写真(傾聴)に宿られ、写真自身(傾聴自身)が語る

森の底を歩き突然立ち止まる。
いや、立ち止まらされる。

まさに問題はここから始まる。
立ち止まったのか、立ち止まらされたのか。
アタシの意思なのか、モデルの意思なのか…
それとも他の何かの仕業なのか。

目の前にはモデルが在る。
立ち止まったまま凝視する。
胸が高鳴る。(これはアタシ自身)

そしてフィアインダーを覗く。
背景と光を確認する。
左右と天地のアングルを探る。
露光とシャッタースピードをアジャストさせる。
静かにシャッターを切る。

と、ここも問題なのだ。
これらの動作はアタシの意思なのか、モデルの意思なのか…
それとも他の何かの仕業なのか。

人は、この写真が語っている、と言う。
はたしてアタシが写真に語らせているのか、モデルが語っているのか…
それとも他の何かが語るのか。

むかし、池田晶子は記した。
「言葉にして語らしめないとホントのことはあらわれない」と。
自己の意思ではなく、言葉に宿られ、意思のないまま言葉を綴っている。
何かが「私」を通して書かせている、らいし。
言葉にして語らしめ、させられている。

ふと、思う。
もしやこれは写真にも言えるのではないか?
アタシの意思ではなく、写真に操られ、意思のないまま写真を撮っている。
何かが「アタシ」を通して写させている、と。
自己は無となる。
写真自身にして語らしめ、させられている。

池田晶子はひたすら思索しつづけて言葉を綴り続けた。
だから言葉に宿られる感覚を識ったのだろう。
意識せずの体得に違いない。
言葉に宿られるのも一筋縄ではいかないと想像するのは安易である。

池田晶子とは違う一介の写真撮りであるアタシがやすやすと辿り着ける境地ではない。
ただ、やはり思索しつづけて写真を撮り続けなければ、その景色をみることはないだろう。
自己は無となり、写真に宿られる。
いつかは、そこへと信じて思索と経験を積む。
写真に宿られるのも一筋縄ではない。

と、ふと傾聴もしかりと考えた。
傾聴に宿られ、傾聴自身が語る。
そこに個の意思はなく、傾聴に語らされている。
(実際に発話するのではなく)

いやいや、人生も同じなのかもしれない。
人生に宿られ、人生に語らされている。

いずれもその境地までたどり着くことは一筋縄でない。
あれ、人生は違うかな。

言葉にしろ、写真にしろ、傾聴にしろ、他のなにかにしろ…
それ自身が語るに、たどり着く道程を人生というのかもしれない。


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