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「ただいまと言える場所」第2話

窓から見える赤いタワー、東京 二十三歳の冬

「どうして、そんなことも分かってくれないの?」
 私は苛立ちを抑えることなく、感情を爆発させ、佑馬を睨みつける。二人で暮らす1LDKのマンションはとんでもなく狭く、いつも物が溢れている。佑馬は、私の言葉に何も言わず、無言で下を向いている。まくしたてるみたいに私はそんな佑馬に怒号を浴びせる。しばらしくして佑馬は黙って部屋を出ていった。時計の針は二十二時半を指していて、明日も平日だからお互い仕事がある。
「ちょっと、言いたいことあるなら何か言ってよ!無視しないで」
 私は去っていく佑馬を追いかけようとしたが、涙がぼろぼろ零れてきて立ち上がれず、そばにあったスマホを手に取り、佑馬に電話をかける。彼は出てはくれない。二十秒くらい呼び出して一旦切る、六回ほど繰り返す。不在着信の量を増やしたくて、わざとやっているが、そんなことしても不快に思われるだけだ。そう分かっているのにやめることが出来ない。今日の喧嘩の原因は、私が職場の人間関係について佑馬に話をしたのだけど、その反応が悪く、聞いているかどうかも分からない佑馬にきれたのだった。喧嘩の理由は色々だけど、私が一方的に怒ることが最近週に一度くらいはある。一時間位経った頃、佑馬が戻ってきた音がした。私は小さな子供の様に、泣きながらソファーで眠ってしまっていた。

「おかえりなさい」
 さっきまでの怒りがいつのまにか消え、何事もなかったかのようにそう言うと、佑馬も
「ただいま。コンビニでアイス買ってきたよ」
と言った。私たちは炬燵に入りながらアイスを食べる。佑馬が選んでくれたアイスは私の好きなチョコレート味だ。いつからか、こんな日常が当たり前になっている。
 
 佑馬は高校卒業後、東京の大学に進学し、文学部で芸術批評を学んだ後、小さな出版社に入社した。私も大学で上京し、経済学部を卒業後、Web広告の会社へ入社した。大学二年の時に叔父が交通事故に遭い、足が不自由になり、札幌の介護施設に入った。年に一回は札幌に会いに行っているが、稚内には行っていない。東京の施設の入所を勧めたけど、叔父はどこも一緒だからと笑って答えた。私の負担になりたくないのだろう。就職ももちろん自由にしてくれと言われ、ちょうどその頃、二十歳になる歳だったので母の遺産を相続した。高校二年生の夏から今まで佑馬とはずっと交際を続け、佑馬が就職するタイミングで一緒に暮らすことになった。だから、もう二年近く一緒に暮らしたことになる。とはいえ、東京に出てきた頃からお互いの家を行き来していたのだけど。
 深夜一時前、佑馬と一緒に布団に入る。私は佑馬に後ろから抱きしめてもらう形で眠りにつく。セックスはもう一年以上していない。

「久しぶりに同期で飲もうよって小林が」
 同期の沙也加とは隣の部署だから、時間が合えばいつも一緒にお昼を食べている。社内食堂なんてない小さなオフィスで、二人でお弁当を買いに行くか、週に一回くらいはレストランのランチに行く。今日は、二人とも余裕がある日だったので、オフィス街のビルの地下にあるタイ料理屋に来た。
「年末、同期で忘年会するって話も流れたもんね。今週末も来週末も開いているよ」
 私はパッタイを口に入れる前にそう答えた。
「OK!小林が他の皆には連絡してくれるでしょう。全員揃うと良いな。まあ言って五人だからね」
 沙也加はそう言い、スマホを取り出す。北海道にいたころまでは余計なことを考えてしまい、人付き合いが苦手だったけど、徐々にその感覚は薄れていった。母の死の影響があまりにも大きく、甘えることが出来なくなってしまっていたけど、佑馬と出会い心の拠り所が出来た気がしたから。それに加えて、稚内を出て東京で暮らし始めたことも大きかった。東京には色々な人がたくさんいて、私のことなんて誰も気に留めていない。そう思うと気持ちが楽になる。
「ナンプラーってたまに恋しくなるよね。あっやば、もうこんな時間。流石にちょっと急ごう」
 沙也加はそういって目の前の料理を忙しなく食べ始めた。
 
 学生の頃行っていたような大衆の安い居酒屋とは違う少し上質なお店で同期会は開かれた。ビルの一角であるが、古民家風に改装してあり、安っぽいものではなく、本物の材質にこだわった木のぬくもりを感じられるお店だった。金曜日の十九時からで、遅刻する人はいたけれど二十時過ぎには全員が揃った。私は生ビールから始まり、今はホットの梅酒を飲んでいる。基本的には仕事の愚痴や情報共有が多く、共通の話題があるから話は弾む。一つ上の代の女性と四十代の男性の社内恋愛の噂話をした後、それぞれの恋愛の近況について話す流れになった。
「美月ちゃんは彼氏と同棲してるんだよね?」
 ビールを四、五杯は飲んだであろう小林が私に尋ねる。
「そうだよ」
「付き合ってどれくらいだっけ?」
 他の同期も会話に加わる。
「高二からだから…もう五年以上」
 私がそう答えると、みんな予想通りの反応をする。長いね、すごいね、最後には必ず結婚しないの?と誰かが言う。

 金曜二十二時の渋谷駅は、ひどく混んでいて、二軒目に行くという何人かと別れて、私は電車に乗る。家に帰るのではなく、大学の同級生の野田君の住む家へ。仕事終わりに「今日うち来たら?」と連絡が来ていたのだ。明大前駅のコンビニで酎ハイ二本と水を買う。歯ブラシや洗顔セットは先月行ったときは私の分が置いてあったから、まだ保管してくれているだろう。
「お疲れ」
 野田君はそう言って、扉を開ける。学生の頃から、他の一人暮らしをしている生徒より良い部屋に住んでいた野田君は変わらず同じ部屋に住み続けている。私はここに学生の頃から何度も訪れている。
「酔っぱらっている?」
 そう聞かれて、私は頷く。梅酒の後に一杯だけ飲んだ日本酒が私を上機嫌にさせている。
「シャワー借りるね」
 私はそう言い、野田君の家でシャワーを浴びる。風呂上がりの缶チューハイを飲んで、私は野田君と抱き合う。もう何十回とセックスしているけど、いつも不思議な気持ちになる。

「今日も朝からラーメン食べるの?」
 一人暮らしの部屋に不釣り合いなアイランドキッチンで、野田君はラーメンを茹でている。
「美月も食べるでしょ?二人分茹でようと思ってた」
「うん、多分。目の前にしたら食べれちゃう」
 野田君は冷蔵庫を探っている。
「あっ卵最後の一個しかないから半分こね」
 野田君も佑馬みたいに、同級生の男子より少し大人びていて、一年生のドイツ語のクラスが一緒で、ずっと親しくしている。二年生の夏、共通の友人数名と飲んだ帰りにキスされて、私が驚いて拒むと、私に落ち着いて「嫌ならやめるよ」と彼は言い、私は首を振った。でも、野田君は私が高校時代から付き合っている恋人がいることを知っていたし、こういう関係だけを望んでいるようだった。私も佑馬と別れるつもりはなく、ただ佑馬としか関係を持たずに過ごすのがなんだかもったいないように思い、求められるがままに関係を続けている。私の中で佑馬に対する罪悪感はない。

「俺、彼女出来そうなんだよね」
 土曜日の朝、九時に一緒に味噌ラーメンを食べながら、野田君は言った。
「えっ」
 私は驚いて何も言えなかった。
「何?ちょっとは嫉妬してくれてるの?」
 野田君がふざけてそう言ったが、この戸惑いは嫉妬からくるものではなく、単純な驚きだった。
「特定の彼女なんていらないって考えてると思ってたから。そんなに好きな人が出来たんだね。良かったね」
 私が言うと、野田君は突然笑い出した。
「ずっとすごく好きな人はいたよ。ただ、一方的な片思い」
 なんとなく気まずい雰囲気が流れる。
「だから、もう連絡するのやめるから」
 野田君は続ける。
「今までありがとう」
 彼がそんな風に言うとは思ってもみなかったが、恋人がいたらこんな関係続けるべきでないと思うのがまっとうな考えなのかもしれない。朝ごはんを済ませ、私はいつものように昼前にはこの部屋から出ていく。
「特に持って帰るものもないから、歯ブラシとか全部捨てておいて。ありがとう」
 私がそう言って部屋を見渡して立ち上がると、野田君が後ろから私を抱きしめた。
「ずっと好きだった相手は美月だから」
 私はその言葉に何も言わず、彼の抱擁を受け入れた。

 部屋に帰ると、佑馬はまだ眠っていて、私はシャワーを浴びながら、佑馬のことを考える。佑馬は私が時折、外泊することに何も言わない。私のすることを全て受け入れてくれている。
「おかえり」
 洗面所で髪を乾かしていると、佑馬が起きてきて、歯ブラシを手に取る。佑馬は私のことをどう思っているのだろう。いつもと変わらない休日の朝のような何事もなかったかのような時間が過ぎる。私が作ったチャーハンをお昼ご飯に食べた後、佑馬が改まって話を始める。
「美月、俺仕事辞めようと思うんだ」
 佑馬のその言葉は全く予想していなかったので、驚きつつもすぐに感情的になって口を開く。
「えっ何それ?どういうこと?」
「これは相談じゃなくて、もう決めたことなんだ。大学の教授に働きながら大学院に通うことを相談していたらイギリスの大学に留学したらどうかって薦められて…」
 佑馬の言葉を遮って私は言う。
「突然そんなこと…。そしたら私達どうなるの?仕事辞めて海外行って、明確なスキルアップできるわけでもないのに、そんなのおかしいよ。何のために、大学四年生の時、院行かずに就職したの?」
 実は佑馬は大学生の時、大学院進学を希望していたが私が二人の将来を考えて早く就職して欲しいと佑馬に頼んだのだった。
「うん、自分のやりたいことが就職に不利なものだってわかっているし、いわゆる自己満足だって分かっているけどどうしてもやりたいんだ」
 佑馬のその言葉を私は全く受け入れられなかった。
「佑馬はそうやって、私を裏切るんだね。見捨てるんだ。いなくなるんだ。お母さんと一緒。私のそばから離れるんだね。イギリスなんかに行ったら一体いつ結婚するの?私達家族になるんじゃないの?」
 私はパニックになり、泣きながらそうわめきたて、突然息が出来なくなり、呼吸が荒くなる。そんな私を佑馬は強く抱きしめる。
「ごめん」
 そう言って、母親が小さな子供あやすみたいに優しいリズムで私の背中を叩いた。

 佑馬が私に仕事を辞める話をしてから一週間。あの日の晩から、私たちは別々の部屋で寝て、話をしていない。週末の金曜夜、私は家に帰りたくなくて、会社の近くを歩いていた。野田君とももちろん連絡をしていなくて、こんな時に気軽に相談できる友達が私にはいなかった。大学でも職場でも、その場で仲良くする友人はいても、それは全てうわべだけの関係だった。私の本当の姿を知っているのは佑馬だけで、佑馬の前で見せている自己中で幼い自分を他の誰も知らない。会社の最寄り駅は赤坂で、歩いていると東京タワーが見える。同期の小林は、関西から就職で上京してきたので、仕事終わり一緒に外を歩いている時に東京タワーが見えると嬉しそうに声を上げる。私はそんな小林を冗談っぽく、からかうが、本当は小林の気持ちがよくわかる。いつも変わらない景色が見えるということに私は心から安心する。稚内の海は季節や天候に大きく左右されていたけど、東京タワーは違う。海みたいに穏やかだったり、荒れて乱れたりしない。いつも変わらずそこにある。私はそんな東京タワーみたいな佑馬に甘えすぎているのだ。佑馬を束縛し、苦しめている。もう佑馬を開放しなくてはいけない。母親を失って、頼れる人の居なかった思春期の私はもういないのだから。東京タワーは優しいオレンジ色をしていて、温かみがあるその光に都会の孤独に押しつぶされそうな弱い人たちは知らないうちに励まされているのだ。立ち止まって、暖色の光を見ていると、ぽつりと雨が降ってきた。オレンジ色は雨のせいで滲んでいるみたいだった。私は、傘も差さずその場に立ち尽くす。

 その晩、私は佑馬に別れを切り出した。佑馬への愛情はいつしか形を変えてしまったこと、愛しているけど私は佑馬に依存することで精神を安定させていること、佑馬を大切にできていない自分は佑馬を幸せにできないということ。佑馬は、私の話を最後まで聞くと、「ごめん」とだけ言った。それから冬の終わりまでに私たちはそれぞれ新しい場所へ引越しをした。新しいマンションのベランダから東京タワーをかろうじて見ることが出来る。

↓第3話

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