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「ただいまと言える場所」第3話

見上げればいつも見えるもの、ケープタウン 二十九歳の冬

 テーブルマウンテンと呼ばれる山がこの街のシンボルで、街の中心地を歩く時、見上げれば必ずといっていいほど、視界の中にその山を見つけることが出来る。海沿いの街であるケープタウンの繁華街から十キロもいかない場所にそびえたつ標高千メートルの山は圧巻だし、そもそも名前の通りテーブルのような台形状の形は異様で、見る場所によって違った景色を見せてくれる。私のお気に入りは、街の観光の中心であるウォターフロントから見える風景だ。ショッピングセンターやレストラン、アフリカとは思えない華やかなレジャー施設の先に見える壮大な自然は、この街の複雑な歴史をずっと変わらず見守っていたのだろう。
 
 二年前に参加した合コンで総合商社に勤めている隆と出会った時、隆は「海外転勤があると思う」と、何度も言っていた。東京の中堅私立大学のアメフト部のエースから、総合商社の営業マンへ。その肩書から容易に想像がつくけど、彼はずっと日の当たる場所を生きてきた人で、オールバックにした髪型、浅黒い肌。私の人生とは正反対のキラキラした雰囲気を身にまとっていた。そんな彼が私に交際を申し込んだ時、なぜ?という疑問以上に、自分を偽ってでも恋愛関係を続けなくてはいけないと強く思った。ありのままの私は人に愛される資格などないのだから。二十三歳の冬、佑馬と別れたあの日から、私は今までの自分のわがままさを痛感し、佑馬の優しさを思い、依存していた自分を恥じた。何度も連絡したいと思ったけど自分からする勇気はなく、どんなに待ち焦がれても佑馬からの連絡はなかった。そう考えられるまでに長い時間がかかったけど私たちの関係はもう元には戻れないのだと理解した。会社での業務へのやる気は積み重なる雑務と売上目標を達成しなければならないというプレッシャー、希望と現実のギャップからモチベーションが下がってしまった。自分のやりたいこと、自分らしさ。そういうものを求めていても、人を傷つけるだけだと思い、とにかく相手の求めているものに応えるよう努力していたら、私自身の気持ちとは裏腹に会社では信頼を積み重ねていくことになった。そんな中、隆との交際は一年が経とうとしていた。週末に隆のマンションで夕飯を食べていた時に、彼から、南アフリカへ三年程転勤になる話を切り出された。覚悟はしていたので、そう驚きもしなかったが、その話の後に大きなダイヤの付いた指輪と共にプロポーズされた瞬間は、予想はしておらずとても驚いた。もちろん、断る理由なんてなかったけど、頭の中に佑馬の存在がちらついた。しかし、彼が私を愛していない以上、私は前に進まなくてはならなかった。

「ただいま」
 隆が帰宅し、私は玄関へ向かう。南アフリカは経済的に発展しており、特に私たちの住むケープタウンはヨーロッパのような街並みが広がり、外国人がたくさん暮らしている。南アフリカの中でも一番の都市であるヨハネスブルクは、町中を車なしで歩くのが危ないほどだが、この街は観光客も多くいる。とはいえ、高級住宅地は厳重なセキュリティーで守られており、この街の治安を心配する隆は私の外出を好まない。
「おかえりなさい」
 私が出迎えると、隆は私に紙袋を渡した。
「何これ?」
「出張で山本さんが日本から来て、お土産って」
 袋の中を覗くと萩の月だった。
「仙台から来たの?」
「うん。とはいえ、もうちょっとわかりやすい日本のお土産が良かったよな。海苔とかしょうゆ味のせんべいとか、調味料とか」
「意外とメジャーな食材は手に入るけど、萩の月なんてアフリカでめったに食べられないから嬉しいよ」
「まあ確かにな。あっ明日、山本さんと飲みに行くから夕飯いらない」
「分かった」
 隆は汗かいたから、シャワーを浴びると言い、バスルームへ行った。南半球に位置しているから、十二月でもこちらは真夏だ。私は、食事を温める。風呂上がり、青いTシャツに短パン姿で隆は私の目の前の席に座る。三十三歳になった隆は白髪が急に増え始めたけど、男性として魅力を増しているように思う。ケープタウンの暑い日差しとゴルフ三昧の毎日で日焼けしており、慣れない海外生活とはいえ、海外転勤を望んでいた隆にとっては、楽しいもののようだった。東京よりはストレスのない会社員生活で活き活きとしているようだ。隆がサラダに箸をつつきながら口を開く。
「そういえば、年末の東京のホテルとったから」
 年末年始は長く休みが取れるので二週間ほど、日本に帰ることになっている。五月に引っ越してきて、お盆は帰国しなかったので七か月ぶりの日本だ。東京で暮らしていた部屋は賃貸だったので、転勤に伴い解約して、帰国したときはホテルに滞在するとにしている。
「ああ、そうだね。まだ取ってなかったんだ。お義母さんたちのところは?」
 隆は名古屋出身で、私とは違い両親は健康だ。隆は私の目をまっすぐ見て言う。
「俺だけで正月をずらして帰るよ。美月は、東京でゆっくり過ごしなよ」
「そっか。わかった。ありがとうね」
 私が微笑んでそう答えると、明らかに隆はほっとした表情を浮かべた。子供のいない夫婦が帰省しても、義両親がそんなに喜ぶはずもないし、これでいいと思っているのだけど、隆は私に嘘をついている。河野美佳に会うのだ。隆はケープタウンでの生活を満喫しているけど、彼女に会えないことがストレスに感じていることは明らかだった。私が寝てからの長電話は、話す内容までは聞こえないけど、頻繁に行われているようだった。東京にいたころより距離があり、会えなくなったからか、私が居る自宅で電話をかけるほど、隆は美佳さんを愛している。
 
 付き合ってすぐ、隆に河野佳子の存在を打ち明けられた。会社の二つ年上の先輩で三年前から関係があるけど、相手には夫も子供もいるとのこと。彼女も自分も離婚してまで結婚したいと思っていないとのこと。もう関係は終わっているから、安心してほしいと隆は言ったが、それなのに、わざわざ私にそんなことを話す必要性がその時は分からなかった。でも、その理由はすぐわかった。隆の勤めている会社の社風柄、彼女を同伴しての集まりが多く、職場のBBQなどによく誘われた。そこで会社の同僚から河野佳子の存在を私に忠告する人がいたからだ。社内の不倫の話を当事者に伝えるなんて、おせっかいだと思ったけれど、その人たちは本気で私と隆を心配しているようだった。それくらい、隆は河野佳子との恋に夢中になっており、既婚者の河野が隆を誘惑しているように映っているようだった。何度か集まりに参加した中で、とうとう本人が同席する会に当たった。河野佳子は、長身で黒髪のベリーショートに、大きく聡明な瞳をしていた。シンプルだが上質そうな服装を身にまとう彼女に育ちの良さを感じた。私が想像していたような年下の男性を誘惑するいやらしさはなく、さっぱりとした凛とした女性だった。ただ、直接話をしなかったが、はっきりと自分の意見を言う姿から、彼女の気の強さとたっぷりの自信を感じた。隆は良い意味でも、悪い意味でも分かりやすい人間だったので、河野佳子との関係が終わっていないことがすぐに分かった。私もいながらも、彼女をじっと愛おしそうに見つめていたし、遅れてやってきた河野の夫に対して明らかに複雑な感情を向けていた。私はその会食の帰り道に、駅から自分の家に帰るまでの間に、隆と河野の関係を追求することは絶対にしないでいようと決めたのだ。何よりも、私の中にちっとも嫉妬心が産まれなかったのだ。怒りも悲しみも湧かず、結ばれない相手を思う隆を不憫に思う自分がいた。私はその時、河野佳子を愛する隆に、佑馬を愛する自分自身を重ねていたのだ。
 
 東京で暮らしていた時には信じられないような広い部屋で暮らしている、寝室のベッドもキングサイズだ。私たちは夫婦なので、もちろん時々セックスをするが、今もどちらも何も言わないまま避妊具を使っている。
「クリスマスもこっちで過ごしたかったな」
 お互いにもう寝ようとしている中で私は独り言のように言った。
「何で?」
 隆は律儀にもそう尋ねてくれる。
「だって、夏のクリスマスなんて珍しいじゃない。ツリー飾ってさ、冷房の効いた部屋でビールとチキンを味わうの。私、そんな体験してみたかったな」
 隆は、うんとだけ答えて、そのまま眠ってしまった。私は背中を向けて眠る隆を見つめて、その身体に優しく触れる。冷え性な私とは違って、彼の身体はうんと温かく、冷房の効きすぎた部屋で、ぴったりと身体をくっつけて 私は眠りにつく。
 
 ケープ半島をドライブして、東側の海岸沿いのシーフードの有名なレストランへ入った。日中の日差しは変わらず強かったが、夕暮れになると一気に涼しく過ごしやすくなる。海沿いなのに湿気っぽさは感じず、リゾートの島に来たみたいな気持ちなる。十二月第二週の週末、少し早い年末の仕事納めをした隆と二人きりの忘年会をする。クリスマスパーティーと言った方がしっくりくるような雰囲気の良いレストランだった。
「異国の地でのお仕事、お疲れ様」
 私達はノンアルコールで乾杯をする。窓から心地の良い潮風が入ってくる。
「美月こそ、慣れない土地で大変だっただろ?俺は海外勤務を望んでいたし、職場で話す奴らたくさんいるけど、美月は寂しい想いをしたんじゃない?」
 夫の会社の紹介でケープタウンで働く日本人海外駐在の妻たちの集まりが多くあったが、私はその集まりにほとんど参加しなかった。彼女たちが仕事をしているわけではないのに、夫の仕事を自分の功績かの様に得意げに語る姿があまり好きでなかったし、帰国子女など育ちの良い環境で育った彼女たちに気後れしてしまう自分がいた。
「こんなこと言ったら、寂しい人間だと思われるだろうけど、東京でもアフリカでも同じだよ。どこにいてもなんだか上手く馴染めないのが私。東京では仕事をしていたからさすがに話をする人が多かったけど、アフリカでは本当に隆としか会話してないけどね」
 私は笑いながら言ったが、隆はかなり心配しているようだった。
「美月はそういうけど、東京でそんな孤独を感じているように見えなかったけどな。友達も多くいたし、飲み会もよく参加して社交的に見えていたけどな」
「そうかな」
 それはそういう自分を演じていただけと心の中で思ったけど、隆に言っても理解されないことだと思ったので、適当に話を濁した。
「海外暮らしで鬱っぽくなる人もいるみたいだから気をつけなよ。明後日には日本に帰るから、そこでいろんな人に会えると良いな」
 海外で半年以上暮らして、流石に日本に帰ることが楽しみだなと思う気持ちはあるが、どこに着いた時に私は落ち着くことが出来るのだろう。母が死んで稚内へ引越しをした時から、私には故郷と呼べる場所がなくなった。当時、十六歳で幼い子供というわけではなかったけど、思春期のあの時期に、孤独を感じたことは私の今にも大きな影響を与えている。小さな子供みたいに寂しいと泣きじゃくることも、不安をむやみにぶつけることもできなかった分、ずっとその気持ちがあるのかもしれない。私は、あの夏の堤防で佑馬と過ごした日々をよく思い出す。
「沙也加ちゃんには連絡した?美月が帰国するって聞いたら喜ぶんじゃない?」
 職場の同期の沙也加とはずっと親しくしていて、結婚式にも参列してくれたけど、きっと隆が思っているほど私たちは仲が良くない。隆の目に映る自分は、果たして誰なんだろうか?本当の私ではない。本当の私が何なのかも分からないけど。
「美月、聞いている?」
 隆の声で我に返ると、隆は不服そうな表情を浮かべつつも、優しく言った。
「日本の親戚や同僚に買うお土産のこと。リスト送っとくから、見繕っておいて。帰国の直前になってごめん」
「うん。いいよ。帰国の日まで、特に予定もないし、荷造りも簡単に済ませられちゃうくらいの量だけだから」
 隆は満足そうに頷くと、私の知る職場の同僚の家庭での話を楽しそうしていた。そういう身内の話が隆は大好きで、私も聞くのが好きだった。家族と言う関係は私にとって憧れ以外のなにものでもなく、それを当たり前に成立させている人たちの話は興味深かった。帰り道の、車中で隆はとてもご機嫌で鼻歌を歌っていた。

 日本への直行便は、ヨハネスブルクから出るようで、ケープタウンから国内線で向かい、乗り継いで帰ることになっている。飛行機が離陸する瞬間に、不思議な気持ちになった。異様にテンションの高い隆はやたら「帰る」という言葉を使ったのだけど、私はどこに帰るのか分からなかった。和食が食べたいなと思う気持ちはあっても、それ以外の感情が湧いてこない。かといって、飛行機の隣に座る彼の横が私の帰る場所などだと感じる気持ちもなかった。長いフライトの中、お酒を飲んで安眠する彼を見つめながら、私は何とも言えない寂しさで胸がいっぱいだった。

 その次の年の八月、ケープタウンから私は一人で日本へ向かった。隆が河野美佳の夫に不倫で訴えられ、私たちは離婚することになったからだ。隆は河野美佳を今も愛していると言い、私はその時も心から彼らが結ばれて欲しいと思った。彼女たちも離婚の話が出ていると聞いたからだ。ただ、顔も知らない河野美佳の子供たちのことが頭にちらついた。幸せになる時に、どうして誰かが傷つかなくてはならないのだろう。

↓第4話

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