見出し画像

道標になるー読書感想#11「疫病と世界史」

ウィリアム・H・マクニールさん「疫病と世界史」(佐々木昭夫さん訳)が、今の世界を生きる上での道標にあふれていました。世界史を動かしてきたのは戦争や災害といった「マクロ」だけではない。感染症という「ミクロ」がローマ帝国を、中世ヨーロッパを劇的に変えた。そのことを見出すマクニールさんの知性に刺激を受けて、少しでも学び取りたいと感じました。


ミクロ寄生とマクロ寄生は相似する

マクニールさんの思考の大枠は「ミクロ寄生」と「マクロ寄生」です。「感染症による人類への寄生=ミクロ寄生は、人類による地球の生態系への寄生=マクロ寄生と極めて似ている」という視点が、考察のベースになっています。

 ところで、人類の他の生物に対する生態的立場を、病気のうちに分類しても特に奇矯とは言えまい。言語の発達に伴って人類の文化的進化が古来の生物的進化と衝突しだして以来、人類はこれまで存続した自然界のバランスを崩壊させてしまうことが可能になった。これは病気が、一人の宿主の体内の自然的バランスを壊すと軌を一つにしている。(上巻p56)

感染症は「地球にとっての人類」のようなものかもしれない。この考え方には、地球=宿主と人類=感染症が「バランス」していくし、バランスしていかざるを得ないという考え方が内包されている。

またマクニールさんは「人類による人類の寄生」、つまりある人間集団が別の人間集団に襲いかかり、その資源を活用する「軍事行動」もマクロ寄生であり、やはり感染症と似たものだと述べる。

 病気の歴史をさらに見ていく前に、感染症疾患というミクロ寄生と軍事行動というマクロ寄生の間に存在する相似性を指摘しておくのも無駄ではあるまい。文明化した共同体がある水準以上の富と技術を蓄積したとき、初めて戦争と略奪が経済的に引き合う事業となる。だが収穫物を力ずくで奪い去ることは、それが農耕労働者をすみやかに餓死させるとしたら、これは不安定な形のマクロ寄生である。(上巻p104)

軍事行動が(伝統的に)他国を侵略しつつ殲滅はしないように、感染症もまた人間を資源として活用できる範囲で「生かしておく」面がある。だから、致死的な病は一定程度で流行がおさまり、そのうちに風土病や小児病に変質していくと指摘しています。

この考え方に触れることで、感染症は人類が地球に対して行っているように、あるいはある国が他国に行っているように、寄生をしているんだと肝に銘じられます。「人間の側」からすれば感染症という小さな存在を押さえ込もうとしているようでも、実際は「防戦」だし、それでおかしくない。ましてや殲滅し返すことは困難だし、むしろどういったバランスを見出すかが問題になるんだと思えます。


感染症は「それまでの権威不信」を招く

本書を読んで一番の学びとして受け取ったのが「それまでの権威不信」というべき現象です。感染症(ウイルス)が顕微鏡で見えるようになったのは19世紀になってからの話で、それまでは文字通り「目に見えない厄災」だった。その結果、「この帝国、指導者、政府はなぜこの厄災を招いたのか。防げなかったのか」という不信感を、何度も何度も招いてきた。

マクニールさんは「だからこそローマ帝国でキリスト教が普及したのではないか」と指摘します。

ローマ帝国で「疫病」は珍しくなかった。リヴィウスは共和制の時代、紀元前387年から少なくとも11回の疫病の大流行があったと記録している。その後も紀元前65年や、紀元後165年にもあったらしい。この疫病は現在で言う天然痘か、その原型が疑われますが、何かはよく分からないらしい。当然、ローマ帝国の住人は「なんなんだ」と思う。そして帝国が偉大なら、なぜ防げないのかと思う。もし厄災が「起こるべきもの」ならそこにどんな意味があるのか。

こんな強烈な不満と疑問に答えたのが、キリスト教だった。なぜならキリスト教は「死」を意味あることにしてくれるから。現世の理不尽も苦労も、神の意思であり、その報いを死後に与えてくれると約束してくれたから。

 前代未聞の疫病がもたらす恐怖と精神的衝撃にもこのように対処し得る至高の包容力こそ、ローマ帝国の抑圧された下層民にとってキリスト教が持った魅力の、大きな部分を占めていたのであった。それに比べてストア派その他異教の哲学体系は、非人格的な諸力による生成消滅と自然法則を説きはするものの、死が突然、老人と若者、富める者と貧しき者、善人と悪人の別なく降りかかってくるこのどうしようもない不合理に、納得のいく説明を加えることなどとてもできなかった。(上巻p202)

感染症の前では、「ナウ」を説明できない「ビフォア」の権威は失墜する。逆に、「ナウ」に適合する新しい考え方・テクノロジーは急速に支持を獲得する。これは現代にあっても起こり得る変化なんだろうなと思います。


一変した風景に可能性の萌芽がある

「権威不信」には、未来につながる可能性の「萌芽」がある。そのことを、ペストの流行期に「ラテン語が失墜し、世俗語が躍進した」という現象に見出しました。

(中略)だがペストが文学に与えた影響は、ほかにもっと永続的なものがあった。例えば多くの学者が言うことだが、世俗語が正式の文書にも使われるようにもなり、また西ヨーロッパの知識人の間で、共通語としてのラテン語が衰退していった現象は、この古代語を操れるまでに習得している聖職者や教師が大勢死んだことで早められた。絵画も突然の不可解な死に繰り返し直面することで引き起こされた、人間の生についての暗いヴィジョンを反映した。(下巻p56-57)

多くの犠牲は喜ぶべきものでは一切ないことは、言わずもがなです。しかし、世俗語が当たり前のように使われだしたことは、知の民主化、その後のあらゆる民主化のスタートになったのではないかと思えます。今につながる革新が、このとき引き起こされたとも思えるのです。

ローマ帝国とペストの例を見ると、感染症は「それまでの社会」から私たちを遥か遠くに連れて行ってしまう強風に思えます。「ビフォア」の景色は戻ってこない。そのことはきっと、覚悟せざるを得ないんだろうなと感じます。

だからこそ、萌芽に目を向けてみたい。100年後、1000年後、当たり前になっていること、人を豊かにする始まりが、いま芽生えるかもしれない。それだけでこの危機を乗り越えられるものではありませんが、ひとつのヒントにはしていけるんじゃないかと思いました。(中公文庫、2007年12月20日初版。単行本は1985年出版)


次におすすめの本は

ユヴァル・ノア・ハラリさんの「21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社)です。マクニールさん同様、世界史をこう見たら面白いんだという発見がありつつ、「未来の歴史」はこれまでの歴史とは非連続の変化かもしれないという警句ももらえます。


この記事が参加している募集

#読書感想文

188,500件

万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。