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大人が自分のために読みたい絵本

これまでは、大人同士の読み聞かせの場作づくりにこだわってきたドンハマ★ですが、#Stayhome で、家で過ごす時間が増えてきました。そして、改めて絵本と向き合ってみて、物語としての深みやおもしろさを再発見しつつあります。

みんなで場を作る、読み聞かせのライブ感も捨てがたいのですが、ひとりの時間も絵本とともにいて、豊かな時間を過ごしたい。誰かのためでなく、自分のために絵本をもっと楽しみたい。そんな気持ちで、このコラム書き始めました。

『ペンキや』(作/梨木香歩 絵/出久根育 理論社)

自分のメガネでは、見えないモノ

この絵本は、長い間、本棚のしまわれていました。最初のきっかけは、もう忘れてしまいましたが、作者である梨木さんのことが何かで紹介されていて、直感的に読んでみたいと思い、梨木さんの絵本作品を何冊か買ったのです。

その当時、読み聞かせイベントに力を注いでいた私は、ざっと目を通したものの、版も小さく、文章量も多いこれらの作品を読み聞かせには向かない、自分には関係の薄い作品と考え、そのまま本棚の奥にしまってしまったのです。縁があるとかないとか、本当にそういう思い込みとか、自分の色メガネで起きるものなんですね。

でも、結局は、縁があったということでしょうか。私の脳裏のどこかに梨木さんの絵本のイメージが残っていたのだと思います。書籍『絵本の冒険 「絵」と「ことば」で楽しむ』(フィルムアート社,2018)をたまたま読んでいて、梨木さんが書かれているのを見つけたのです。普段手掛けておられる小説や文学と絵本の違いについて書かれていました。

こういうリズムで読んでもらいたいな、と思うときでも、文筆だけの世界ではせいぜい点を打つとか、改行するとかいうわざしかなく、ここは行間に立ち止まって、味わってもらいたい、と思うようなところでも、読み飛ばされたらおしまいです。・・・とにかく、その作品世界に入ってもらうことが第一歩なのですが、絵本はその点、視覚的に一瞬で有無を言わさずその世界に引き込み、誘うことができる。活字だけの紙面より、その世界へ入るハードルが低いのです。

「ハードルが低い」と書かれているのに、絵本でさえ読み飛ばしてしまっていた自分は、一体なんなんだ!と思いました(汗)。そして、どこかに絵本があったはずと探しました。ありました、ありました。ぜんぶで4冊ありました。普段はあまり見ない場所にでは、ありましたが。

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「ワニ」「マジョモリ」「ペンキや」「蟹塚縁起」(いずれも理論社)

そして「ペンキや」を読んでみた

そもそもなぜ絵本を作ろうと思ったかというと、絵本なら、文字だけのときには不可能な、行間を可視化できる、という魅力的な特徴があるからです。(前述『絵本の冒険 「絵」と「ことば」で楽しむ』より)

梨木さんが最初に手掛けたのが、この「ペンキや」だったそうです。さっそく、読んでみようと思いました。幸いなことと言っていいでしょうか。以前読んだはずのストーリーは、まったく覚えていませんでした。とても新鮮な気持ちで読み始めることができました。

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(理論社,2002)

まず表紙。正直、ちょっとコワい感じがしました。この男性(らしき存在)は、主人公なのでしょうが、ちょっと不気味な感じがします。刷毛の先っちょを見ているようでもあり、実際の視線は、もっと遠くに注がれているようでもあります。そんな違和感も感じながら、本文を読み出しました。

読み聞かせに慣れている私は、文書量の多い絵本と遭遇するとどうしても気持ちが身構えてしまいます。だいたい見開き2ページのうち片方のページには、かなり小さなフォントでかなりびっちり書かれています。絵本を読むのでなく、小説を読むモードに自分を切り替えねばなりません。

主人公のしんやは、ペンキ職人で、それもまだ見習いでした。お客さんの注文通りの色が塗れず、苦労している様子が綴られます。数年前、我が家の外壁を塗り直したのですが、できあがってみると、部分的に違う色に見えて、しばらく気になって仕方なかったのを思い出しました。太陽光の反射も関係して、ペンキの色って本当に再現が難しいと思います。

そういう主人公の父親も実はペンキ職人だったことが母親から語られます。それも「不世出」(=この世に二つないほどすぐれたさま)と言われるほどの腕利きだったことがわかります。

例えば、田舎から都会に通学する女学生の話があって、毎日列車から見える雑木林の代わり映えしない様子に飽き飽きしていたところに、ある日こつ然と湖が出現し、心奪われてしまうというエピソードがあります。湖と言ってもそれは、ペンキ職人である父親が若い時に描いた看板だったわけですが、一瞬にして人の心を奪ってしまうほどの絵とはどんなものなのでしょうか?気になります。

しかし、この絵本には、窓の向こうを一生懸命に見ているセーラー服の女学生の後ろ姿の絵はあっても、その湖が描かれた看板そのものの絵は描かれていません。それが余計に私のイメージをかき立て、結局、自分の記憶にある諏訪湖のキラキラと湖面がうごめく情景が増幅されていくのでした。

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絵本の特徴として「行間を絵で可視化する」とありましたが、「絵を描かないことによっても可視化される」という逆説的な体験になるかもしれません。

さて、物語ですが、その女学生こそが、将来、不世出のペンキ職人のパートナーとなる人であり、しんやの母親となる人でもあることがわかります。つまり、やは、ペンキ職人のたぐいまれなる才能とそれを見抜いた審美眼の2つのDNAを受け継いで、この世に生まれてきたとも言えるのです。

これが、’行間を絵で可視化’の感覚

さて、しんやは一人前のペンキ職人になるべく、父親の姿を追って、かつての父親と同じように、フランスに船で向かうことになるのです。船旅の途中、日銭を稼ぐために、甲板の掃除をします。甲板の床磨きをしながら、1日の中で、ありとあらゆる色が、空と海に含みこまれて行く姿を目にするのです。

「朝焼け」「夕凪」「夜の海ですら・・・」という言葉を紡いだ時点では、明らかに見開きでこの一言だけ入れる、というビジョンがありました。・・・画家の方に素晴らしい絵を入れていただきました。出久根育さんは、彼女自身独特の世界を持ったアーティストなので、自分の考えたストーリーが、彼女の世界のなかで生かされていくのを見るのは喜びでした。(前述『絵本の冒険 「絵」と「ことば」で楽しむ』より)

見開きページに描かれた、しんやが海を見ているシーンの中に、読み手の私も「朝焼け」「夕凪」「夜の海」の色を自分の視覚でとらえることができました。それは、梨木さんの短いフレーズに、出久根さんの色彩が呼応し、それがまた私の脳裏の中に入ってきて、再び増幅していくような感覚でした。きっとこれが、梨木さんのいう「行間を絵で可視化する」という感覚に近いのかもしれません。

「ユトリロの白」

「ユトリロの白」で塗ってほしいと、不思議な注文をする女性(らしき存在)が出てきます。しんやには、最初その意味がわかりませんでしたが、旅先で、父親という存在をさらに知るようになることで、その意味がだんだん感じ取れるようになっていくのです。しんやが立派なペンキ職人に成長し、その後の人生まで、話は続きます。人生最大の大仕事、ユトリロの白を塗るところまで。

登場人物のリアルな記述も多く、人間性やその関係性についても思いを馳せることができました。しんや、父親、母親、しんやのパートナーゆりさんなども登場しますが、いずれも透明感があって、まるで空気のような存在です。リアルでないようで、リアルな感覚。これをそばにいて心地よい関係性というのでしょうか?

表紙の絵が不気味だと書きましたが、本文中に描かれている登場人物も大抵は無表情に近く、やはり不気味な感じがあります。しかし、その無表情さから、表層的な人間関係を言葉や笑いで取り繕う凡庸さではなく、他者の内面を見抜き、自分の源泉となる価値観にまっすぐに突き進む《純粋な力》を感じ取ってしまうのは、私だけでしょうか?

梨木さんの世界観と出久根さんの人物画の個性が、相まって、味わい深い絵本作品ができあがったと感じました。大人の方にゆっくり読んでいただきたいと思います。

                         (記・ドンハマ★)


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