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幸福になるために苦労を取り戻すー読書感想#9「わたしたちのウェルビーイングをつくあうために」

「わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために」は、滋味深い本でした。病気など「悪い状態」は目に見えやすい。けど反対に、幸福な状態=ウェルビーイングとはどういう状態か、答えられる人はどれくらいいるだろう。本書は、テクノロジー、インターネット、コミュニティ、風土など、いろんな視点から「自分にとってウェルビーイングとは何か」を考えられる構成になっている。中でも、「苦労を取り戻す」という考え方が、自分にとってはヒントになりました。渡邊淳司さん、ドミニク・チェンさん監修。


ゴミを自分で拾えないゴミ拾いロボット

真ん中らへんの117ページに「ゴミ箱ロボット」というものが登場します。知能工学研究者の岡田美智男さんのチームが開発したのですが、このロボットはゴミ拾いを目的としているのに、自らゴミを拾うアームがない。ゴミを拾えないゴミ拾いロボット。岡田さんが言うには「弱いロボット」です。

ゴミ箱ロボットができるのは、とぼとぼ歩き回り、ゴミを見つけると「もこ」「もこもん」と妙な声を発することだけ。だけど、ゴミ箱ロボットを広場に放ってみる。すると子どもたちが寄ってきて、もこもこ言うロボットのためにゴミを拾ってあげる。ロボットはペコリと頭を下げ、また歩き回る。一見すると子どもたちはロボットに「働かされた」のに、不思議と悪い気はしていないんだそうです。

 一方で、子どもたちの方はどうだろうか。「手助けするのも、まんざら悪い気はしない」というふうに、ちょっとだけ晴々とした表情をしている。「自分にも〈ゴミ箱ロボット〉の助けになれることがあった!」と、このロボットを相手に喜んでいるというのも妙な話だけれど、ロボットに寄り添い、面倒を見ている子どもたちの姿は、いつもより大人びて見えるのである。(p118)

子どもたちはロボットのために「苦労する」ことで、喜び、誇らし気持ちを獲得した。この現象が、すごく面白い。


苦労を取り戻す

少しページを戻って、ウェルビーイング論の概論を思い出してみると、なぜこんなことが起きたのかを考えることができる。ポイントは2つ。子どもたちはロボットとの「関係性」を持っている。さらにその中で「自律性」を発揮していたのです。

自分が無力であると感じることは、明らかに不幸です。つまり、自律性はウェルビーイングの中核的要素と言えます。

このことは「苦労を取り戻す」という言葉で理解しやすくなる。この表現は、北海道浦河町で様々な精神疾患を抱える方が共同生活する施設「べてるの家」の向谷地良さんのものだそうです。べてるの家では、それぞれの精神疾患を「本人が」分析し、表現していく「当事者研究」という活動を行っている。

 ピエール・ルジャンドルやイヴァン・イリイチといった西洋の歴史家や哲学者が論じたように、「病気を治す」という思想は、問題を解決するためにシステムを制御するというテクノサイエンス主義と同根である。そこから、個々人の固有性を度外視した客観的な方法が適用される。精神医療においては、日本は世界で向精神薬を多く消費する消費国のひとつであるが、それでも疾患が治らない人も大勢いる。「べてるの家」から始まった当事者研究(当事者自身やその家族の生活経験をもとに生まれる自助的活動)は、自分の病理を相対化し、他者と共有することで、社会生活を営む力を取り戻す作用をもっている。(p58-59)

「病気を治す」=「苦労を取り除く」という発想は、時に苦労する主体たる人間を疎外してしまう。「自分には苦労を取り除けない」という自律性の奪取になり得る。

だから、苦労を取り戻すのは、うれしい。ゴミ箱ロボットと触れ合って子どもたちが笑顔になったのは、ゴミを拾う苦労を自分で引き受け、その苦労をロボットと分かち合えた(気がした)からだったのでしょう。


「わたしたち」で幸福を目指す

本書は「わたしのウェルビーイング」ではなく、「わたしたちのウェルビーイング」となっている。これが、自律性と並ぶポイントの2つ目、「関係性」の大切さを物語っている。

美学の研究者、伊藤亜紗さんが語る認知症当事者の話がわかりやすい気がします。若年性アルツハイマーの丹野智文さんは、自動車販売のトップセールスマンとしてバリバリ働いていた30代の終わりに発症。でも、丹野さんは今も試行錯誤しながら働いている。

丹野さん流の病気との付き合い方の一つに、「自分はあなたの顔を次に会った時には忘れていると、あらかじめ伝える」というのがある。こう伝えることで、相手は「あ、丹野さんは忘れるって前言ってたな」と準備ができる。結果として、人間関係にまったくヒビが入らないといいます。

 丹野さんは言う。「思い出さなくてよくない? それなのに何で思い出さなくちゃいけないのかな」。何とも大胆な提案である。認知症というと、「思い出す」能力の低下だと思われがちだ。しかしそもそも私たちが生きていくうえで、少なくとも個人の能力という意味での「思い出す」は、必要不可欠なものではないのではないか。むしろ、なくてもよい能力なのではないか。そう丹野さんは言うのだ。
 言われてみれば確かにそうである。関係者全員が覚えていなければならない情報や出来事なんて、実際には限られている。一部の人が記憶にとどめていさえすれば、必要なときに、その人の知識をみんなで共有すればよいのだから。(p153)

認知症の方が、人の顔を思い出す必要があるのか? 丹野さんの指摘は面白いし、たしかに、と思う。思い出す=個人の記憶力で解決する必要がどこにあるだろう。「誰か」が覚えていて、それを共有すればいい。伊藤さんはこれを「能力のネットワーク化」と呼ぶ。

丹野さんは能力のネットワーク化によって、「人の顔を思い出せない」という苦労を上手に引き受けている。さらに、ネットワークに取り込まれた人も、丹野さんの「ために」思い出すという、小さな苦労を引き受けている。

ロボットの「ために」ゴミを拾った子どもたちとリンクします。苦労を取り戻し、その苦労を関係性の中で共有する。それは、個人が各々の能力を使って問題を解決する世界より、ちょっと面倒だけど、ちょっと楽しい。そんな感じがします。

いま、あまりに不自由が増え、慢性化してきている世界です。でも、自律性と関係性がウェルビーイングにつながっていくこと。苦労を取り戻し、自分にできない苦労は、他者と分かち合って何とかすること。「それでいい」と思えた時に、少し呼吸が楽になった気がします。(2020年3月16日初版、ビー・エヌ・エヌ新社)


次におすすめする本は

イヴァン・イリイチ氏の「コンヴィヴィアリティの道具」です。本書にもチラッと出てきますが、人間が技術や科学に従属するのでなく、人間の独立性を保つための技術を模索しようという本。「人々は自分のかわりに働いてくれる道具ではなく、自分とともに働いてくれる新しい道具を必要としている。人々は、より巧妙にプログラムされたエネルギー奴隷ではなく、各人がもっているエネルギーと想像力を十分にひきだすような技術を必要としているのだ」(p38) 。ウェルビーイング論につながるステートメントに溢れています。



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