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ダム。

ダムの下に自分の生家があることを知った時、真っ先に浮かんだのは怒りではなく憐れみだった。朧気な記憶の中にある生家に、愛情と呼べるほどの思い入れはなかった。でも、風船を萎ませる時に空ける小さな穴みたいに、私の心の何処かに空白は生まれた。それは哀しみに似た、憐れみだった。運命を受け入れた、諦めだった。

その水は、私に必要な水ではない。半導体工場への誘水のための、言い訳みたいな理由は治水だった。正直になれない人々からは、アイヒマンみたいな憐憫を感じざるをえなかった。私が感じている仄かな痛みは、想像力の問題だ。つまり、歴史だとか信仰だとかが付随した、憎いくらいに愛した生家が同じ分だけ沈んでいるのかもしれない。そのために絶たれた命があるのかもしれない。私の憐れみには、そのようなストーリーが想起されている。

崩れ落ちゆく木々を見て、私はその綺麗ではない水を愛そうとした。しかし、そう出来たのかは分からなかった。


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