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笑って終わるために

いつだったかな、こんな写真がいいんだ、と言われたことがあった。
なんてことはない歩道に、カラフルな小さな木の実が散乱している光景である。
もちろんボクにしたって、ちょっといい光景だな、と思ったから撮ったわけなのだけど・・・でもボクにとっては、いつも行く公園の通り道だし、毎年この時期になると見ることができる風景だし、もっとたくさん、もっとドラマチックに落ち、散乱して、光の浴び方だってどの時間がいいんだろう、って思ったぐらいで、でも、ま、1,2枚ぐらい撮っといてもいいかって軽い気持ちでシャッターを切ったに過ぎない。
それなのにである、公園にいくためについ先日通ったら、そのカラフルな実を落とす木そのものが、なくなっていたのだ。切られていたわけ。

ボクは立ち止まりその切り株を見つめながら愕然とした。
ああ、あの風景は二度と現れることはないんだ、とマジマジと何もない「キレイ」な歩道を見つめていた。
家に戻ってあの写真をさがして再度みつめる。
よく観たらいいシチュエーションではないか。
歩道はアスファルトではなく小さなブロックが組み合わされ。その間に苔っぽい草が生え、ランダムに色とりどりの実が散らばる。そしていい具合に枯れ葉が添えられている。
ボクはマックで二度と会うことのない写真を見つめていた。

どんな理由で切られたか知らない。
もしかしたら沢山の実が一程度の期間歩道に落ちて、足の踏み場もなく歩けないという理由かもしれないし、落ちすぎで掃除ができない、汚いという理由かもしれない。
ものの観方は人それぞれだし、邪魔だと思う人間がいても不思議ではない。
「キレイ」な歩道の意味がまったく違った。
「キレイ」でフォトジェニックだという声と、歩きにくく掃除が大変で「キレイ」な歩道にしてくれという苦情では、後者が強いのが社会というヤツだ。そして、街路樹などあっさり殺される。
でも、そこに文句を言うのはやめよう。
いつでも観ることができ、いつでも作品として写真にのこせると軽んじていた自分が悪いのだ。

毎年、季節ごとに巡りくるお馴染みの風景が突如なくなる、、、、
思えばこれまでもちょくちょくあった。
森に咲いていた春蘭の株は盗掘され、ギフチョウも取り尽くされた。
去年までいたトンボがいなくなる。
季節どこのスパンではない。
春蘭やギフチョウどころではない。
当たり前のようにくるはずだった明日が突如奪われる。
いつまでも続くと思い込んでいる日々の生活が突如、水に呑まれる。
あたりまえのように暮らしていた家が、思いもよらず土に呑まれる。
漠然とまだまだ続くと生きている人生が突如、終わらされる。
なんの準備もなんの猶予もないままに。
終わりは突然訪れたのだ。
だから、、
今日、今が最後のチャンスかもしれない。
次のチャンスはもうないのだ。
いま、この時を精一杯生きて、明日がもしまた来たなら、
明日も目一杯生きる。
そうして生きるしかない。
それがいつであっても笑って終われるように。


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