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しゃぶしゃぶアイデンティティ。

しゃぶしゃぶになることが、僕の大きな悲願だった。踊り食いしゃぶしゃぶでも、姿見しゃぶしゃぶでも、オーソドックスなしゃぶしゃぶでも、なんでもいいからあの出汁を効かせたスープを潜り抜け、タレにべっちょりと浸かりたかった。矢継ぎ早に咀嚼されたかった。現代の規範においてそれはなかなか叶わないけれども、僕の悲願であることには変わりがなかった。しゃぶしゃぶになれないまま焼き尽くされた、しゃぶしゃぶアイデンティティをもつ先人達に思いを馳せると、僕はいつも悲しい気持ちになる。しゃぶしゃぶになれる自由もなくて、何が多様性だ。何が民主主義だ。僕はただしゃぶしゃぶになりたいだけで、誰に迷惑をかける訳でもないのに。

僕はよく、美しい夢をみた。しゃぶしゃぶになった僕は、これ以上ない多幸感に包まれていて、咀嚼されるたびに喜びが全身を包み、食堂を伝う時のそれはエクスタシーすらも凌駕していた。夢が醒める度に、僕の頬には冷たい涙が落ちた。しゃぶしゃぶアイデンティティをもつことが、どうして間違いになるんだろうか? 


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