小説「M&A日和」第2~3章
本文
第2章 NDA
第7話 法務部と初ミーティング
真奈美が席に戻ると、さっそく法務部からメールが入ってきた。
――明日以降で、都合がよいときに背景説明と内容協議がしたいとの内容だ。
真奈美は早速、明日の早い時間を指定しミーティングの約束を交わした。
「よ~し、明日までに契約書ドラフトを全部読んでおこう」
――そして次の日。真奈美は法務部の打ち合わせ室に赴いた。
「初めまして、MA推進部の酒井真奈美です」
「法務部の高橋小巻です」
そこにいたのは、まさにキャリアウーマンといわんばかりのきりっとした女性だった。
(鋭い目つき、すらっとしつつ豊満な胸を持つ魅力的なプロポーション、背も高い……どれか一つだけでも欲しい!)
あいさつの後、二人はしばらく雑談に興じた。
真奈美が経営管理部だったこと、つい先日MA推進部に異動してきたこと。
小巻も、最近弁護士事務所から当社に出向してきた弁護士であること。
年齢もほとんど同じであること。
自然とふたりは打ち解けて、真奈美・小巻と呼び合うことになった。
――後日、真奈美はこの日をしみじみと思い返すことになる。
この出会いは、それほどの重要な出来事であった。
「じゃあ、お互いルーキーということで、どうぞよろしく」
「こちらこそ。出向してきて、まだ会社の仕組みやら誰が誰だかわからないから、いろいろ教えてね」
「社内方面は任せて。こう見えても会社生活長いので……」
ふふふと笑いあうと、漸く本題に入った。
「先日、山田チーフ宛に投資銀行からこのノンネームシートが来て……」
真奈美はプロジェクターに資料を写した。
「この会社は新しい加工技術の開発のために資金調達を計画していて、うちにも出資しないかと声がかかったみたい。事業本部の企画部が一度真剣に検討したいといってるみたいだから、NDAを結んでより詳しい情報をもらおうと思って……」
一通り説明を終えると、小巻の質問が始まった。
「なるほど。じゃあ、基本的には情報をもらう方よね」
「そうそう。でも、それによって何か違ってくるの?」
小巻の口元がニッとほほ笑んだ。
(鍛えがいがありそうね)
第8話 質問攻め
小巻はプロジェクターに契約書のドラフトを映し出した。
「じゃあ、上からレビュー始めましょうか」
「はい、お願いします」
「まずは、契約の当事者。今回は甲が相手会社で、乙が当社。
で次は、契約の目的、ここでの注意点は何?」
「……え!?えっと……」
急な質問に、真奈美は慌ててドラフトを見直した。
「回答が遅いぞー?しっかり読んできたのかな?」
「よ、読んできたんだけど……えーっと」
真奈美があたふたしている様子を見ている小巻、なんだかうれしそうだ。
「目的はM&Aに限定されているから、それ以外の目的で秘密情報の利用はしないように、ってことだよ」
「な、なるほど……」
真奈美は自分のPCにメモを打ち込んだ。
「次は、秘密情報の定義。何をもって秘密情報になりますか?」
「――ええ、ええっと」
この調子で、条項ごとに質問攻めが始まった。
秘密情報の取り扱いは?
再開示先は?
損害賠償は?
(――そんなに矢継ぎ早に質問しないでよ~)
真奈美には、小巻が明らかに楽しんでいるように見えた。
第9話 あめと鞭
「じゃあ、他にM&Aで重要となる条項は何があると思う?」
「えっと、えっと……」
真奈美は、昨日山田が足早に説明した単語をなんとか思い出した。
「秘密保持期間とか役職員勧誘禁止とか……かな?」
真奈美がおそるおそる小巻を見上げると……
「すごーい!さすが真奈美!!やればできるじゃん!」
満面の笑みを浮かべほめてくれる小巻に、真奈美は照れ笑いを浮かべた。
「でも、まだ6問中1問しか正解してないからね!この次はもっとビシバシ行くからね」
ニコニコしながらスパルタ宣言。
「は、は~い……」
真奈美の笑みが、照れ笑いと苦笑のブレンドに変わっていった。
(これって……あめと鞭ってやつ?)
「ところで。ここまで色んな条項による制約があったと思うんだけど、これって誰が守らなければいけない制約だと思う?」
小巻はまた唐突に質問した。
「え、えっと、情報をもらった方が守らなければいけないんだよね」
「そういうこと。だから、情報をもらうことが多いケースでは、なるべく制約を外した方が有利なのよ。今回はうちがもらう方でしょう?だから、きつい制約はなるべく柔らかくしてあげないとね」
真奈美は、小巻のドヤ顔を眺めながら感心した。
(すごい、小巻……やっぱり弁護士っていうのは本当だったんだ)
第10話 有効期間
「さて、ウォーミングアップはこのくらいにしておきましょうか」
小巻が涼しい顔でさらっと言ったので、真奈美は小巻の顔を覗き込んだ。
「これまでって、ウォーミングアップだったの?」
「ははは、冗談冗談。でも、まあ結果的に、ここまでは特に大きな問題もない内容だったでしょ」
「うん、たしかに。てことは、この後問題があるってこと?」
「うん、問題って程ではないけど、確認しておきたいことがあるのよね」
小巻は契約期間の条項を示した。
「契約有効期間は締結日より6か月らしいので、それはいいんだけど、そのあとの部分読んでみて」
真奈美は条項を目で追った。
『……秘密情報については、本契約の終了日から 3 年間、本契約の規定が有効に適用される……』
「つまり……契約0.5年+その後の3年で計3.5年間は秘密情報を保持する必要があるってこと?」
小巻は一段と目を輝かせた。
「うんうん、そうそう。そういうことよ」
真奈美は安堵の笑みを浮かべた。
「感覚的にはちょっと長めかな。うちは情報を受ける側でしょ?だから、できるかぎり秘密保持に関する義務は軽くしたいしね」
「たしかに。どのくらいがいい?」
「まあ、まず+0.5年で回答してみて、向こうから+2年くらいで回答が来たら、最後は+1~2年の間で決着するという感じで、一度交渉してみたらどう?」
「えらいざっくりね。なんだか、八百屋さんで値切っているみたいだけど……主張を裏付ける根拠とかないの?」
真奈美は小巻におねだりするような視線を送った。
第11話 交渉武器は気合だけ
「契約の期間の長さって法律で決まっているわけでもないし、交渉で決まるもんだからね~。ま、お互い適切な期間の根拠なんてないんだから、気合で折衷案を狙うもんよ」
小巻は自信満々に気合論を展開した。
真奈美は苦笑を隠せなかった。
(弁護士ってもっと論理派だとおもったけど、最初から「気合」なのね)
だが、その苦笑はいつしかわくわくする表情へと変わっていった。
(そもそも契約交渉初体験なんだし、論理的な交渉より気合の方がまだ使えそうな気がする)
そして、なによりも……
(たかがNDAではあるが、これから先は参考書でのお勉強じゃない。実際の相手との交渉が始まるんだ)
心が躍り始めているのを自覚した。
「じゃあ、今日はこれで完了ね。真奈美も初契約レビューお疲れさまでした。
修正版のファイルはすぐにメールで送るから、交渉頑張ってね」
「今日は本当にありがとう。これからもよろしくね」
「もちろん。決裁書も回してね。問題なく合議しておくから」
そして、帰り際に小巻がもう一つ付け加えた。
「次の法務部の出番は意向表明だと思うから、次はもっとビシビシいくからね」
「ははは、うん、よろしくね」
(山田チーフといい、小巻といい、なんでみんなニコニコ笑顔でスパルタなんだろう……)
第12話 決着
真奈美は、MA推進部のオフィスに戻ると、法務部とのレビュー結果を山田に伝えた。
「了解。お疲れ様。交渉の論点が期間だけであれば、そんなに揉めることもなさそうだね」
「はい」
「うん、ありがとう。ぼくも1~2年で決着でよいと思うよ。
じゃ、投資銀行にメールで回答して調整を進めてくれる?」
「はい、わかりました」
真奈美は元気に自分の席に戻って、メールを送る準備を始めた。
単位メールを送るだけだが、ドキドキする。
経営管理のころは、毎日社内向けには何十通もメールを出していたが、社外にメールを出すことなどほとんどなかった。
(このメールが、社外交渉の第一歩なんだ)
やがて、小巻から修正版のファイルも届き、真奈美はメールの送信ボタンをクリックした。
「えいっ!!」
その声が意外と大きかったのか、オフィスのみんなの注目をあびてしまい、赤面し小さくなった。
翌日、投資銀行から回答が返ってきた。
ざっと修正履歴を確認すると、やはり期間のところは再修正されている。
真奈美は小巻にチャットを打った。
『やっぱり、2年で返ってきた。小巻の読みすごいね、当たったよ』
『でしょー!契約交渉なんてだいたいこんなもんよ』
『八百屋の値引き交渉と一緒ってことね』
『そうそう!遠慮せずに1年くらいで返しちゃっていいと思うよ』
『ありがとう、じゃあ、1年で決着できたらお礼に一杯おごる』
『おお!いいね!がんばって』
こうして、真奈美と投資銀行とのやり取りの結果、+1年で決着した。
第13話 決裁・締結手続き
NDAの内容に合意したはいいが、その後どう手続きしてよいかわからないことだらけだったので、真奈美は山田に相談をしに行った。
「よかったね。無事決着できて」
「はい、ありがとうございます。それで、この次なんですけど、決裁書を取らなきゃいけないんですよね。あと調印者だれにするかとか相談させてもらっても良いですか?」
「そうだね、じゃあ、ちょっと打ち合わせコーナーで段取り決めようか」
真奈美は山田に連れられて打ち合わせコーナーに向かった。
「まず、決裁書を作ってもらうんだけど、まあこれまでも何度も事例があるから過去のサンプル見て適当によろしく」
「は、はい」
「決裁者と調印者は部長にしてもらって、あと契約書はクリーン版にして2部印刷、袋とじとか捺印とかわかる?」
「え、ええーっと、よくわからないです」
「そっか、そりゃ初めてだしわかんないよな。じゃあ、そこらへんは中野さんに聞いてくれたらだいたい教えてくれると思うから、あとで聞いてみて」
「は~い」
M&Aのことについてはかなり丁寧に手厚く教えてくれていた山田だったが、雑務的なことになると途端に大雑把になる。
真奈美は異動後の1週間ちょっとだけだが、この間山田に振り回されたおかげでなんとなくそのペースにも慣れてきている自分に苦笑した。
第14話 NDA締結ほぼ完了
山田との打ち合わせを切り上げた真奈美は、早速中野に声をかけた。
中野はMA推進部の雑務を一手に引き受けてくれている若手アシスタントである。
「中野さん、契約の締結に関していろいろ教えていただきたくて。いま時間大丈夫?」
「酒井さん、はい、いいですよ。山田チーフの声大きいから聞こえてましたよ」
若い中野はオフィス内みんなに聞こえそうな大きな声でひとしきり笑うと、一転して小声で続けた。
「……山田チーフって、いつもニコニコしているわりに、指示は結構スパルタですから。酒井さんも気を付けてくださいね」
「は、ははは、やっぱりそうなんだね。うん、ありがと」
真奈美は少し背筋が寒くなり身震いしながら苦笑した。
そうして中野にいろいろ教えてもらい、決裁書はすぐに上申、翌日には無事に決裁を取得、そして契約書原本も印刷・製本完了。会社印の捺印手続きを終え、会社印を押してもらい、2通の契約書が完成した。
その契約書原本を郵送する前にPDFを取り、メールで投資銀行に送ると同時に、原本送付の手続きを終えた。
そして、しばらくすると返答メールが来た。
『NDAのPDF共有いただきありがとうございます。
それでは、対象会社様の確認を終えましたらすぐに連絡させていただきますのでしばらくお待ちください』
(よし、これで初仕事、NDAミッション完了だ!)
真奈美は一時の満足感を味わっていた。
第15話 嵐の前の……
「かんぱーい」
「かんぱーい」
NDAの合意が完了した日の夜、真奈美は小巻を誘ってイタリアンバルに来ていた。
「いろいろ親切に教えてくれたお礼に、おごるからね」
「やった!じゃあ、これからも真奈美にいろいろ教えてあげる」
「ほんと?ありがとう!でも、スパルタは、やーよ?」
「ふっふっふ!それは聞けないかもね」
「えー、かんべんしてよー」
最初に打ち合わせした時から、なぜか二人は妙に気が合い、すっかり打ち解けていた。
「ね、なんでMA推進部に異動志願したの?」
「ふふふ、大した理由じゃないのよ」
「聞きたい。白状しなさい!」
小巻は真奈美のうでに人差し指をぐりぐり擦り付けて催促した。
「くすぐったいから。もう仕方ないなぁ」
真奈美はワイングラスをくるくる回しながら話し始めた。
もともと入社して以来ずっと経営管理部だったこと。
事業本部との連携を担当していて、会社の経営会議のとりまとめもしていたから、それなりに頼りにはされるしやりがいもあったこと。
でもやはり管理の立場のため、事業を前向きに持っていこうという提案がしにくかったこと……
「ああ、なんかわかる。経営管理部はそんな雰囲気感じる」
「でしょ。まあ、仕方ないんだけどね。でも、やっぱり事業の人たちと話していると、本当はもっともっとやりたいこと多いのに、できないってことが多くて」
「それで、MA推進部へ立候補したんだ」
小巻は真奈美のグラスにワインを注ぎながらつづけた。
「経営管理を飛び出して、超ドS部門のMA推進部にいくなんて信じられない……って、法務部でも話題になっていたのよ」
「え?そうなの?」
「そうよ、MA推進部って、出向組の集まりで上から目線で怖いし、しかも相当ハードな仕事内容なんでしょ?毎日夜も遅いみたいだし。退職者も多いって聞くよ?」
「まあ……たしかに、そうなのかも」
真奈美は苦笑した。
「そんなとこに自分からいくってことは、真奈美はドMなんだ、って噂よ」
「え~!?ドMって……なんでそうなるのよ」
「それはね……いじられるのが好きってことでしょ~」
「ちょ、ちょっと。小巻、もう」
ボトルが追加され、ほろ酔いの二人の会話は深夜まで続くのであった。
第3章 IM
第16話 アイ・エムってなんですか?
次の日、真奈美が会社に着くと、PCを開ける前に山田がやってきた。
「酒井さん、IMが届いたから、さっそくミーティングしようか」
「アイエム?」
真奈美は、訳も分からず、出勤手続きもそこそこに打ち合わせコーナーに急いだ。
「IMをみるのは初めてだよね。だから、まずはざっと説明するね」
「はい、お願いします」
「IM、正式にはインフォメーション・メモランダム」
「あ~、参考書で読みました。アイエムっていうんですね」
(この世界は専門用語が多くて困る。しかも、中途半端に略すし……)
「うん。IMは対象会社の初期的な情報一式なんだ。NDAが合意に至ったら最初にもらう情報なんだ」
「そうなんですね」
山田は本題に入る前に、真奈美の方を向いて質問した。
「では、IMの目的、ゴールは何だと思う?」
「えーっと、買い手が対象会社のことを理解するためですよね」
「それはそうなんだけどね。20点」
「えー!?」
真奈美は思いのほか低い点数に動揺した。
「買い手はこれから、売り手に本気でM&Aをやる気があるのかを示す必要があるんだ」
「やる気ですか」
「本気じゃなかったら、売り手も本格的なM&Aプロセスに進みたくないでしょ?コストもかかるし秘密情報も出て行ってしまうし」
「確かに」
「だから、買い手はIMをもらったら、それをもとに意向表明書というものを提出するのが一般的な進め方なんだよ」
「あ、それ、参考書で読みました」
「うん。詳しくはまた後でサンプルを送るよ」
そのまま山田は説明を続けた。
「とにかく、意向表明書では、だいたいいくらくらいで買いたいと思っています、という金額含めた提案をすることが多いんだ。だから、IMを見たら、買い手は提案、とくに価格提示をする。そのためのIMなんだと思って、しっかり読み込むんだよ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
真奈美は真剣なまなざしで投影されている資料の方に向き直った。
第17話 表紙
IMの表紙には、左上に宛先『白馬機工《はくばきこう》株式会社様』……これは当然真奈美の会社の名前だ。
そして、中央に『Project Beach』と書かれている。
「プロジェクト名、ビーチですね。これって何か意味があるんですか?」
「うん、何か意味があるんじゃないかな。そのうちわかると思うよ」
真奈美は、よくわからない答えではあるが、あとでわかるならまあいいか、と追及せずに視線をその下に移した。
そこには『宮津精工株式会社 Information Memorandum』と会社名が書かれていた。
「対象会社は……やはり、あの会社ですね。さすが山田チーフ」
そして右下には、発行者の名前があった。
『大津証券』――ノンネームシートを送ってきて、真奈美がNDAのやりとりをしていた会社だ。
「今回は、この大津証券がセルサイドFAについているんだ」
「FAって財務アドバイザーのことですよね。」
「そう。FAは、M&A推進をすべて取り仕切ってくれる重要な役割なんだ。
交渉戦略の立案や相手との交渉も引き受けるし、場合によっては買収資金の段取りも検討してくれるんだ。
もちろんフィーはそれなりに必要だけどね」
真奈美はうなづきながら、首を傾げた。
「うちはFAはつけないんですか?」
「ケースバイケースだけど、今回は中小企業への出資案件で規模も範囲も小さいし、そんなに労力はかからないし、FAは使わずに我々だけで交渉しても良いんじゃないかな」
(それって……本来FAがやる仕事も私たちでこなせってことよね……)
真奈美は、『相当ハードな仕事内容みたいよ。毎日夜も遅いみたいだし……』という昨晩の小巻の言葉を思い出し、少し身震いした。
第18話 コード名
山田はページをいくつかめくり、まず最初にコード名とパスワードを確認した。
「これって……」
コード名
白馬機工:Hawaii
宮津精密:Miami
パスワード:guam
「ビーチですね」
「ビーチだな」
二人はしばらく沈黙した。
「まあ、一般的には、会社名などの固有名詞は伏せて、コード名で呼び合うことが多いんだ。万が一社員などに資料が漏れても特定されないように」
「CIAみたいですね」
「それだけ機密な活動ということだね。だから、電子ファイルにはかならずパスワードをつけるようにするんだ」
山田は真剣な顔つきで続けた。
「コードネームには暗黙のルールみたいなものがあってね」
「暗黙のルール?」
「うん。会社の頭文字から始まる単語をつけるんだ。白馬機工であれば『はくば』のHから始まるHawaii、宮津精密はMiami。その方がわかりやすいでしょ」
「あ、たしかに」
真奈美は納得した。
「プロジェクト名には、推進する人の想いを込めて命名することが多いんだけど、これは命名した本人に聞かないとわからないね。でも、大抵はプロジェクト名を決めて、それに因んだコードネームやパスワードを設定するんだ」
「なるほど。プロジェクトビーチだから、ハワイ、マイアミ、グアム……社長が海好きなんですかね」
「どうかな、ははは」
山田はPCを操作しながら軽く聞き流した。
第19話 エグサマ
コード名の確認を終えると、山田は資料序盤の《《エグサマ》》のページを表示した。
「IMはだいたい、エグサマから始まるから、まずはそこで全体像をつかむといいよ」
「えぐさま?」
「そう、Exective Summary」
(また来た!とりあえず横文字短縮!!)
そう、山田と話していると、ことごとく英単語、しかもそれを略した専門用語にぶち当たる。
真奈美は、最初のうちはそのたびに慌てていたが、最近ではこの流れに慣れてきた自分を自覚し少し面白くなり、ふふっと笑った後、でもやっぱり気になったので聞いてみた。
「なんでエグゼクティブなんですか?普通にサマリーでいいような気もしますが」
「ああ、それはね。エグゼクティブ、つまり会社の幹部が読むためのサマリーって意味だよ。ざっくりと全体像と重要な部分のみ記載されているんだ」
そして二人はエグサマをざっとレビューした。
ここには、会社概要と、今回の出資の全体像、出資することによるメリットなどが簡潔に書かれていた。
「――たしかに、エグサマだけでだいたいの内容がわかりました」
「うん、やはり専門のFAがついているから、わかりやすくサマリーしてくれていて助かるね」
「はい、さすがですね」
そして、真奈美が質問した。
「……売り手なのにFAがいない場合もあるんですか?」
「売り手の場合は候補探しも必要だし大抵はFAが付く場合が多いけど、FAなしで会社や株主が直接売却交渉を行うケースも無くはないよ」
真奈美はぞっとした。
(うちの会社が売り手になったら、FA雇わずにMA推進部が作らされる気がする……売り手になるようなプロジェクトには当たりませんように)
そんな心配をよそに、山田は先へ進んでいく。相変わらずペースが速い。
「まあ、ぼくらは幹部じゃないんで、エグサマはウオーミングアップだから。ここからが本番だよ。しっかりと全頁熟読しなきゃいけないからね」
(あ、これ、あとは全頁しっかり読んどけよ!?っていうフラグかも……)
真奈美は涙目で天を仰いだ。
第20話 やっちゃった……
あとは残業時間使ってでも一人で読み切ろう、と覚悟を決めた真奈美だったが、山田は意外にもそのまま資料をめくり始めた。
「じゃあ、ざっくりポイントをレビューしていこうか。わからないところがあったら、そのたびに止めて質問してね」
(……あれ?)
真奈美はきょとんとして思考が停止した。
「……ん?どうかした?」
山田は真奈美を振り返ると顔を覗き込んだ。
はっ!と我に返った真奈美は思わず本音で応えた。
「あ、いえ、てっきりあとは読んどけと言われるんだと思ってたので……」
山田はくすっと吹き出した。
「ははは。まあ、それでもいいけど。でもIM初めて見るんでしょ?」
「……はい」
「だったら、せめて概要くらいは説明するさ」
真奈美は恥ずかしくなって顔を思いっきり赤らめてうつむいた。
(やっちゃった……)
第21話 会社概要
ふたりは気を取り直して、IMの本章のレビューを始めた。
「IMは通常、とにもかくにも会社情報の説明から始まるんだ」
プロジェクターは宮津精工の概要(住所や代表者・役員など)・沿革・株主構成などを映し出している。
「すでにHPで概ねの情報を得ているとはいえ、IMに何が記載されているかを読むことで相手の意図を探ることもできるからしっかりと読むように」
「相手の意図ですか?」
「そう。例えば、沿革のところを見てごらん」
そこには、HPで記載の沿革の抜粋が載っている。
「……大手企業との提携の話が多いですね」
「そういうこと。要は、売り手としてアピールしたいところを惜しげもなくアピールしてきているということなんだ。つまりは、彼らが大手と提携できる実力を持っていることを認めてほしいというメッセージなんだ」
(なるほど……)
真奈美は感心した。
「役員をみてごらん。略歴も書いてある」
「本当ですね。社長さんは代表取締役の森社長……創業者のご子息ですね」
「うん。まだ若いけど、職人気質の技術会社を継いで、これから事業を伸ばそうということなんだろう」
山田は少し難しい顔をした。
「創業家経営が続いているだろうから、外部からの介入には警戒しているだろうな。経営への関与を強くにじませない方がよさそうだ」
そして、山田は取締役の一人を指さした。
「この人、岡野取締役。銀行出身者だから、おそらくは今回の資金調達の責任を担っているんだと思う。とまあ、こんな感じで、相手の重要人物の人となりもできる限り調べておくといいね」
(なるほど……)
真奈美は一言も口をはさめず、ただ感心していた。
第22話 株主情報は重要だよ
「そして、もう一つ。株主情報は非常に重要だ」
「私、HPでは細かく出ていなかったので株主が誰かわからなかったんです」
「そう。非上場会社の株主情報は意外にわからないことが結構あるんだ」
スタートアップ企業みたいに資金調達をアピールしている会社は調達経緯を開示しているケースが多いが、古くからの中小企業は株主情報を公開していないケースが多い。
真奈美は株主情報を確認した。
そこには、森社長100%と記載されていた。
「森社長が株主なんですね」
「そう。所謂創業家オーナー企業だね。シンプルで助かるよ」
「シンプルの方がよいんですか?」
「もちろんだ。なんでかわかる?」
真奈美はしばらく考え込んだ。
「うーん、やっぱり、関係者が少ない方が楽ということでしょうか?」
山田は少し驚いた表情を浮かべた。
「おっと、これは意外だ」
「え!?」
「正解。完璧」
「ちょっと~、間違えたかと思いましたよ~」
真奈美はほっぺたを膨らませた。
第23話 事業内容は専門外ですが、飛ばすわけにはいきません
会社概要の次は市場動向、そして事業内容と進んでいった。
「ここは、我々が見るというより、事業本部の企画部に見てもらった方がよいだろう」
といいながらも、全く知らないわけにもいかないので、ふたりで記載内容をざっと眺めていった。
精密加工の業界といっても、おそらくいろんな業界に分かれるのだろう。
宮津精工は、真奈美たちの会社、白馬機工が主事業とするロボット事業の業界に精通しているらしい。
(そっか、だからうちに打診が来たのね)
そして、その業界の中でもNo.1かつ独自の特徴的な技術力を誇ると記載されているが、それが妥当な記載か判断する術は持っていなかった。
「普通は背伸びしてアピールするものだけど、でも事前に事業本部に聞いた時には、ここの加工技術は目を見張るものがあるといっていたので、あながち間違っていないのかもね」
山田は資料から目をそらすことなく独り言のように呟いた。
資料はビジネスフロー・商物流・バリューチェーン・製造体制・主要商品・販売方法とチャネルと、より具体的な事業内容の説明へと進んでいく。
こうなると、山田にとってはお手上げだった。
「さすがに事業の詳しい内容はまったくわからないな。ここの記述とかどういう意味なんだろう」
「多分、そこは……」
真奈美は経営管理出身であり、事業本部の本社報告はすべて把握しているので、技術的なことはわからないものの、比較的事業や市場の内容については理解度が高かった。
「――ほう、さすがだね。MA推進部は事業内容については全くの素人ばかりだから助かるよ」
真奈美は、初めて少しお役に立てたと思い自信満々でうなづいたが、次の瞬間藪蛇だったと後悔した。
「さらに、次はいよいよIMの真骨頂、財務と事業計画だよ。
酒井さんの本領発揮のパートだね。この調子でビシバシ頼むよ!」
(――うわー、自爆した!自らハードル上げてしまったわ)
後悔先に立たず……資料のページは捲られ、無情にも『財務情報及び事業計画』の題名がでかでかと映し出されたのであった。
第24話 P/Lはお任せを……は心の中で
財務情報の項目に入ると、画面にはたくさんの数字がならぶ表が映し出された。
「まずは、とにかく過去のP/L(ピーエル)だ。通常、3年分開示される」
P/Lとは損益計算書。いくら儲けたか、もしくは損したかを計算する表だ。
(P/Lの例)
科目 金額(千円)
売上高 ○○○○
売上原価 ○○○○
販管費※ ○○○○
※正式には「販売費および一般管理費」
営業利益 ○○○○
営業外収益 ○○○○
営業外費用 ○○○○
経常利益 ○○○○
特別利益 ○○○○
特別損失 ○○○○
税引前当期利益 ○○○○
法人税等 ○○○○
当期利益 ○○○○
これは、経営管理部出身の真奈美にとってはとても馴染みのある表だ。
今回のIMでは、P/Lだけでなく、『減価償却費』『EBITDA』そして『投資』の欄もあった。
買い手が迷子にならないようにP/Lだけでは賄いきれないが必要不可欠な情報も最初から開示しているのだ。
「どう?ぱっと見た感想は?」
真奈美は全体をざっと見まわして答えた。
「売上は以前ノンネームシートに記載されていた通りで安定していますね。
利益もだいたい安定しているように見えるんですけど、原価率が徐々に上がってきているのが嫌らしいですね。
その分販管費を削減して抑え込んでいるのでしょうか。無理がないといいのですけど。
コストの部分はしっかりと中身を見た方がよいですね」
山田は、感心し拍手を送った。
「さすがだね。財務情報はM&Aの要だから、酒井さんの理解力は本当に力強いよ」
山田は満面の笑みを浮かべて褒め称えた。
真奈美も、いい気になってニコニコしながら、
(はい!!任してください!)
と言いそうになって、ぎりぎりのところで思いとどまった。
(あぶない、これ、罠だ。調子に乗ってへらへらしてたらとんでもない爆弾投げつけられる気がする……)
そうして、真奈美は涼しい笑顔でP/Lのページを乗り切った。
第25話 B/Sは自信ないです
山田はページをめくって聞いた。
画面にはB/S(バランスシートもしくは貸借対照表)が映し出されている。
「B/Sも詳しいんだよね?」
「理解はできるんですけど……自信はないです」
真奈美は自信なさげに答えた。
「じゃあ、この会社のB/Sについて思ったことを言ってみて」
B/Sは、その会社の資産と負債および純資産の内容が記載されている表だ。
資産=負債+純資産と平衡(バランス)しているのでB/S(バランスシート)と呼ばれている。
B/Sの表の中には資産、負債の内訳として、たくさんの科目がならんでいる。
大きな項目でいえば、流動資産、固定資産、流動負債、固定負債、純資産だが、さらにその内訳が細かく記載されている。
真奈美は真剣な表情で答え始めた。
「そうですね……経営管理の視点からすると注意するべきは在庫と固定資産なんですけど……」
自分のPCでぱちぱちと計算をしている。
「在庫は2か月分くらいたまっているみたいです。ちょっと多いかもしれないですね。これが適正なのかわからないです」
「ふむふむ。適正水準については、過去推移と見比べるといいね」
山田が補足する。
「固定資産は意外に小さいですね。土地などの不動産は入っていないようなので、工場は賃借でしょうか。あとは無形資産の中身も確認した方がよいですね」
「さすが」
「あとは、どんなところに注目したらよさそうですか?」
真奈美は助けを求めた。
「そうだね。運転資本は在庫だけでなくて、売掛金や買掛金も見ておいた方がいい。資金や事業価値評価に影響するからね。
あとはB/Sに記載されていない債務がないか。今後本格的な調査に入るまでにある程度想像を始めておいた方がいいね」
真奈美は話を聞きながら自分用のメモを打ちこんだ。
第26話 事業計画はIMのクライマックス
「さあ、次はいよいよクライマックスだよ」
山田はニコニコとページを送った。
『事業計画』
事業計画は、P/Lと同じ形式の表で、将来5年間の損益計画となっていた。
売り上げ、利益ともに成長していく計画だ。
「事業計画を立てるのは経営管理の仕事だったっけ?」
「いえ、事業計画は経営企画部の管轄です。経営管理は、計画に対する執行指導、予実管理と是正がミッションでした」
白馬機工では、本社部門として二つの本部が存在する。
ひとつは経営企画本部。
会社の方向性を議論し決めていく組織体で、毎年の経営計画や、3年に一度の中期計画を策定することがメインの業務だ。
そして、MA推進部や知財部、ブランド部のような中長期的なアクションを起こす部門も経営企画本部に属する。
もうひとつは経営管理本部。
ここは経営を管理し事業本部を支援・指導する機能部門が固まっている、会社の中枢組織だ。
真奈美はその中心部門である経営管理部出身だが、他にも総務部、人事部、経理部、IR部、内部統制部、法務部、品質保証部などを抱える大きな本部である。
「なるほど。そうだとすると、経営管理の視点とは、少し見方が異なるかもしれないね」
「はい。それに経営管理部では中期的な計画はあまり関与しなかったです。足元の業績ばかり追っていました」
「そんなもんだろうね。経営企画とのすみわけということだろう。であれば、M&Aの視点でどのように事業計画をみるべきか、簡単に説明しておこう」
山田は、事業計画について説明を始めた。
第27話 ケーガー
「まずは売り上げだ。かなり伸びていく計画だね。CAGR(ケーガー)が妥当かどうか」
「けーがーですか?」
(はい、でました!山田チーフの横文字チャレンジ)
真奈美はこの展開に愛着を持ち始めていた。
「うん、CAGRと書くんだけど、ケーガーって呼んだ方がかっこいいでしょ?」
「ふふふ」
二人は目を合わせて笑った。
「冗談はさておき。CAGRはCompound Annual Growth Rateといって、要は年平均成長率のことなんだ。市場の将来性の話とかで、M&Aとは関係なくても良く聞く単語だよ」
「はい、覚えます!」
真奈美は敬礼した。
「ははは。投資銀行と話をすると、このような横文字や略語がいっぱい出てくるから、少しづつなれていくといいね」
山田は優しく笑った。
「で、そのCAGRが10%。過去のこの会社の《《トラックレコード》》と比較すると高い印象だ」
山田は2ページ前のP/Lの直近実績に画面を戻した。
「この会社はいい意味でも悪い意味でも安定経営してきている。それが今年を機にっ急に10%成長路線になるとするならば、かなり合理的かつ納得がいく説明が必要だよね」
「確かにそうですね」
(トラックレコード……実績って言ってくれてもいいんですよ~)
真奈美は心の中で山田をちゃかしてみるものの、声には出せなかった。
第28話 高すぎる計画には要注意
「あとは、さっき指摘してくれた、原価率や販管費率。これも過去に比べて異常に減っていないか」
「はい」
「将来のことは誰にもわからないからこそ、売り手はこういうところに期待を込めて数値を高めに持ってくるんだ」
「わかります」
真奈美は実感を込めていった。
「うちの会社でも一緒ですよ。経営計画策定のときは、経営企画部は努力目標の意味も込めて高い計画を事業本部に求めるんです」
「ははは、まあ、普通そうだよな」
「はい。でもそのお尻ぬぐいは経営管理部の仕事なんですよ?中身が無いけど高い計画を立てられると達成できないときに管理が困っちゃうんですよ」
真奈美は口を尖らせた。
「その通りだね。それはM&Aでも一緒だよ」
「そうなんですね」
「うん。高い計画を信じて買収しちゃうと、あとで実績が伴わないからと言っても取り返せないからね」
真剣な表情で説明する山田。
その熱意を受けながら、真奈美の頭の片隅に雑念が浮かんでいた。
(まじめな説明している時の山田チーフって、結構渋くてちょびっとかっこいいかもしれないわね)
第29話 ディールストラクチャ
「最後に、ディールストラクチャについて説明しておこうか」
「……取引の構造について、ですね」
「うん、直訳するとそうだね。M&Aの場合、ディールストラクチャは取引の手順、手法のことを指すんだよ」
山田は該当するページをプロジェクターに写した。
「今回は宮津精工の資金調達。つまり、宮津精工からうちに新しい株式を発行するから現金を出資してね、という内容だ」
「いわゆる増資ですね」
「そう。増資の中でも、新株を特定の法人に割り当てる手法を、第三者割当増資というんだ」
「なるほど。他にもあるんですか?」
「うん。例えば、上場会社が市場の投資家全体から追加の増資を募ることはPO、つまりパブリックオファリングと呼ばれるんだ。増資の場合と既存株売り出しの場合と両方あるけどね」
「そうなんですね」
「あとは、非上場企業がはじめて上場するときをなんというか知っている?」
「はい。IPOですよね」
真奈美は元気に答えた。
「もちろん意味も知っているよね?」
山田はニヤニヤと真奈美を見る。
(はっ!しまった。罠にかかっちゃった……)
「あ、え、えーっと……」
「あれ?知らないの?」
(……イジワル)
「ははは。まあ、あまり馴染みはないよね。IPOとはイニシャル・パブリック・オファリング。最初に上場して市場から資金を集めることだよ。これもさっき言ったPOの一種なんだよ」
真奈美は恥ずかしくなってうつむいた。
「話を戻すと、今回のディールストラクチャは第三者割当増資。目標金額は10億円と書いてある」
「10億円。それで私たちはどのくらいの出資比率の株主になるんですか?」
「それは、これからバリュエーション、つまり会社の価値がどの程度あるのかを試算してからじゃないと分からない。ここはまた意向表明のときに説明するよ」
山田はそういうと、さらに話を進めていった。
第30話 相対とオークション
「通常は、IMとあわせて、プロセスレターというものがくるんだよね」
山田は唐突に話を変えた。
「プロセスレターですか」
「うん。買い手側が想定するスケジュールや交渉の進め方が書いてあるんだ。特にオークションプロセスの場合は絶対にこれが出てくるはずだ」
「オークションですか?M&Aでもオークションがあるんですか?」
「うん、でもネットオークションみたいなものとはだいぶ違うんだよ」
山田はざっくりと説明した。
M&Aの取引は、売り手と買い手が1対1で交渉協議して進めていく『相対《あいたい》プロセス』と、複数の買い手候補と統一したプロセスで交渉協議し最終的には買い手候補による投票を受けて1社に決めていく『オークションプロセス(ビッドプロセスともいう)』がある。
「今回はプロセスレターがないということは……」
「今回は相対プロセスなんですね?」
「そうみたいだね。相対とオークションのメリットデメリットが何か、わかる?」
(来た!初耳だって知っているくせにちょこちょこと質問を挟んでくる)
真奈美は今回は身構えていたので慌てることはなかったが、回答には自信がなかった。
「オークションの方が売り手としては良い条件になりやすいんですよね?」
「正解。あとは、統一された売り手主導のプロセスで進められるから交渉も売り手有利になる」
「逆に言えば、相対は売り手は有利になれないはず……じゃあ、なんで今回は相対なんですか?」
「それはね……」
山田は、売り手が相対を選ぶ際の理由について、一般論を足早に説明した。
・買い手候補先が決まっているとき
・複数の買い手候補先が見つからなさそうなとき
・M&A取引の内容などを買い手とじっくり相談しながら進めたいとき
・まだ完全に売るとは決めかねずに進めているとき
・取り組みを秘匿にしたいとき。
・オークションプロセスを進める社内リソースが少ないとき
・アドバイザーを維持する費用が支出できないとき
……
(山田チーフ、メモの入力が追いつきませんって!)
第31話 ちょろいわね
「今回は業務提携もかねてるから、うちのような事業会社とじっくり話しながら進めたいと思っているんじゃないかな。情報漏洩を避けたい意図もあるかもしれないね」
山田は宮津精工の考えを推察したうえで、真奈美に回答した。
「なるほど、ありがとうございます。山田チーフの説明わかりやすいです」
真奈美は素直にお礼を言った。
「え?いやいや、そんなことないよ」
山田は目をそらして照れ笑いしている。
(ふふふ、意外にちょろいわね)
真奈美は心の中でやったねと喜んだのだが……
「じゃあ、次は事業本部にこのIMの内容と、これからの進め方について説明をしよう」
「はい」
「しっかり理解してもらえたようなので、酒井さんメインプレゼンターよろしくね」
「え!?ええーー!??」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
山田はニコニコしながらグーサインを送ってくる。
(これは……ちょろいのは私の方だったかしら)
真奈美の頬には冷汗……彼の方が一枚上手であった。
第32話 FAへ内容確認
「事業本部と話す前に、FAに電話会議でIMの内容質問やプロジェクトの状況ヒアリングをしようか」
「え!?は、はい」
売り手である宮津精密側のFAは大津証券だ。
相変わらず唐突であるが、山田はお構いなく大津証券にチャットし、あれよあれよという間に5分後に会議をしましょうということになった。
真奈美は急いでスピーカーセットを取ってきて、大津証券に電話をかけた。
「ご無沙汰しております。大津証券の今井でございます」
「ご無沙汰しています、今井さん。お元気そうですね」
冒頭5分ほど、二人の雑談が続いたあと、出席者の紹介がなされた。
大津証券からは、白馬機工を担当しているカバレッジチームの今井MD(マネジメントディレクター)、そして本件『PJ-Beach』を実行するエグゼキューションチームの谷口D(ディレクター)が出席していた。
(カバレッジ?エグゼキューション?……あとで山田チーフに質問攻めしなきゃ)
真奈美は質問すべきキーワードをメモしていった。
「こちらは、MA推進部から私、山田と、本件をメインで担当する酒井で参加しています」
「あ、酒井と申します。よろしくお願いいたします」
恥ずかしながら、社外との電話会議は初めてなので、緊張して声が半音高まった。
「では、早速ですが本件担当する谷口の方から、プロジェクトの状況について簡単に説明させていただき、質疑応答とさせていただきますね」
今井からバトンを渡された谷口が、IMのエグサマを見せながら案件の説明を始めた。
説明の内容によると、基本的にはIMに記載の通りで、10億円の資金調達を目的としたマイノリティー出資。やはり事業会社との資本業務提携を模索しているとのことで大体想定通りだった。
「では、一旦説明は以上なのですが、ご質問等いただけますでしょうか」
一通り説明が終わると、今井がバトンを山田に渡した。
第33話 FAへの質疑応答
山田の質問が始まった。
「資本業務提携が希望とのことですが、業務提携の面で弊社への期待や要望事項はありますでしょうか」
谷口の回答によると、新しい精密加工技術の開発にはユーザー企業の知見が必要なので、ユーザー候補の白馬機工との共同開発に期待しているとのことであった。
そのあとも、山田からポンポンと質問が飛び出ていき、谷口が軽快に回答していった。
真奈美はそれを眺めながら、なんかかっこいいなあと感心していると、
「酒井さん、事業提携について、ほかに質問ある?」
「え、ええっと、いえ、ここまでは大丈夫です」
いきなりふられてしどろもどろになってしまった。
(そうだった。山田チーフはいきなりノールックパス送ってくるから……気を抜いちゃダメだった)
そして、山田の質問はディールプロセスに関するものへと移っていった。
「そうすると、弊社以外にも提案されているのでしょうか」
「いえ、今のところ御社のみですが、ご興味ないということになれば、他のメーカーとの協議に入ろうかと考えております」
「なるほど、弊社の事業を評価いただいているということですね。ありがとうございます」
「おっしゃる通りです」
第34話 初めての質問
「では、意向表明提示前ですが、宮津精工さんと弊社事業メンバーの顔合わせやビジネスディスカッションを始めさせていただくことは可能でしょうか」
「なるべく早くということでしょうか」
「はい。弊社としても、業務提携内容や効果によって出資のスタンスを固めやすいと思います」
「それも一理ありますね。段取りさせていただきます」
谷口は即答で快諾した。
オークションプロセスの場合は、買い手候補が意向表明をする前に対象会社と面談できることはあまりない。
一方、今回は相対《あいたい》プロセス、かつ業務提携の成否がポイントになっているので、大津証券と宮津精密の間で、事前の面談の可能性についてあらかじめ合意していたのだろう。
逆に言えば、白馬機工との業務提携に対する期待は大きいとも言えそうだ。
「だいたいこんな感じかな?酒井さん、ほかに何かある?」
「あ、ええと――」
真奈美はゆっくり深呼吸して、質問をした。
「この後の、全体スケジュールはどのような予定をお考えでしょうか」
「はい。できれば、ゴールデンウィーク明けくらいにDDに入り、6月末にDA、7月にはクロージングのようなイメージを考えております」
真奈美は、参考書で予習していた情報と照合した。
DDとは『デューディリジェンス』のことで、対象会社をしっかりと調査するプロセスのことを言う。M&Aの中でも結構時間がかかるプロセスだ。
DAは『ディフィニティブ・アグリーメント』のことで『最終契約』とも呼ばれる。出資や買収の実行を確定する最も重要な契約だ。
そして、クロージングは、最終契約に沿って実際にM&Aが実行される日を指す。
(話についていける。勉強の成果ね)
真奈美は、初めての質問がうまくかみ合ったので、気をよくして机の下でこっそりガッツポーズを握った。
第35話 笑顔のプレッシャー
大津証券とのWeb会議が終わると、真奈美はスピーカーセットを片付けながら山田に質問した。
「最初の紹介でカバレッジとかエグゼキューションとか言っていたのは何のことですか?」
「ああ、あれは投資銀行の部門の名称だよ。特に外資系でよく使われるんだけどね。営業部門をカバレッジ、M&A実行部門をエグゼキューションということが多いんだ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
(……営業部、推進部でいいじゃん。うちみたいに。日本企業なんだから)
やはり今後も初めて聞く横文字がまだまだ出てきそうで、不安になった。
「今日の話でだいたい宮津精工さんのお考えはわかったね。おそらくビジネス協業がまとまらないとお互い出資という話にはならないということだな」
「そうですね。でも、その方が事業本部のやる気も出てくると思いますよ」
「うん、そこに期待だな」
そういうと、山田は真奈美の目をしっかり見つめて言った。
「つまりは、酒井さんの事業本部へのプレゼンが非常に重要ということだと思うから、しっかり頼むよ」
山田は酒井の肩をたたくと、はははっ、と笑いながら会議室を出ていった。
(もぅー、ただでさえプレッシャー感じているのに……)
真奈美は後片付けを終えると、自分の席に戻る前に、小巻に今日の顛末を簡単にチャットした。
小巻からはすぐに返事が返ってきた。
『あちゃー、やっぱり山田チーフはドSね』
『でしょー。笑顔で追い打ちかけないでほしいわよー』
『よし、今晩飲みに行こう。慰めてあげるよ』
第36話 嵐の前の……Part.2
「……ってことで、結局、事業本部への説明、私がやることになったのよ、信じられる?」
「すごいな。初心者に丸投げとは、山田チーフ、暴挙ね」
「でしょー?MA推進部に来てまだ2週間も経ってないのよ?私」
オフィス近くの居酒屋のカウンター席。
テーブルにはお刺身、サラダ、やきとり、だし巻き卵。
そして日本酒の升。
真奈美も小巻もすでにほろ酔い状態だった。
「いつなの?事業本部との打ち合わせ」
「来週水曜日」
「そっか、それまでにしっかりがんばって準備するしかないね」
「小巻、てつだってよ~」
真奈美が小巻の肩にすがると、パシッと払われる
「無茶言うな。私は法務だからむーりー」
「いじわるー」
ほっぺたがぷくっと膨らむ。
「こうなったら、発想の転換だ。早いタイミングで前面に出るチャンスをもらえたと思って頑張るしかないかぁ」
「確かに。その方がポジティブよね……まあ、ただ単に山田チーフが面倒くさがっただけかもしれないけどね」
「……そうかも……その方がしっくりくるわ」
真奈美はうなだれた。
「ま、まだ時間あるんだし。準備も間に合うでしょ。今日は飲んじゃおう」
「おー、飲もう、飲もう」
そして、升酒のオーダーが追加される。
二人の夜は、まだまだ続くのであった。
おまけ:各章ダイジェスト
ダイジェスト第2章:NDA(第7~15話)
ダイジェスト第3章:IM(第16~36話)
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