共感は“ない” @ 傾聴

とある彼女は苦しんでいる。
とても苦しそうだ。
彼女はボク(他者)を求めている。
ボクに苦しみを聴いてほしいと。
彼女自身の苦しみを解ってほしいと。
ボクは苦しみに喘ぐ彼女の話を聴く。

彼女はぽつりぽつりと語りはじめる。
彼女の苦しみを彼女の思う言葉に置き換えた音(声)が発せられ怒涛のごとくボクの耳に流れ込んでくる。
悲しみの音であり、怒りの音であり、諦めの音であり、投げやりな音であり、、、音の混沌である。
その音はボクが認識する言葉に置き換えられ、ボク自身の経験によるボクの感覚を呼び起こす。
ボクに起きた悲しみを喚起させ、ボクが許しがたい怒りを思い出させる、
ボクが諦めた無念をフラッシュバックさせ、ボクの落胆を蘇らせる。
彼女の言葉によりボクの裡に生成されたボクの苦しみが、彼女の苦しみとオーバーラップした、とボクは思う。
だからボクは彼女に、その苦しみがよく分かるよ、と言う。
ボクは彼女と共感できた、と考える。

かってに彼女の感覚とボクの感覚を「同じ」として共感だとする。
かってに彼女の言葉とボクの言葉を「同じ」として共感だとする。
たしかに彼女の話す言葉の音は、ボクの経験をおきかえた言葉の音と同じかもしれない。
でも、それははたして同じなのだろうか?
彼女は、「(彼女の)カレシが死んだ」と言った。
ボクは、「(ボクの)カノジョが死んだ」ことを思い出す。
彼女は、「消えたいほど辛い」と言う。
ボクは、「消えたいほど辛かった」ことを思い出す。
この彼女とボクの、死んだ、消えたい、辛い、は同じなのか?
それを同じものとして共感だというのか?、、
同じだと勘違いして彼女を苦しみから救いたいと言うとおそらく齟齬が生じる。
彼女の辛さはボクの辛さとは違う。
ボクの辛かったは彼女の辛かったにはならない。
だからボクの辛さを言っても彼女は違うと感じる。
もし彼女が解るというのなら、ボクの辛さ察して言っているのだろう。
察するは解るとは違う。
共感しているというのは、お互いが相手が感覚が解ると勘違いすること。
お互いが自身の裡のなかにある相手のイメージを同じと決めるつけること。
もちろん共感しているという勘違いのゆるやかな効用はあるのだろう。
「楽しいね」「うん、ほんと楽しいね」は楽しさが倍になり、
「苦しいね」「うん、ほんとに苦しいね」は苦しさが半分になるかもしれない。
そうした共感の勘違いを否定したいわけではない。
ただ場合によっては大きな弊害の可能性もあることも間違いなさそう。
それぞれの感覚もイメージもそれぞれのもので、違うのだから。
それを同じと勘違いしてアドバイス(自分の言葉の表明、押し付け)などしようものなら。
彼女は「あなたに私の辛さの何が解るの!!」と言い出す。
ボクは「ボクだって誰にも解らない辛い思いをしたことがあるんだ」、、、
と、ボクは思わず言ってしまった。
誰にも解らない、これが本心であり、事実だろう。
が、そこは触れないとこで、核心に踏み込まない部分で「共感する」となる。
そうした「共感」とは、本音の琴線にふれるまえの妥協なのかもしれない。
楽しみは倍、苦しみは半分になる分にはいいのだけど・・・。
(逆にアドバイスを求められても、できない理由もここにある)

その「共感まがい」で、自分ではなんともならず、知らない他者に傾聴をしてもらうような彼女の苦しみの解決に繋がるのだろうか?

「純粋な共感」をもってボクが彼女の苦しみを聴くには、ボクの言葉を消さなければならない。
ボクの経験も知識も認識も思いもなにもかも消して、、、、真っ白になり
ただ、素の感覚だけで聴くしかない。
そうして彼女のすべてを受け入れるしかない。
彼女の言葉のすべてを初めて生まれた言葉として聴き入れる。
ところが言葉はすでにボクの感覚をともなった知識としてあるのだから真っ白ではない。
よって音を感覚として受け入れ、ボクが純粋に感じる。
そんなことができたときに「純粋に共感する」と言えるのかもしれない。
でも現実にはできない。だから共感は“ない”。

では傾聴では、どうするか?
傾聴をするときは「共感」はないとする、ではなく、ない。
実際に「共感」はないのだから。
なるべく自分を真っ白にする、滅却する。
なるべく自分がこれまでに獲得した言葉が相手のそれと違うと考える。
言葉を共通理解の同じものだという前提で発しない。
そのうえで話し手のすべてを受け入れる、しかない。
彼女の苦しみは、彼女を全てを受け入れることで、彼女自身にしか解決できない。
彼女の苦しみは、彼女自身には解るのだから。
ボクがそれを受け入れることで彼女は解決できると信じる。

と、いまのボクはこう考えている。

ちょいと暴論か!?、爆!!


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