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最も尊い市民ランナーとは

「走ったこと」を黙っていることはとても困難である。


これは、人間が一定の承認欲求を持つ以上仕方のないことなのでしょうか。

私の知る限り、例えば趣味で「フルマラソン」を走った人で、
それを誰にも言わず、ましてやFacebookにも投稿せず、
①完走報告(ピースサイン付き)
②タイム報告
③表彰状やメダルなどの掲出
④スタート前の状況報告
これらをしなかった人はいなかったと思われます。

さらに言えば、
日々のトレーニングのランニングの記録をご報告なさる人もいます。
彼らは必ず、走った距離、ルート、消費カロリーなどを我々に逐一教えてくださいます。

勘違いなさって欲しくないのは、
私は決してこれらのご報告を揶揄するつもりは毛頭なく、
寧ろ、40キロ超も走る、と言う行為には「尊敬」以外の言葉は浮かびませんし、それを達成したことを教えてくださるのは非常に喜ばしいことだと思っています。

私が知りたいのは、

なぜ人は走るとそれを必ず報告するか?

そしてなぜその報告を忌み嫌う人がいるのか?

です。
ちょっとネットを紐解くと、
以下のような記事がありました。

掻い摘んで申し上げますと、
走った記録をFacebookに投稿することを趣味にしている方が、
「旦那にそれがみっともないことだから止めろ」
と咎められた。

主の「これはみっともないことなんですか?」

と言う質問とそれに対する回答が出てきます。

「個人情報晒すリスク」を懸念なさってる人と、
「みっともない」と断罪なさる人がいて、
もちろん「問題ない」と言う方もいますが、

はっきり言えば概ね否定的です。

要するに「いちいち見せつけんな」「知らんがな」「勝手に走ってろ」
「見せるために走ってるのかアホ」
と言う感想が多いようです。

この一つの記事だけを根拠には出来ませんが、
マラソンやトレーニングでのラン報告は「嫌われているコンテンツ」
の一つなのかも知れません。

つまり、自分一人で粛々とやれば良いことで、
それをなぜ「わざわざ」SNSにアップする?
と言うのが「否定派」のご意見のようです。

でもこれ、他の事にも当てはまりますよね。

例えば、高いホテルに泊まる、美味しいご飯を食べる、
オペラを観に行く、ギターを新調する、カメラを買う、新刊小説を買う、
全て「一人で粛々とやれ」ば良い事です。

でも、マラソン報告はみっともなくて、
上記のような他の例はみっともなくないのでしょうか?

このコンテンツによっての「受け取る感覚の違い」にこそ、
実はマラソンというコンテンツに隠された、
いくつかの、「人が育ってきた環境や価値観の違い」が秘められていると思われます。
まずは、なぜマラソン報告を嫌がる人がいるのか、
そこを少しだけ深掘りして行きます。

そもそも、

マラソンをする人は「運動が得意」もしくは「好き」な人

だと思っています。
もちろんこれは私の勝手な仮説です。
でも本当にそう思うのです。
決して得意でなくとも、動く事や走る事だけは嫌いじゃない人なんかも含まれます。
この仮説の裏にあるのが、
実は、特に運動が幼少期から得意な人は意外と知らないのですが、

運動(体育)が本当に死ぬほど嫌いで、もはや憎んでさえいる人
は一定数いる、と言う事実です。

これは完全に小学校の体育教育の弊害だと思います。
そんな本気で心底運動が嫌いな人達はマラソンなんてやる人の気が知れません。
「アホなの?」「なんで走るの?」と思っています。
つまり、「運動を好き・やる人」と「運動嫌い・やらない人」は完全に別セグメントのライフスタイル(とその志向、趣向)にある、と言うことです。

どちらが良い悪いではありません。
走る側は走りたいから走るし、
走りたくない人は走りたくないから走らない。
どっちも良いじゃないですか。
お互いがお互いの領域を侵食しなければ良い話です。

しかし、走りたくない人にとって、
「走った報告」は正直鬱陶しい。
お互いに侵食しない、と言うのは「走った報告」が自分のスマホ画面には決して飛び込んで来ない状況を指します。
それがSNSでは身構える暇もなく、
いきなり飛び込んでくるのですから嫌ですよね。

ですので、まずは、本気で運動が嫌いな人は「マラソン報告」を基本嫌います。


一方、先に述べました、
映画見ました、本買いました、楽器買いました、美味しいケーキ食べました、
等の報告は、彼ら別に嫌ではありません。
なぜなら、それが「文化的」だからです。
正確に言えば、「文化系クラブ型娯楽」だからです。
これも幼少期に遡りますが、

中学時代、運動嫌いな人がクラブ選択で「運動部」を選ばずに「文化部」を選ぶこと、
これはまさしく人生をかけたイデオロギーの選択なのです。

これ、「運動部」以外考えもしなかった人は意外に知らないんですよね。
全員とは言いませんが、多くの文化系の人が「運動系」を忌み嫌った上で「文化系」を選択している、と言う、その強固な決断に伴う精神的なプロセスを。

心のネバーランドを求めた結果である、と言うことを。

以上、そもそも運動が絶対的に嫌いな人の話でした。

それ以外で、マラソン報告を嫌う人達、ですが、

単純に「人の自慢(とそれに類する事)が別に見たくない」人達です。

で、これ、多くの人はこれじゃないですか?
この感覚持ってますよね?
だって、人の楽しそうな姿、上手くいってそうな姿、幸せそうな姿、
仲良くよろしくやってるなら、それでOK、
別にいちいち報告してくれんでも、
基本どうでも良いし、

「知らんがな」

ですよね。

でも、別に「悪くもない」し、
まあ、良いか悪いか、で言えば良かったんじゃない?

とりあえず「いいね」押しとくか、ポチ。

って具合が普通。
もちろん心から「いいね」を押したくなる関係や境遇、中身であることもたくさんあります。
あくまで、ゆるく繋がってるSNSの中での話です。

この「ゆるい普通感」に支えられながらSNS(人間社会も)の多くは成り立っていると思いますが、
敢えて「マラソン報告」を嫌い、わざわざ「みっともない」事として断じる人は、
その普通の人が「どうでもいい感」を強く感じながらも、
とりあえず「いいね」を押す感覚よりも、もう少し、

「お前が走るとか走らんとか、知るかボケーーー!!!」感

を強くお持ちなんだと思います。

と言うことで、
とりとめ無い話になってしまいましたが、
タイトルの通りです。

個人的には、SNSには好きなことを発信したら良いと思ってますし、
それが例え「マラソン報告」や「ランニング報告」だとしても構いません。

しかし、敢えて言わせていただくならば、

走るのは構わんが「黙って走る」ことの尊さも感じて欲しい

と言うことです。

一度でいいので、
ランナーの皆様には黙って走ることに是非チャレンジして欲しいと思います。
静かにマラソン大会にエントリーし、42キロを走り、そしてゴールした事実を決して語らず、
黙したまま次の日の労働にあたり、
黙って同僚と昼飯を食い、夜を迎え晩酌をし、静かに眠る。
走った事実も、
それで得た肉体・精神、全てについて様々に去来するであろう内奥を

「敢えて黙す」。


そんな「精神修行」を超えた先に何が見えるのか、

私はとても興味があります。


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