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味のない煙。

閑散としたパブでシーシャを吸っていると、一席を開けたカウンターに女性客が座った。彼女は腰を下ろすとすぐにオーダーをして、『時計じかけのオレンジ』の文庫本を開いた。僕は傍目でその表紙を見て、彼女が誰かを望んでいる雰囲気を感じとった。もちろん、『時計じかけのオレンジ』を開いたことはきっかけに過ぎない。(猟奇的な小説が、そのサインであろうはずがない)それは一つの状況なのだ。誰かを求めている女性がいて、僕がここにいる。僕はいつもより深く煙を吸いながら、その機を覗っていた。

しかし、僕はねじの外れた人形みたいにてんで動けなかった。僕はそれなりに社会性がある方だったし、こちらが欲望に負けて無理強いをするといった状況でもないのだ。それなのに僕は動けなかった。勇気を出すまででもない機会をみすみす見逃したのは、これが初めてのことだった。

彼女は『時計じかけのオレンジ』を七章ほど読むと、少し味の残したシーシャを吸い終え、店を後にしてしまった。僕は味のない煙を吸いながら、言い訳ばかりを考えていた。


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