見出し画像

夢の毒性を学ぶー読書感想「BAD BLOOD」(ジョン・キャリールーさん)

夢は人生を彩る。その裏返しに人生を蝕み、壊しさえする「毒性」を持っている。本書はその両面をリアルに学ばせてくれる傑作ノンフィクションでした。ウォール・ストリート・ジャーナルの元名物記者ジョン・キャリールーさんの「BAD BLOOD シリコンバレー最大の捏造スキャンダル全真相」。扱っている「セラノス事件」は、革新的血液検査技術をうたって巨額の投資を集めた米国のユニコーン企業が、実は山のような不正を隠していたというもの。なぜ気付かれなかったのか。なぜ投資家は「騙された」のか。その理由がまさしく、夢。自分の夢を追うために、人の夢を応援するために、「免疫」として読んでおきたい一冊。(関美和さん、櫻井祐子さん訳。集英社、2021年2月28日初版)

この人の目を信じたくなる

セラノス事件は、ジョンさんがWSJ紙上で放ったスクープによって白日の下にさらされた。本書はそこに至るまでにセラノス社で起きていたことを時系列で整理していて、その展開は手に汗握る。なにせ読者の目の前で不正が続いているのに、全然止まる様子がないのだ。「なんで改善されないんだ」「ジョンさん!早く暴いてくれ」と叫び出しそうになる。

「血液一滴で、あらゆる病気の有無を調べられる」。セラノスが「開発した」とうたう技術はまさにSFのような中身だった。しかし実際にはハリボテ状態。それも当初から不正が継続していたことは、本書を読む限り疑いがない。その不正をリードしたのは、同社を起業したエリザベス・ホームズ氏だったとされる。

1人の起業家がシリコンバレーを騙したことになる。でも、そんなことは可能なんだろうか?可能だとすれば、一体なぜなんだろうか?

本書を読み進めると、エリザベス氏を支持する人が「同じこと」を語っていることに気付く。それは彼女の理念、情熱、夢の偉大さだ。

たとえばエリザベスを最初期に後押ししたスタンフォード大学の名科学者ロバートソン氏の法廷証言はこうだ。

(中略) 「これまで何千人という学生と話をしてきましたが、あんな学生は初めてでした。だから、世の中に出て夢を追い求めなさいと、背中を押したんです」(p24)

あるいはスティーブ・ジョブズ氏の盟友で、セラノスの取締役にヘッドハンドされたアヴィ氏はどうだろう。

 (中略)アヴィの目に、エリザベスは情熱を持って信念を追い求める、聡明な若い女性に映った。(p52)

最後に、金融分野から転身したチェルシー氏の話に耳を傾けてみる。

(中略)エリザベスがセラノスで働くようチェルシーを口説き落とすのに時間はかからなかった。エリザベスが熱っぽく語る、セラノスのテクノロジーが命を救う未来は、投資銀行家の職探しを手伝うよりはるかにおもしろそうで、崇高に思えた。それにエリザベスの説得力ときたら! あの目でじっと見つめて話されると、この人を信じたい、あとについていきたい、という気持ちにさせられるのだ。(p95)

エリザベス氏からほとばしる夢の力。彼女の話を聞き、瞳を覗き込むと、心地よくならざるを追えないようだ。信じたい。そう思ってしまう。

知恵も経験も経済的余裕もある人たちが信じた理由は、これほど単純だった。もしかしたら、全てを持っている彼らに欠けていて、欲しかったもの。それが夢なんじゃないか。エリザベス氏は、彼らの前に一番欲しいものを示したのだ。


絵に描いたようなバイアス作用

面白いのが、エリザベス氏の夢に引きつけられたエリートたちが、その後はセラノスの欺瞞を覆い隠すベールになったということだ。

エリザベス氏は持ち前の幻惑的な瞳で、元国務長官ジョージ・シュルツ氏や、ヘンリー・キッシンジャー氏、シリコンバレーの著名投資家をセラノスの役員に引き入れたり、支持を得たりすることに成功する。すると、「これだけ著名な人がサポートする企業なんだから、すごいんだ」ということになる。

これは行動経済学で「正常性バイアス」と呼ばれる人間心理だ。「すごい企業→すごい人が集まる」という正常な流れが目の前でも踏襲されていると考えてしまい、おかしいなと思った情報を排除してしまう。また、おかしいなと疑ったときに「でもこの人が支持しているし」とも働く。こちらは「利用可能性ヒューリスティック」という、人間が想起しやすい情報を優先する心理が動いている。

エリザベス氏の姿を見ていると、コミュニケーション論の好著「トーキング・トゥ・ストレンジャーズ」(マルコム・グラッドウェルさん)で解かれていたパラドクスを思い起こした。熟練した検事は「犯人らしい犯人」を見抜くのは得意だが、「犯人らしくない犯人」を当てるのは決して上手ではない。つまり「嘘つきらしくない嘘つき」に、人はめっぽう弱いのだ。

これらのバイアスが複合的に作用し、エリザベス氏の不正は長らく露呈しなかった。その凄まじさが現れた印象深いシーンがある。実は序盤で、ある取締役がセラノスの統治不全を問題視し、エリザベス氏の解任を呼びかける。緊急取締役会で他の役員の合意を取り付け、本人に解任を告げるため呼び出した。

 ところが、それから信じがたいことが起こった。
 その後の2時間で、エリザベスは4人を説得し、翻意させたのだ。自分の運営方法に問題があったことを認め、改めると誓った。今後はもっと率直になって、しっかり対応していく。二度とこんなことが起こらないよう努めたい。(p72)

これは逆転劇だろうか。いや、違う。人間がバイアスに抗うことがいか難しく、信じたいものを信じてしまうのか。逆転すべき状況で判断を改められない、人間の愚かさと頑なさを示していると言えるだろう。


自分の夢を誤解していないか

本書は数多くの関係者、当事者に取材をしているものの、エリザベス氏本人は自らの権利擁護のために話をしていない。そのため、彼女がなぜこんな大それたことをしたのか、故意がどの程度あったのかは、直接語られてはいない。

しかし、ジョンさんはエリザベス氏の心中に肉薄している。たとえば、セラノスの化学者アンジャリ氏が、欠陥だらけの商品を世に出すことに倫理違反を感じ、エリザベス氏に訴えたこのシーン。

 アンジャリが辞めると聞いたエリザベスは、彼女を自室に呼び出した。なぜ辞めるのかと訊ね、引き留めようとした。アンジャリは同じ懸念をくり返した。エジソンのエラー率が高すぎ、ナノティナーには問題がある、と。4Sの完成を待てないんですか? なぜ今急いでサービスを開始しなければならないんですか? そう訊いた。
 「私は顧客との約束を守る人間だからよ」とエリザベスは答えた。
 アンジャリにとってはまったく理にかなわない答えだ。ウォルグリーンはただの事業提携先でしかない。セラノスの本当の顧客は、ウォルグリーンの店舗に来て血液検査を頼み、検査結果を信じて医療判断をしようと考えている患者たちのはずだ。(p226)

ああ、そうか。エリザベス氏は本当に夢を信じているのか。

不正な商品の完成を急いだ理由は「顧客との約束を守る」ためだった。夢の血液検査を信じ、お金を払っている事業提携先。ある意味、不正を働くことが誠実さだと信じきっていることがこの一言から垣間見える。

しかしアンジャリ氏の指摘する通り、血液検査の真の顧客は患者だ。そして不正によって被害を受けるのもまた、患者だ。エリザベス氏の夢の範疇にはなぜか、もっとも弱い立場にあり、もっとも大切なはずの存在が入っていない。

これは本当に恐ろしいことだ。そして自己点検しなければならないと、わたしたちを戒める事実だ。その夢は本当に、公正で誠実な夢だろうか?

ジョンさんはさらに、エリザベス氏の夢をシリコンバレー全体が待ち望んでいたという環境的な背景まで指摘する。これにも耳を傾けたい。

 エリザベスはたしかに目立ちたがり屋だったが、これほど一気に有名になったのは、彼女が仕掛けたばかりとは言い切れない。男性が支配するテクノロジー業界に風穴を開ける女性起業家を社会が待ち望んでいたところに、エリザベスが登場したからだ。(p269)

男性社会に風穴を開ける女性起業家。それを歓迎する、多様性あるシリコンバレー。こんな「ストーリー」を成立させるキャストが求められていた。深読みすれば、本質的には男中心の社会が、多様性を取り繕うためのベールを求めていて、だからこそエリザベス氏やセラノスの不正に目を瞑ったともいえるのではないか。

夢には不誠実な夢もある。そして環境が夢を利用し、汚染することがある。セラノス社の転落劇を見終えた私たちは、やはり問い直さないといけない。その夢は本当に、公正で誠実か?



次におすすめする本は

文中でも触れたマルコム・グラッドウェルさん「トーキング・トゥ・ストレンジャーズ」(光文社)です。これを読めば人はなぜ騙されるのか、誤解するのか、分かり合えないのかが深掘りされる。セラノスが特殊な事件ではなく、わたしたち自身にも危険性は内在しているとわかります。

詳しい感想はこちらに書きました。


この記事が参加している募集

#読書感想文

187,064件

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。