった。
それゆえ、とても暇で、時間も精神も、余裕ができてしまった。

結論から話すと、学ぶことにした。

元からIT系の資格試験は受けており、読書もかなりする方ではあった。
具体的な手段としては「放送大学に入学することにした」

自分用の備忘録なので、以降から思考の整理を書いていこうと思う。

IT × ?

転職の時、2択を考えた。

① IT職以外につき、ITをサブスキルとして強みにする。
② IT職につき、IT以外のサブスキルを強みにする。

結果としては②を選び、具体的には前職での現場DX経験を活かして、大企業の社内DXを担当することになった。
しかし、入社の決め手は完全に上司とのマッチングであり、結果的に先のことを考えるのに困るくらい恵まれた環境で仕事させてもらっているものの、上記の2択は「結果的にそうなった」という選択となった。

そうなると当然、入社半年以上がすぎて「あ、もうこの職場で、この仕事を自分はしばらくするんだ」と実感できたところで
「じゃあ、自分は何をサブスキルにするんだ?」
という問いが残っていることに気づく。

こちらも結果から話そう。
「心理学」
を選ぶことにした。

「なぜ心理学?」と言われると、別に昔から何か興味が強かったとか、未練があるとか、そういうことは全くない。
むしろ今までの自分と一貫して「積極的に消極的な選択をした結果」なのではないかと思える。

話の流れはこうだ。
完全週休2日制×フルリモート×フルフレックス×有休取得100%可能の労働形態となったが故に、自分にとって
・「どこに住むか?」が仕事と関係なくなった
・年単位で、自由に使えるプライベート時間がめちゃくちゃ増えた
・資格試験の勉強などはしているものの、ITは仕事でかなりスキルアップできる
という「普通に働いていればある程度は満足できるメインキャリア形成」ができると確信してしまった。

そうなると
・気が向いた時に住みたいところに引っ越せばいい
・今までの過ごし方だと時間が余る
・今までプライベートでしていた学習の一部が仕事になる
となり、ざっくり言ってしまえば
「暇すぎる」
という状態になったのである。

そんな時に、サブスキルの習得課題があったことを思い出した。
当然、IT以外で。
さらに言えば、土木工学もあまり面白くなかった。
農学系もハマらなかった。

そうして消極的に、ないものから消していったのが最初だ。
そして次に「なるべくお金がかからない」というのも自分にとっては大事だった。
正直、暇だから始めることである。始めたことでお金がかかって、そのためのお金を稼がないといけなくなったり、始めたことのために金銭面を気にしながら生活しなくてはいけないというのは元も子もない。

よくいるビジネスマンではMBAを取得するぞとか。オンラインサロンで新規事業をやるぞとか。NPOを立ち上げるぞとか。
そんな意識高く志し高く、社会貢献や金持ちになる、いわゆる「自己投資」の意識で精力的に活動する方々は多い。

しかし、私の場合はそうではない。
単に「暇」なのだ。
これを忘れてはいけない。
私は何も成し遂げる気もなければ、何かに貢献する気もない。ましてや自分の何かを変えたいわけでも、社会に感じる疑問を自分の力で解決する気もない。

ただ、家で「暇だなぁ」と思ってSNSを見ているよりも有意義に過ごしたいと思っただけなのだ。
そこに、お金をかけるというのは目的がぶれてしまう。
そう思い「何かいい方法がないか」と考えてみた。

そうしてたどり着いたのが「放送大学で心理学を学ぶ」であった。

サブスキルさん、いらっしゃい。

放送大学を最終選択とした理由を、屈託なく以下に述べてみようと思う。

①学割が使える
これは非常に大きい。
学ぶことで、社会的な「控除」のようなものが受けられるわけだ。
学ぶことで、学んでいない人よりも何かしらの優遇を受けられるのだ。
素晴らしい制度ではないか。学割。

②学生証が手に入る
ちょいとずるいが、学生証さえ持っていれば「弱者ぶる」こともできる
自分の素性を聞かれた際に、会社の名刺ではなく学生証を見せれば
「30歳で、放送大学に通っている30代」
という、他の情報を隠しさえすれば「なんか事情がある人」としてみてもらえるのだ。
これは「世間に"ほっといてほしい"」と切に願い、平穏に生きたい私には都合がいい。相手によって、見せたい自分を変えられるのだ。

③通学しなくて良い
一部の特殊な科目を除いては、オンラインで完結する。
完全インドアな私にうってつけだ。
なるべく家から出たくない。そして着替えたくない。
PCをひらけばそこは教室。そして、話が遅いと感じたら再生速度をアップ。
普段からAmazon Audibleを2.3倍速くらいで聴いている私にとっては、時間を有効に使えるので非常にありがたい。

④授業料が課金制
まず国立大学なので学費は休めな上で、通常の「1年で学費がいくら」ではなく、「1単位履修すると5,500円」という仕組みなのである。
私の場合、すでに学士を持っているので3年次編入となり、ざっと計算して40万円くらいで卒業可能である。
学割の恩恵も受けながらゆるゆると仕事と両立しながら学習するつもりなので、3年間で40万円くらいのを使っていると考え、さらに学割で3年間で10万円くらいは得をすると考える。
すると、実質月1万円もかからずに、3年後にはもう1つの学士と、認定心理士の資格と、臨床心理士&公認心理士となるために大学院に進むのに必要となる単位習得が完了するのである。

さて、そんなこんなで放送大学を選び、10月から入学するわけだが、決してこの記事で放送大学の素晴らしさを語りたいわけではない。
あくまで最適な手段だったというところの説明として、上記の項目をとらえていただければと思う。

そうして「放送大学に編入する」は決まった。
さて、では「何を学ぶか?」である。
実はこれの方が後に決めたのである。

6コースの中で、同じように「積極的に消極的選択」をした。
社会と環境コース:土木工学の修士を持っている
情報コース:本業がIT
人間と文化:読書でよく読む
社会と産業:興味があまりない
生活と福祉:興味があまりない

となり、晴れて「心理と教育コース」に決定した。
そして「教育は部分的にしか興味ない」ということで心理学をメインにした。

こんなもんで「30代の3年間を、心理学を大学で学ぶ」という決定がなされた。
(なお、放送大学は「教養学部」の中に6つのコースがあるので、学士としては「教養」の学士の取得となり、「心理学」ではない)

大人のハッピーセット

今後3年間の学習に新たな仲間「心理学」が加わってみて思った。
「なんか、やるとなったらちゃんとやりてぇな」と。

そう、私は友人たちに「律儀」「無駄真面目」と言われるような人間なのである。

そういえば、元から資格試験の情報を調べたり、実際に受けたりするのも好きであったので、心理系の資格もあったはずだなと。
そしてその資格には単位の取得が必要だったので、昔調べた時に諦めたはずだなと。そう思い出したのである。

改めて調べてみると、自分がやろうとしていることをやれば、臨床心理士や公認心理士の資格試験の受験資格が満たせるではないか。

ただし「心理学の修士を取れば」である。

そうなると、
・どうせ3年後も独身で暇である
・どうせ3年後も今の職場でこの働き方なら暇である
・どうせ3年後も今のモチベである
ということで、
「んじゃせっかくだから、心理学もプロになるか」
ということで、めでたく「IT×心理」の、キャリアデザインが完成したのである。

旧帝大の理系の院を修了した私にとっては、十分に実績として「大学院を修了する」も「臨床心理士&公認心理士の資格を取得」も、時間が許されれば問題なく実現可能な目標として設定することができた。

元から特に人生をかけて実現したいこともなければ、社会貢献や課題解決に自分の人生を捧げる気もなく、
「自分から見える世界が幸せならそれでいい」
という理念で生きてきた。

そして、暇だから学び、なるべくお金をかけたくないのでこの方法を選び、せっかくだから修士と国家資格まで取ろうと決めた。

そうなると、次にまた疑問が浮かぶ。

「そんなにしてまでその肩書き欲しいか?」

いや、まぁ、なければないでいいなと。正直にそう思う。
だからこそ、その先を考えてしまったのである。

Sekkaku

Tonikakuがイギリスを、世界を沸かせた。
それなら私も「Sekkaku」として自分の世界を沸かせてみようか、と。

そうして心理のプロになった自分を想像してみた。
自分はそのスキルと知識、学習経験を持った時に、その力をどう使いたいかなぁ、と。

結論を言うと
「スクールカウンセラー」
であった。

正直、教育を根本から変えようとは思わない。
教育背景の大事さは身に染みてわかっているものの、正直社会に出てからの経験や学習でかなりの面は挽回できる余地が人間にはある。
そして社会にインパクトを与えるのは、もっとバイタリティのある方々に任せるのが俺のスタンスだ。教育の制度を変え、キャリア教育を推進し、ぜひ「自分の押し付けたい教育」を存分に「新しく、素晴らしい教育」として選択権や判断力の乏しい学生たちに押し付けてくれと思う。

現状を変えたくて意識高くキラキラとやったことを若者に押し付けるのは、私のタチではない。それはある面で、大人たちのコンプレックスを子供達に押し付けている面もあるだろうと冷ややかに思う。

だから私は、それはしない。それをする人たちを否定しようと躍起になったりもしないので、距離を置くとしよう。

そんな私だからこそ「押し付けない」「関わりたい人だけ関わればいい」という存在として、自分の力を使いたい。

そう思い、軽薄なイメージではあるが
「何か話したいことがあったり、悩みがある生徒が足を運ぶ、学校の隅っこにある部屋にいいる大人」
と言う像に自分を重ねてみたら、しっくりきたのである。

学校行事の華やかさはない。全員が無理に関わりを押し付けられることもない。
私の学生生活もそうであった。
そして今の社会人生活もそうだ。
しかし、それでいいではないか、と。それでも、自分が楽しいと思えることをして「まぁ、そこまで頑張らなくてもいいか」と若者が思える部分が、学校にあってもいいのではないかなと思う。

そんな想像で、私の5年以上の計画が始まった。

私は、いつかどこかの学校で、情報学の臨時講師をしながら、スクールカウンセラーをしながら、フルリモートのITエンジニアとして学校のどこかにある小さな地味な部屋で、若者の人生のほんの1ページに行きたい、と。

少しだけ、語ろう。

さて、志の低いキャリアが決まったところで、もう5年間は目の前のことをしてればいい。だから思考のリソースが余ってくるので、自分の考えについて好きなだけ語ろうと思う。

学校というのは、特殊な環境だと思う。
普遍的な教育もなければ、社会や仕事ともあまり類似点がない環境。
何より「先生」という謎の存在。

私にはどうもこの「先生」が、最適な形で学校の中に存在できていないように思えてならない。

違和感を持つ点は1つ。

「なんで"高校→大学→学校の先生"と、学校の中から1歩も出ていない人が、95%以上は社会に出るであろう若者の3~6年を監督するのであろうか」

である。

私は私立の中高一貫校に通い、客観的にみても母校は超進学校であった。
200人の同期のうち大学進学しなかった人は5名もおらず、200名のうち教職に就いた人は5人もいない。
一般的に、学生の進路というのはそんなものだと思う。

割と柔軟な校風と教育だったので、キャリア教育にも熱心ではあった。
職場見学や、講師を招いての講演など、社会や仕事との接点、イメージを持つためのカリキュラムは用意してくれていたと思う。

しかし、それは学生たちにとって「非日常のイベント」でしかなかったように思う。

普段の学校には、大人は「先生」しかいない。
自分の父親しか、サラリーマンを知らない。
ましてやうちの家は公務員家庭だったので、俗に言うサラリーマンを知らずに育った。

振り返れば、もっとも「普通の社会人」だったのは、「学校事務のおばさん」だったろうと思う。
しかし当然ながら、学校の受付事務をしているおばさんに高校生が気軽に話せる接点もなく、「普通の社会人」としておばさんたちが講演をすることもなかった。

だからこそ思う。
「いつでも話せる"普通の大人"が、学校に1人くらいいても良くね?」
と。

それもできれば「学校が生徒に期待する"順風満帆なキャリア"を歩んでいない、内心ちょっとバカにできるくらいのおっさんが校内に1人はいてもいいのでは」と。

前向きな教育を否定はしないし、経営者の話は貴重だ。
活躍している大人のロールモデルを見せれば、学生のモチベは上がるかもしれない。
だが、マジョリティではないだろう。

学年に200人いたとして、経営者になるのは。脚本家になるのは。教育講演で生計を立てるのは。果たして何人いるだろうか。

ほとんどの若者が、サラリーマンになり、上司の要望に答え、半年ごとにボーナスをもらい、人事査定で収入を上げていく。

その社会にとって、その前段階の学校は、ちょっと現実味がないのではと、一面的な見方ではあるが切に思う。

そんなこんなで、どうせおっさんになっていくのなら、若者の人生で「普通のおっさんのロールモデル」をやってみたいと、30歳になった私は思ったのであった。

最後に

そろそろ記事を締めようと思う。
なぜここで締めるのか、それは「疲れてきたから」である。
「眠いから」である。「書きたいことは書いたから」である。
「気が済んだ」からなのである。

大人は、そんなもんなのである。
いいものばかりを見せられて、キラキラとキャリアを描いていくのは確かに前に進んでいくかもしれない。
しかし、そんなことしかしていないから、3年以内に新卒が辞めて、第二新卒なんてのがいい制度になっているのではないか。

22歳まで現実を見せないのもまた一興。
しかし、18歳の時に普通のおっさんが学校内にいるのも、また一興ではないか。

私が心理学のプロを自称できるようになることに、ITは、そして学校教育はどうなっているであろうか。

もしもその時に私の「IT×心理」そして、20代をふらふらと過ごしたキャリア、そして暇だから普通の社会人のおっさんのロールモデルになろうと決めたそのスタンスに需要があれば、私は誰かにとっても「普通のおっさん」になれているだろう。

「青春」という本を執筆する上で「華がない」と編集者にカットされるようなその若者の一瞬に、自分が「普通のおっさん」というモブキャラとして存在できることを祈って、今後の5年間を生きてみようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?