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本物の精神と偽物の精神②

 前回はもう少しこのテーマを掘り下げたいとして終わっていましたので、今回はその続きとなります。
 本当は本物の精神はどのように育っていくのか、逆に偽物の精神はどの様に育つのか、なども触れたかったのですが、長くなりすぎるので断念しました。
 今回は工事のインタビューから観る本物と偽物の精神の違いがテーマとなります。

偽物は物事の本質を履き違える

 早速みていきましょう。インタビューの要点だけをまとめると以下です。

  • 井上は実力は頂点だけど付属品が無い状態

  • 他の選手が絡みやすくなるよう隙をつくらないといけない

  • 勝つ姿を見せるだけでは(業界を盛り上げるのは)難しい

 皆さんはどう思ったでしょうか?私は「こいつは酔っ払ってるんじゃないのか」と呆れ果ててしまいました。そして本物と偽物は決して交わらないものなんだなぁという感想を持ちました。
 
 誰が見ても明らかですが、本物は付属品など求めません。むしろそのようは不純物は嫌うものです。だからこそ井上選手も強さだけで観客を惹きつけたいとあらゆる媒体で仰っているじゃないですか。
 恥ずかし気もなく付属品を求めるのはまさに偽物の精神だからこそです。この発想こそが偽物の極致、付属品が本体よりも立派な工事だからこそ言える迷言なのかもしれません。

 次に隙を見せるとかいう戯言なのですが、おそらくトラッシュトークなどの事を言っているのではないかと思うのですが、あまりにも的外れなので触れる気にもなれないのが正直なところです。
 ここも付属品の話と同様、180度違う点だとだけ言っておきます。

 最後の勝つ姿を見せるだけでは駄目だとかいう寝言はどの口が言うんだといったところでしょうか?
 偽物はここまで履き違えてしまうのかと驚くしかありませんでした。
 ここも馬鹿らしくて真面目に論じる気にもなれませんでした。
 どうしても好きでもないものを語る気にはなれなかったので、申し訳ないのですが、私にはこれ以上は無理でした。見出しの通り、偽物は物事の本質を履き違えて、無関係なものを追い求めてしまうとだけ言っておきましょう。

本物と偽物は決して交わらない

 以上がフェイク野郎工事のインタビューの要点です。まさに水と油の様に、本物と偽物は決して交わらないという事がお解り頂けたかと思います。
 そしてそれは精神からきているものです。つまり本物は精神も本物であり、偽物は精神も偽物で、両者は正反対のもので、考え方や価値観、捉え方が180度違ってくるものであり、それ故に決して交わるものではないという事です。
 これが本物が偽物を嫌う理由でもあり、工事に対してフェイク野郎という批判的な声が多い理由でもあるのです。

 しかし私は格闘技やスポーツの世界は、フェイク野郎に対してフェイクだと言える人がいるだけ羨ましいと感じてしまいます。
 私が専門と定めた音楽の分野では、本当に奇妙な現象(履き違えた奏者と履き違えた聴衆)が常態化しており、心ある一部の人達を除いて誰も疑問に思わなくなってしまいました。
 この件に関してもいつか論じる時が来るかもしれません。

 さて、ここまで本物の精神と偽物の精神の違いについて長々と説いてきましたが、要約すると人間は精神であり、精神の質の違いがこれ程までに大きな違いとして現象してしまうという事を、超一流の本物である井上尚也選手と、その対極に位置する偽物の代表である工事を比較する事で説明してきました。
 この例だけではなく、人間というのは精神が何よりも大事なものです。精神が低レベルだと人間が低レベルだと言っても過言ではないくらいです。
 工事のように恥ずかしい人間になりたくないなら、せめて精神だけでも人に誇れるレベルでありたいものです。
 最後に参考にしたインタビューのURLを貼付して今回の記事は終わりとします。 


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