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淀みが居場所をつくるーミニ読書感想『泡』(松家仁之さん)

松家仁之さんの青春小説『泡』(集英社、2021年4月10日初版)が優しく胸に沁みた。不登校になった高校生が、海辺の街で変わり者の叔父が経営するジャズ喫茶に転がり込む話。その店の静かな日常が、それこそジャズのように流れていく。

そのジャズ喫茶は、いわゆるサードプレイスなのだけれど、サードプレイスというキリッとした言葉とは少し外れる。それは淀み。社会から「外れ者」というべき存在が、生きていくためにつくった淀みが、不登校の少年を救う物語です。


「淀み」という考え方は、哲学者・谷川嘉浩さんらの『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)で提示されています。加速化する現代。いち早く答えに辿り着くことがよしとされる社会で、あえて立ち止まる。それこそがネガティヴ・ケイパビリティの要諦だと指摘されます。

流れの速い川は目的地には早く辿り着けるけれど、そんな流れの中で生存できる生物は少ない。むしろ、水が溜まった淀みの中に、魚や甲殻類や貝、様々な、生き物が過ごせる余裕ができる。

本書で主人公が一夏の間過ごすジャズ喫茶もそう。叔父は家族もなく、一人淡々と暮らしている。第二次世界大戦で復員してから、人を避けるような寂しい暮らしを続けている。ジャズ喫茶は、あくまで食い扶持のために続けている。

本書の特徴は、その静けさにあります。ジャズ喫茶を淀みとして描くのに、過不足のない静けさ。もしもこれを淀みの物語としてではなくエンターテイメント作品に仕上げるのなら、登場人物が躍動し、成長するドタバタ青春群像劇にも出来たのに。

たとえば主人公が、夜の海岸を歩くこんなシーンが良い。

 見たことがないほどの数の大きさ、明るさの星がびっしりと空をおおっていた。両手を腰にあてのけぞるようにすると、地平線や水平線の感覚が消えて、自分がどうやって立っているのかわからなくなる。頭がくらくらし、からだも拠りどころを失う。波の音だけが、薫がまだ地球にいることを伝えてくる。

『泡』p50-51

無数の星を見た主人公の心情を、感動ではなく、拠り所のなさとして描くのが本書の静けさです。弱き者、不安定な心に寄り添うような静けさ。

そんな中、自分の存在を確かめさせてくれる波の音。本書に登場する叔父や、ジャズ喫茶の店員、お店自体が、そんな存在を担う。本書そのものが、この波の音のような優しさを持っているとも言えます。

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